第896話・晴信と氏康

Side:武田晴信


 信濃衆はわしを恐れる者や如何とも言えぬ顔をしておる者ばかりだ。無理もない。大半はわしを恐れ、従っておったに過ぎぬのだからな。


 ふと思うた。噂の仏の弾正忠とやらは、戦場にて如何に采を振るのであろうと。


 鬼や虎と呼ばれる武士はよくおる。されど仏と呼ばれる武士は聞いたことがない。さらに戦をすれば近年は負け知らずというばかりか、戦をせずとも臣従する者が後を絶たずに所領が増えていくという。


 羨ましい。心からそう思う。肥沃な土地であるという尾張なればこそ出来るのだと思うところもあるが、尾張に行った弟の典厩てんきゅうは仏の弾正忠を『天下に並ぶ者なし』とすら申しておった。


 騙し騙されるのが世の常。騙されれば先はない。まして甲斐は貧しい。上国などと言われておるが、尾張どころか信濃と比べても貧しかろう。典厩は尾張とのあまりの違いに悔しさすら湧かなかったとわしにだけ話してくれた。


 家臣らの進言で我が父上を追放し、信濃に狙いを定めてここまでやってきた。確かに誓紙を交わした同盟を破ったことは認めよう。されど言い掛かりをつけて同盟を破ることなどよくあると家臣らが申しておったのだ。


 何故わしだけが卑怯者と謗られねばならぬ。


「皆の者、よう集まった」


 いかんな士気が低い。これでは今川の思うつぼではないか。


「敵は誰であったか? そうそう、戦に勝てぬばかりか己の城も守れぬ男であったな。さらに仏の弾正忠から逃げ出した今川もおる。もし、あちらに寝返りたい者がおるのならば、遠慮せずにいくがいい」


 静まり返る者らを相手にわしは強く見せねばならん。


「御屋形様、織田が兵を率いて加勢に来るという噂が……」


 誰も動かぬが、ひとりの国人が恐る恐る問うてきたのは今川ではなく織田か。思わず胸をなでおろしたくなったわ。ここで今川を恐れる者が出ればわしでも止められなかったかもしれぬ。


「織田は来ぬ。織田と今川は長年の因縁ある相手。小笠原如きのために手を組むなどあり得ぬ。敵は小笠原と今川だ。よいか。今川の狙いは甲斐と信濃だ。必ずや奪いに来るぞ」


 織田が来ぬことはまことだ。利がないからな。信濃に来るくらいなら遠江に行くわ。確かに斯波は小笠原に借りがあると聞くが、あの愚か者のために兵まであげるものか。わしは我が子を人質に出してまで誼をもっておるのだ。


 もっとも、あの一手がなければ如何になっておったかわからぬがな。


「敵は小笠原だ。あの愚か者を誘い出すぞ!」


「おおっ!!」


 良かった。なんとか戦の前に味方が総崩れになることだけは避けられた。今川方は猛将岡部か。厄介な男を寄越したものだ。


 隙は見せられぬ。されど小笠原を叩き、信濃の国人衆にいずれが強いかはっきり見せぬと信濃を失いかねん。


 負けられぬ。わしは甲斐源氏武田家の武田晴信ぞ!!




Side:北条氏康


 小田原の町では早くも久遠殿が伊豆大島の民を救ったと噂になっておる。此度が初めてではない。地揺れの際には南蛮船に米や銭を積んで駆け付けてくれた。流石は仏の弾正忠様の猶子だと此度も評判だと聞く。


 わしは急遽評定を開き、事の仔細を一族や重臣らに明かして伊豆大島のことに対する意見を問うた。皆の意見は様々であった。懸念する者もおったが、それでも大きく反対した者はおらぬ。


 いずれ敵となるやもしれぬが、そのようなことは織田とて百も承知のこと。それでも織田はこちらに手を差し伸べたのだ。


 坂東武者として助けてくれた者を恐れ、離れ小島を惜しむような者にはなりたくはない。


「すまぬな。商いもあろうに留め置いて。伊豆大島のこと家中で話しておってな」


 留め置いておった久遠殿の奥方を前にこちらから切り出す。此度は一族の者や重臣も同席する中でのこと。如何な顔をするのか皆が見てみたいと申したのだ。


「実はな。伊豆大島とあの辺りの島。すべて織田殿にお譲り致そうかと思うてな。あの辺りの島は伊豆に属しておるので当家が差配しておるが、当家では助けも出せぬ島だ。それに織田殿と久遠殿には並々ならぬ借りもある。伊豆大島でそなたらの船がより走りやすくなるのならば、我が北条にとってもこれほど喜ばしいことはない」


 控えておる久遠家家臣が明らかに驚いた顔をしたが、雪乃殿はむしろ動揺したようで手ぬぐいで汗を拭った。以前会った大智殿や薬師殿と同じく聡明な女であることは確かであろう。されどこれは予期せぬことだったと見える。


 重臣らもそんな雪乃殿の姿にしてやったりと言いたげな顔をした。


「私ではお答えできません。されど、もし叶うのならば今より更に尾張と伊豆の商いは増えましょう」


「織田殿には文を書こう。すまぬが届けてくれ。伊豆大島の民はわしがそれまで預かろう。恐らく織田殿も喜んでくれよう」


 少し困った顔をしつつ商いを増やすとこの場で口にしたのは流石と言うべきか。出過ぎたことまではせぬというのに、こちらの望みをわかっておる。家臣に欲しいくらいだ。


「畏まりました」


「荒れた世だ。結んだ誼は大切にしたい。裏切りなど武田だけで十分だわ。尾張は皆で力を合わせておると聞く。わしも一度見てみたいものよ」


 先日雪乃殿に会ってからわしもいろいろと考えた。織田と久遠は如何なるものを見ておるのかとな。


 結局わしにはわからなんだが、それでも試してみとうなった。まことに日ノ本をひとつにまとめ、戦のない世を創らんとするのかをな。


 関東の地で見極めさせてもらおう。織田がいかに動き世を変えていくのかをな。東に北条があらば織田は四面楚歌になるまい。その価値は決して低くはないはずだ。


 西堂丸と松千代丸が尾張にて驚くほど立派になって戻った礼だ。


「左京大夫様のお言葉。尾張に戻り、必ずや我が殿や主筋の方々にお伝え致します。それと私如きが申していいことではありませんが……北条家の皆様方のお心遣い、この久遠雪乃、終生忘れません」


 凛とした顔で真っ直ぐこちらを見る雪乃殿を、家臣らも見入っているように思える。強くありながら優しい眼差しだ。先ほど戸惑うておったというのに。


 盲信する気はないが、信じてみてもよいと思える。そうだ。久遠家の者らは皆このような強く優しい眼差しをしておった。


 乱世と言っても差し支えないこの世で、太平の世の夢を見せる者らか。織田殿はこの目を信じておるのやもしれぬな。


 楽しみであるな。まことに世を変えられるのか。






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