第770話・織田領の様子

Side:久遠一馬


 じわりじわりと流行っているインフルエンザ。少し面倒なことになっているのは関ケ原だった。


「こんなこともあるかと思ったんだけどね」


 ため息交じりに報告に耳を傾けるが、エルたちも資清さんもなんとも言えない表情だ。


 風邪の症状がある人は関所を通さず領内に入れない。関ケ原、今須宿の西側で実施している対策のひとつになる。関所の兵の皆さんや賦役の領民たちは症状が出たら軽いうちから静養と治療をしているが、一方で入れなかった商人や旅人が関所の近江側に留まり、体調が良くなるまで動かない。


 結果として関所の近江側ではインフルエンザが流行している。


「薬も安くはありませぬからな」


 渋い表情の資清さんも仕方ないと割り切っている。お金を出せば治療はしている。とはいえお金を出し渋り、またお金がなくて、関所の近江側に治るまで居座る人が少なからずいるんだ。そんな人が風邪をさらに他人に移してしまっている。


 あと何処から聞きつけたのか、織田領に行くと無料で治療をしてもらえると近江の村から遥々来る人もいるが、基本的にお金がないと治療はしない方針になる。


 最初の年の三河でも結構あったことだが、人の往来があれば織田領のことも相応に知られる。最初の年の場合は、本證寺の対策として領外の人も治療していたが、無尽蔵にタダで治療というのは望ましくない。


 あれは織田の民のための行政サービスだ。税を納めて一緒に働いている人のものだと説明しているんだけどね。


 まあ三河や美濃など、国境があるところは多かれ少なかれそんなことが起きている。


 仏の弾正忠様なら助けてくれる。そう思うのは構わないが、薬も食料も有限だ。当然ながら優先順位がある。


「お金がない人は仕方ないけど、払いたくない人が困るんだよね」


 この件に関して、戦略的な見地と人道的な見地からいくつかの抜け道を用意している。他国の人も移民前提であることや、織田の賦役で治療費を働いて返す人は治療をしている。


 仏の弾正忠という信秀さんの名声を傷つけずに、こちらとしてもなるべく困っている人は助けたいんだ。まあ北近江の国人衆とすれば自分たちに出来ないことを他国がする。迷惑な話だろうが。


 六角家にはすでに根回しはしている。なるべく地域を騒がせたくないとの理由で大きな問題にはなっていない。


 厄介なのは旅人と商人だった。風邪程度ならしばらく我慢すれば治ると、治療を望まずに他人に移している人たち。移民をする気もなく、また働いて返すということも拒否した人たち。


「あれも春までには出来るかしらね」


 現状ではなるべく関所の近江側には人を近づけないように命じるしか出来ない。そんな話でまとまると、メルティは庭から聞こえる大工さんの仕事をする音に耳を傾けていた。


 実はウチの屋敷に新しい施設を造っている。


「尾張にもあのようなものが造れるとは……」


 太田さんが遥か久遠諸島を思い出して感慨深げにしている。現在造っているのは硝子の温室だ。


 骨組みは木製であり、島から運んだ板ガラスをはめて温室にする。名目は作物の研究だ。


 当面は南国のフルーツでも作ってみようかと思っている。信秀さんとか義統さんが噂に聞く南国のフルーツを食べたがっているんだ。


 温室の性質上、熱源のある工業村なんか作るには最適なんだが、如何せん前例のないことなんで機密保持とテストを兼ねてウチの那古野の屋敷に作ることになった。


 この温室のために以前は火縄銃の射撃訓練をしていた場所を潰している。射撃場は清洲郊外の運動公園にもあるし、那古野の学校の拡張に伴い、学校の近くに弓の訓練場などと一緒に新設している。


 那古野も町が拡大しているし、区画整理もしていて人が増えている。ウチの屋敷って城にも近いことから人通りも多くなっているため、最近はあまり使っていなかった場所だ。


「尾張でも試せることは試していかないと」


 そうそう硝子といえば工業村に小さいが硝子工房が出来ている。以前に原始的な硝子のアクセサリーを作ってエルたちが貰っていたが、その流れで硝子工房を設けた。


 板ガラスは難しいだろうが、ちょっとした硝子のアクセサリーくらいは作れるし、それでも十分な商品にはなる。あとは職人の育成と技術習得か。


 定期船で尾張にやってくる、アンドロイドのみんなが指導したりしながら試しているらしい。


 尾張の職人たちも変化しつつある。最新の技術を持つ工業村にそれ以外の職人も競うようにしている。それと足踏み式旋盤による木材加工工房を蟹江に設けた。船舶用の木材加工が間に合わないのが原因だ。


 あれには船大工たちも大いに刺激を受けたようで、旋盤そのものを造船に使いたいという意見もあがってきている。


 なんか、尾張だけ別のステージで発展している気がしないでもないね。




Side:安藤守就


 弟に安藤家の家督を譲り、倅と共に清洲城にて織田家に仕えておる。飼い殺しかと半ば思うておったが、まさかこの歳になって文官と共に忙しく働く羽目になるとは。


 日々入ってくる報告書に目を通して不備がないか改めて、必要に応じて書に記載する。


 安藤家など物の数でないほどの銭と人が清洲城では動く。尾張のためではない。美濃や三河にも信じられんほどの銭を使う。本領ではないのだぞ。


「これは……」


 そんな書状に入っていたのは、安藤家の旧領の一部の賦役の書状だった。毎年のように小規模ながら水害が起こる面倒なところだ。遊水池の造成を織田が主導して行うらしい。


「いかがした?」


「いえ、新参の所領にもこれほど早く賦役を行うとは……」


 わしを預かる斎藤新九郎殿が驚いたわしに声を掛けてきた。斎藤家は主家だったのだ。わしにも含むところはない。それ故、思うままにわしは驚きを口にした。


「織田の賦役は必要なところから行う。それにそこは近隣で賦役がなかった故に、早く決まったのであろう。運が良かったな」


 すでに織田家の直轄領となったが、旧領がいかがなったのかは気になっておった。新九郎殿もわしの思いを理解したのか、少ししみじみと仔細を教えてくれた。


 所領に拘ったわしが臣従した場で、織田家では所領を整理すると決まった。いったいなんのためにわしは拘ったのかと、しばらくため息が止まらぬ日々だった。


「新たな世か」


「信じておらなんだのであろう? わしも同じよ」


 久遠家の夜の方がわしと弟の前で話したあの言葉、まことに偽りなどなかったのだな。新九郎殿も信じておらなかったと笑うておる。


「ここにいれば、それがまことであるとわかる。その分、忙しいがな」


 清洲城では、老いも若きも男も女も働いておるのだ。中には隠居して出家を考えていたが、取りやめて働いておる者までおる。


 孫に新しい着物を買い与えたい。孫の嫁入りの持参金を貯めたい。そんな者もおると聞く。


「そういえば、ここに来て以降、温かい飯が食えるようになったな。毒を盛られる身分でもなくなったと言えばそうなのであろうがな。悔んだことはない」


 ふと気が付くと時計塔の鐘の音が聞こえた。


 織田では昼に飯を食うのだ。新九郎殿はやりかけの仕事を済ませつつ、かつての暮らしを僅かに語った。


 長井隼人佐など山城守殿に敵意を抱く者らが周囲におり、このままでは殺されると囁かれておったそうだ。


 実の父に怯え、人を恨んで暮らすよりは、今の役目と暮らしのほうがよほどいいと笑われた。


 毒見を済ませたあとの冷めた飯がまずいのは言うまでもない。わしはそこまでしておらなかった故に、また違うが。


 皆、それぞれに思うところもあり、抱えるものもある。ただそれに折り合いをつけて生きておるのであろうな。





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