第1260話・矢作新川の開通・その二
Side:久遠一馬
矢作新川は史実の矢作川とほぼ同じ経路で作った。一部変えたところもあるものの、やはり史実の実績と経緯を見るとそれが一番だからね。
尾張ではお馴染みとなった、元の世界のような鉄の道具と人海戦術による工事だった。
費用は相応にかかった。ただし、今後発生する洪水の被害とか地域への影響を考えると決して高くはないだろう。
集まった人たちで周囲は人だかりが出来ていた。地元の領民や賦役に参加した者たちは、最後の水門より下流で水が流れるのを待っている。
あとは義統さんを筆頭に織田家重臣と三河衆もいる。今回は広く東三河と奥三河の武士も呼んでいるからね。
史実でも領内を開拓したり堤防を築いた武将はいる。ただ、現状の三河ではかつてない規模の大工事だった。
誇らしげにしている織田家の皆さんと、信じられないと言いたげな東三河衆の反応が面白いね。ああ、氏家さんだけは安堵した顔をしている。土務総奉行としてこの工事を途中から差配していたからだろう。
遅延や失敗は織り込み済みだからと説明してあったんだけど、不慣れな自分が担当して上手くいくのかとだいぶ不安もあったらしい。
川自体は氾濫しない程度に地形に合わせて曲がっている。一か所で見ると真っ直ぐに見えるところが多いけど、緩やかに曲がっているんだよね。これも水の勢いを抑えて洪水を起こさないようにする効果があるそうだ。
それと今回は今までにない目玉もある。石造りの橋脚だ。元の世界の錦帯橋をベースに橋脚を石で作って、橋を木造にした。アーチ橋なんかは、もとは古代ローマからあった技術で世界的に見ると目新しいものではない。もっとも日ノ本では当然初めてであり、矢作新川にまだ水が流れていないから作りやすかったんだよね。
石工は清洲城やいくつかの建設で石垣を積んでいたので、これも経験だと頑張ってもらった。技術指導は鉱石採取の合間にあいりとプロイがしてくれたようだ。
今回、開通前に神事を行うんだけど、そこに行く途中で顔見知りを発見した。道沿いに集まっていた領民の中に手を合わせて祈るお坊さんがいたんだ。
「長老殿。出家されたのですか。息災なようでなによりです」
剃髪していて一瞬誰だか分からなかったけど、矢作川氾濫の時に流された孫を探していた長老さんだった。
「久遠様……、流された者らと生きておる皆のために祈りを捧げる日々でございます」
気になって立ち止まると周囲がざわついた。長老さんもオレが声をかけたことに驚いたようで祈るのを止めて顔を上げてくれた。
「どうかお体に気を付けて、お勤めを果たしてください」
オレたちばかりじゃない。長老さんも自分に出来ることをして頑張っている。そう思うと嬉しかった。長老さんに一礼をしてオレは歩き出す。
あとで寺を調べて寄進をしておこう。元気そうで良かった。長生きしてほしい。
去り際に長老さんが目頭を押さえている姿が見えた。
Side:松平広忠
まさか川を作ってしまうとはな。信じられぬことをする。
矢作川の大水には悩まされておる地であったことは承知だ。堤を築くくらいはしているものの、新たに川を作り大水を抑えようとは。神仏の如き知恵ということか。
安祥城。あそこもかつては松平の城だった。今では見違えるほど立派となり栄えてしもうたがな。
岡崎の町も同じだ。関所がなくなり人の往来が増えた。尾張からはかつては高値で買えなんだ品が続々と入り、街道を整え広げるのだと賦役も盛んだ。
再建しておる岡崎城は出来ておるが、わしがそこに入るつもりはない。あれからもうすぐ二年となる。三河も変わった。わしは領地と岡崎城を織田に献上することにしたのだ。
家中からは多少の異論もあったが、すでに織田家では一族衆が領地を手放した。三河衆は未だ幾ばくかの領地と城を持っておるが、先日にはとうとう
頃合いであろう。
岡崎には於大と離縁したあとに正室として迎えた真喜とその娘や側室もおるが、これを機会に那古野の屋敷に迎えることとした。於大が勧めてくれたのだ。
父上は今の三河を見ていかに思うておるのであろうか? 一戦も交えず降り、城も所領も手放すと知ると激怒するやもしれぬな。
されど、もうかつてのように戦で国人を従えて領地を広げていく世ではない。
海まで続くという新たな川を見ながらそう思うしかなかった。
Side:吉良義安
水門が開けられると矢作川から新たな川に水が流れていく。土が瞬く間に見えなくなり川となる。
そのような水の流れる速さが、わしは織田と重なるような気がした。
吉良家の所領は相も変わらずだ。家臣が城と共に守っておるが、すでに織田に従い、織田の命じるままに治めておるに過ぎん。
一昨年の大水の被害とて、大水の後に織田の命により動いた褒美として田畑を復興していただいたのだ。最早、わしの命で動く者などおるまい。
そういえば、先月には今川の寿桂尼殿から文が届いた。思うところがあったが、文は開封せずに大殿にお見せした。内容は取り立てて用があったわけではない。ただ、息災にしておられるかと書かれておっただけだ。
返事をいかがすればよいかと大殿に問うたが、好きに書いてよいと命じられた。『今川も難儀しておるな』と一言こぼされたのが思い出される。
かつては先代の斯波武衛様を捕らえるほどの大勝をした今川も今は昔のこと。三河は直轄領である吉田城はかろうじて保っておるが、それとて織田ではこれ以上の領地が増えることをあまり望んでおらぬだけでもある。
今川を降して甲斐の武田や信濃が臣従をと言うては困ると誰かが言うていたな。貧しき地など要らぬ。織田でなくば言えぬことだ。
「石の橋脚とは凄い!」
新しき川に多くの民が喜んでおった。中でも石で橋脚を作った橋は十重二十重に見物人がおる。
崩れるのではと恐れる者もおれば、大水でも崩れぬのだと喜ぶ者もおる。話に聞くに南蛮ではようある橋なのだとか。地揺れにもそれなりに強く大水にも耐えるとか。
今川がこの橋を見たらいかが思うのであろうか。
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