第807話・大器の前に……

Side:武田晴信


 躑躅ヶ崎館は重苦しいまま春を迎えた。


 今川に攻められておる湯之奥はなんとか守りきったが、守っておっただけであり言い換えれば米粒ひとつ得られてはおらぬのだ。


 さらに信濃では後手に回っておる。今川は信濃守護である小笠原長時を筆頭に、わしに逆らう信濃国人を焚き付けておるばかりか、我が方の国人にまで謀を巡らす始末。


 今や東国一の卑怯者とも言われ、武田は誓紙を交わしても無駄だとまで言われておる。


 信濃の所領を得てまだ数年、武田を追い出してしまいたい者は未だに多いのだ。今川とすれば楽な謀であろうな。


 いつ蜂起して戦になってもおかしくない。今川が援軍を寄越せば信濃の所領は落ちるかもしれん。


「尾張は甲斐とは随分と違うようであるな」


 この日、先日届いた西保三郎からの文を読みつつ、未だ見たこともない尾張を思う。


 戦をせずとも食えるばかりか、民が酒や菓子を食うておるとある。にわかには信じられぬほどであるな。


 西保三郎に付けた真田によると尾張者は戦にも強く、明や南蛮の知恵を知る久遠の兵法が脅威だとある。一方で甲斐から付けた者からは、尾張者は武士の本分を忘れて贅沢をしており武芸もおろそかにしておる者も多いとある。


 さらに家中には肥沃な土地の尾張者は軟弱だと豪語する者もおり、尾張に送った真田らが贅沢をしておるのではと不満をこぼす者もおる。


 だが、わしは望んで贅沢をしておるとは思わん。こちらが羨むほどの米や銭が尾張にはあるのだ。当然ながら治める者の暮らしは変わる。民でさえ酒を飲み菓子を食うというならば、武士はそれ以上であろう。


 そんな国で甲斐と同じ暮らしをせよと言うは、我が武田家が貧しいと尾張にて喧伝しておるようなもの。


 西保三郎には斯波家と同等の、家臣には織田と同等の暮らしをさせるのが当然と言えよう。されどそれすら叶わぬのが我が武田家の現状だ。米や銭を送るとしても甲斐から尾張は遠い。途中の関所で多くの税が取られるのだ。


 現に西保三郎らの暮らしぶりを憐れんだのか気遣いをしたのか、尾張では真田らが頼まれて学問の師をして褒美をいただいて暮らしておるほど。


「今川が逃げ出すには訳があるということか」


 思わず口に出てしまった言葉に、ため息がもれそうになる。だが近習もおるのだ。安易にため息をする姿など見せられぬ。


「兄上、尾張には某が参ればよろしいのでございましょうか?」


 わしの言葉に控えておった弟の典厩信繁が声をかけてきた。少し顔に出てしまったか? 弱音と聞こえる言葉は吐けぬ、弱気と見える顔など見せられんのだ。家臣どもが裏切らんとも限らん。


「うむ、尾張には三条家の義父殿も来るようなのだ。少しでも誼を深めたい」


 さて、決めねばならんのは西国の大内義隆の法要とやらに送る者だ。西保三郎がもう少し大きければ西保三郎でもよいのだが、元服前では任せられぬ。


 尾張からの知らせでは京の都の公家ばかりか近隣の有力な者も集まるとのこと。この機会に少しでも汚名をそそいで誼を結んでおかねばならん。


 わしは甲斐から動けん。かつて父を追放したように今度はわしが追放されかねんのだ。武田は卑怯者だと言われること、家中の者らも許せぬと怒り心頭であるからな。


 すべてをわしに被せて典厩を新たな当主として動いても驚きはない。


 同時にわしを裏切らず尾張にて役目を果たせるのも典厩しかおらん。なんとかこの役目を果たしてもらい、苦境を打破せねばならん。


 義元め。今に見ておれ。駿河など攻め入って今川など滅ぼしてくれるわ。




Side:久遠一馬


 今日は熱田祭りだ。これがくると夏も間近だなと実感する。今年は花火が津島神社での開催なので、昨年の花火大会があった祭りよりは人出は多くない。


 それでも花火大会をやる前に比べると人出は多いんだそうだ。この時代の人は信心深いので今年も熱田神社に行ってお参りしようという人はそれなりに多いらしい。


 熱田神社の大宮司である千秋さんは喜んでいたな。やはり寺社は人々に信仰されることが嬉しいようだ。


 ウチは恒例となった屋台を出す。今年も孤児院の子供たちが頑張ってくれている。子供たちは久遠家の屋台を出すのは自分たちの役目だと考えているようで、張り切って準備から当日の販売までやってくれているんだ。


 たまにはゆっくり祭り見物をさせてあげたいとも思うんだけどね。オレが思う以上に屋台をやることに使命感というか誇りを持っている。


 もちろんその分だけ夏には海に海水浴に連れていったり、事実上のキャンプと言える野営とか連れていってあげているけどね。


「頼もしい子たちだね」


 オレも手伝おうとしたんだけどね。さっき顔を出したら、子供たちに任せてくださいと言われてしまった。リリーいわく、オレにゆっくりとお参りと祭り見物をしてもらおうとみんなで話し合ったみたい。


「私も子供たちに教わることが多いわ」


 今日のお供はエルと千代女さんとリリーだ。本当はエルと千代女さんだけだったんだけど、子供たちの屋台でリリーも加わった。これも子供たちの意思によるものだ。お袋様にオレと一緒にお参りしてもらうんだと決めたらしい。


 リリーは嬉しそうだ。本当の家族のように接して育てているからね。子供たちの成長にほろりとしていたように見えた。


 もうすぐこの世界に来て五年になる。十年一昔という言葉があるが、この時代で五年も過ごしていると世の中の流れの速さや人の変わる速さを実感する。


 幼子ばかりだった孤児院も働ける子が増えていて頼もしい限りだ。


「これは久遠殿」


 そのまま熱田祭りを見物していると、柴田勝家さんと出くわした。奥さんも一緒だ。


「権六殿、御子のご機嫌はいかがですか?」


「うむ、毎日元気でな。家が賑やかになったわ」


 勝家さんは今年の春に嫡男となる子供が産まれている。ケティが定期検診をしていて話は聞いているが、勝家さんに話を振ると夫婦で嬉しそうに顔を綻ばせて語ってくれた。


 元の世界の史実では織田信行の家老となって、後に織田信長の家老となり最終的には織田家筆頭家老とも言われた人だ。


 オレたちの影響で変わったこの世界の織田家でも活躍していて、評定衆に推挙する声もある。文官、武官双方の仕事が出来るので忙しいひとりになるだろう。


 評定衆や奉行などの役職についていないのは、勝家さんが出来る仕事が多いからでもある。さらにジュリアなんかは武官のトップ候補のひとりとして考えているようで、積極的に鍛えてもいるらしい。


「あれから五年ほど過ぎましたな。まさかまことに労咳が治り、我が子を授かるとは……」


 楽しげに赤ちゃんの様子を教えてくれていた勝家さんだが、ふと空を見上げてこみ上げてくるなにかを押さえるような仕草をした。


「権六殿と奥方殿の努力の結果でしょう。喜ばしいことでございます」


 彼が史実のような最期を迎えることは間違ってもないだろう。織田家の状況も違うが、史実では得られなかった実の子は勝家さんの人生を変えるはずだ。


「久遠殿も無事に子が産まれるとよいですな」


 最後に勝家さんはエルを見てオレとエルの子の話をした。


 勝家さんは隠しているが、オレは知っている。オレの子供に関して、母子共に無事で産まれるようにと祈祷を密かに頼んでいることを。


 元の世界の歴史では秀吉と比較して保守的な人に描かれたことが多いが、オレの知る勝家さんは織田家の変革にちゃんと付いてきている。


「今度、またお酒でも飲みましょうか」


「それはようございますな」


 幸せそうな勝家さんと奥さんにオレたちの心も温かくなる。


 人は変われる。勝家さんを見ているとそう思える。頼もしい仲間だ。



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