第895話・信濃の戦
Side:
信濃か。確かに尾張よりは攻めるのは容易いようだな。わしは今でも尾張と戦をするべきだと思うが、御屋形様のお決めになられたことには従う。
無論、織田が手強いことなど百も承知よ。されどな。戦う前から逃げてはならんと思うのだ。逃げたと知られれば何処までも付け込まれるだけではないか。
まあ、それはよいか。わしは駿河からは二千の兵を率いて遥々信濃までやってきたのだが、味方になる信濃衆があまりにも使えぬ者らであることに皆が如何とも言えぬ思いを抱えておる。
「己は! わしの領地を荒らしたな!」
「知らぬ! なんの証拠があってそのようなことを言うのだ!!」
それもそのはずだ。目の前では信濃の国人が、また詰まらぬ言い争いをしておる。今にも刀を抜きそうな者らを家臣や周りの者らが止めておる。これで何度目だ?
兵を集めれば多かれ少なかれ勝手をする者が出る。とはいえ味方が戦の前からこれほど険悪なことは駿河では見たことがない。こやつらには恥というものがないのか?
数年前に武田に大勝した北部の村上は来ておらぬ。小笠原殿ばかりか御屋形様も声をかけたようだが、結局は来なかった。小笠原殿は武田に負けたばかりか城まで失った男。村上は御屋形様ならいざ知らず、そのような男には従えんと言うておったと聞く。
「斯波と織田と今川の名で戦か。それでもこのような者しか集まらぬとはな」
同じく駿河から来た今川家家臣が小声で呆れたように囁く。小笠原殿は己には斯波と織田の助力があり、今川も援軍を寄越すと吹聴してようやく集めたのが二千余名ほど。
確かに斯波は銭を与えておるようだが、義理から与えておるだけであろう。御屋形様もまた小笠原など如何様でもよく、武田を叩き甲斐を得たいのだ。それをまるで皆が小笠原殿を認めておるかのように吹聴しても、これほど人が集まらぬことは珍しい。
小笠原殿では誰が味方しても勝つかわからぬと皆が思うておるのだ。武田は村上には負けたが、それでも信濃では勝っておるからな。
「岡部殿、敵方も三千から四千。大将は武田晴信のようでございます」
「ほう、晴信が出て参ったか。勝算があってのことか? それとも出てこぬと戦にもならぬほど士気が低いのか?」
信濃衆があてにならぬのでこちらで物見を出したが、驚くことに武田は晴信がこちらに来たか。甲斐は湯之奥金山にも駿河から兵を送っておるはずだ。あちらは御屋形様と雪斎和尚もいるというのに。
「敵は東国一の卑怯者! 武田晴信ぞ! 奴の首を取った者には望みの褒美を取らせるぞ!!」
物見もまだ出しておらぬようなので小笠原殿にも知らせてやるが、まるで天が味方したと言わんばかりの喜びようで味方に奮起を促す。晴信は東国一の卑怯者か。ならば己は東国一の無能者ではないのか?
まあ、そのほうが今川家としては好都合だがな。しかし褒美を与えると言うても如何にして与えるのだ? 己は城も持たん無能者が。
「岡部殿、無理攻めをする気ではないのか? 止めずとも良いのか?」
「放っておけ。わしが助言をしても聞くような男ではあるまい」
とはいえいささか困った男だ。こちらは無理に攻める必要などないというのに。甲斐は今年も米が不作だと聞く。武田に勝ちを与えぬように対陣しておるだけで、敵方の信濃衆が寝返るかもしれんのだぞ。
弓が得意だと聞くが、用兵は元服前の童と同じか。
「奴らはあまり期待するな。こちらはこちらで動く。御屋形様が甲斐を攻めておるのだ。晴信をここに釘付けにするだけでもよい」
まあよい。戦が始まって小笠原殿が逃げても、わしが御屋形様に内通しておる信濃衆をまとめて戦ってやるわ。
小笠原家が如何になろうが知ったことか。
Side:
「おーい、金さん。八郎様がお呼びだ」
オレの名は東島金次。通り名は金さん。殿が付けてくださった名だ。名字は武士となった時に殿から頂いた。遥か東の島が御本領である久遠家に仕えることから付けてくださったらしい。
お仕えしてから五年になるか? 時が過ぎるのは早いと思う。久遠家が尾張で召し抱えた者では最古参のひとりになった。今では馬廻りのような役目すら仰せつかることがある。
武芸も学問も死ぬ気で頑張った。今じゃそこらの牢人には負けないと自負している。武芸の腕前は柳生一門のみんなにはまだまだ負けるがな。
それでも刀、槍、弓、鉄砲、大砲まで一通り使える。彦右衛門様からは鉄砲の才があるとお褒めの言葉を頂いて、武芸大会でいいところまで勝ち残ったこともあるんだ。
「お呼びでございましょうか?」
「うむ、清洲に参るのでな。供を命じる」
「畏まりました」
滝川八郎様。わざわざ甲賀から久遠家に仕官しに来られたお方だ。礼儀作法などまったく知らなかったオレを、まるで父のように教え導いてくださったお方になる。妻となったお紺と喧嘩した時などには、八郎様と奥方様がオレとお紺のことを案じて諭してくれたこともある。
どんどん出世なさる殿を支えて、尾張に忠義の八郎ありと言われるまでになられた。故郷の近江でも今や知らぬ者はいないとすら言われるのに、オレたちと出会った頃とあまりお変わりになられない。
「だいぶ寒うなったの。そなたの子の久丸は如何しておる?」
「はい、近頃は言葉も話すようになりました」
「そうか。それはよいの」
八郎様と共に馬に乗り清洲に行く。途中、すっかり寒くなった空を見上げ、八郎様にオレの子のことを問われた。二歳になる子だ。武士の子は幼名を付けるので久丸と名付けた。名はお世話になっている八郎様にお頼みして付けていただいたんだ。
二月に一度は病院にて診ていただいているが、元気で将来が楽しみだとお墨付きを頂いた子だ。もう少し大きくなったら牧場村でいろいろ学ばせたい。
「尾張は変わりましたね」
那古野と清洲の間はすっかり変わった。入会地ばかりか田んぼも減ったところもある。もう昔のオレたちのように暇を持て余して、飯を食うことに困るような者は見かけない。
「そなたの子がもう少し大きゅうなったら、殿が尾張にお越しになる前のことを話して聞かせてやればよい。今ある暮らしがいかに得難いものかを子らに伝えていかねばならぬ」
「はい、そうでございますね」
オレの子らは食うに困ることなんてないだろう。それがいかにありがたいことか教えていこう。八郎様も尾張に来られる前は苦労をされたと聞いている。思うところもあるんだろう。少し遠くを眺めつつそうおっしゃられた。
今日よりいい明日を。失敗や敗北から学べ。それが久遠家ではよく言われることだ。
頑張ろう。明日のために。久遠家のために。妻や子のために。
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