第762話・帰ってきた菊丸
Side:久遠一馬
「まさか、管領代が……」
関東から戻ってきた義輝さんは、なんとも言えない神妙な面持ちをしていた。定頼さん本人の意向で旅を続けていたとはいえ、こうなる可能性は事前に伝えている。それでもこれほど早く亡くなるとは思わなかったのだろう。
彼は藤孝さんと護衛として同行した塚原さんの弟子たちと共に馬を乗り継ぎ、ウチの船で戻っている。
尾張に戻り、そのまま蟹江のウチの屋敷に入ったので、こちらから会いに来て説明と話を聞いているんだ。
六角家には戻ってすぐに知らせを出した。義輝さん自身も明日には尾張を出立してこのまま近江の観音寺城に向かうことになる。
「旅はいかがでしたか?」
「ああ、旅は良かったぞ。苦労もあったが、師はあのまま奥州を一回りして北陸まで見せたいと仰せであった」
関東からは本来の旅と同じく大変だったみたいだね。でも奥州を見るのはいいことだったろう。実現していれば。この時代だと奥州なんて尾張から見ても、田舎の中の田舎というイメージしかない。
史実だと豊臣秀吉や徳川家康ですら、奥州は素直に臣従すれば従えるだけでほぼ済ませた土地だ。奥州、元の世界では東北という場所は自然環境が厳しいこともあり、近代まで長らく発展から取り残された場所でもある。
「一馬、管領代が亡くなり、今後いかがなる?」
「難しいことを問われますね。すぐには変わらぬかと。管領代殿はどうもご自身の死期を悟っておられた様子。懸案は一通り片付けております。ただ、どこかが綻べば、いかがなるかは私にもわからぬところであります」
義輝さんも理解している。今の日ノ本にとって定頼さんがいかに大きな存在だったかを。当面は定頼さんの遺した力の遺産で変わらぬだろう。
先日も懸念を考えていた北伊勢か。甲賀の三雲か、それに管領の細川晴元は若狭で健在だ。定頼さんの死を一番喜んでいるのは彼だろう。
「一馬、オレは頃合いをみて征夷大将軍を辞任するつもりだ。管領代には感謝しかない。それに殿下は困るかもしれん。されど足利家は一旦退いたほうがよいと思うのだ」
人払いをしている。ここにいるのは藤孝さんとエルとオレの四人だけ。そんな中で義輝さんは今後に関して自身の考えを口にした。
藤孝さんの感情を押し殺した顔がなんとも言えない。彼は足利家の行く末よりも義輝さん本人のことを憂いているんだろう。
「進むも地獄、退くも地獄というところですね。上様が退いても誰かが将軍になりますよ。足利家の力は今もって軽くはないです」
やはりそうなったか。事前に教えてくれたことは正直助かる。こちらはそれに合わせて動けるんだからね。とはいえ……。
まあ史実から想定すると、義輝さんが将軍に戻っても足利家の積み重ねた功と罪の呪縛から逃れられずに苦悩して似たような結末になるだろう。
『御輿は軽くてパーがいい』。元の世界で誰が言ったかわからない言葉としてあるが、この時代の将軍がまさにそんな感じだ。ところが将軍は過去の栄華を取り戻さんと動くので争いが絶えない。
「一馬、織田は立たんのか?」
その瞬間、藤孝さんの顔色が明らかに変わった。人払いをした内密な話とはいえ、そこまで踏み込むとは思わなかったのだろう。
「無理ですよ、上様。織田にそのような力はありません。また尾張や美濃の人々の命を懸けて畿内を安定させる意味など、こちらにはありません。尾張や美濃が畿内のように疲弊してしまいます」
十年早い。そう言おうとして止めた。別に義輝さんを疑っているわけじゃない。それを口にした時点で巻き込まれる。そんな気がしたんだ。
歴史。ある意味カンニングペーパーのようなものだ。大まかな流れがわかるのは、今もオレたちの利点ではある。だけどね、義輝さん。望まれてもいない天下取りで失うのは織田を信じてくれる領民たちなんだ。
オレには彼らを守ってやる義務がある。
「そうか。だが時が来れば、立たねばならんのではないのか?」
「そうかもしれませんね」
変わったなと思う。義輝さんは。織田は立ち上がることはないと聞いても、いずれうごかざるを得ないことを理解している。さらにオレたちが天下よりも領民を大切に思っていることも察してくれているようだ。
このまま将軍に戻って幕府の改革でもと一瞬思うが、それこそ義輝さんが殺される原因にしかならないだろうね。
将軍辞任。ある意味、義輝さんが長く生きられる唯一の道なのかもしれない。
Side:六角義賢
「御屋形様、尾張より使者が参りました。菊丸殿、尾張に到着したとのこと。近日中にはこちらに参るとのことです」
父上に祈りを捧げる日々を送っておるところに知らせが入った。遥か関東は鹿島におると聞き及んでおったが、意外に早く戻られたものだ。
「上様には済まぬことをした。父上は出来る限り上様の旅を続けさせたいと話しておったのだが」
倒れられたあと、父上とはいろいろ話をした。今までは話さなかった父上のお心の内も含めてな。父上は旅に出た上様が、世を知りいかに変わり戻られるかを楽しみにしておった。
最期の言葉。あれでその真意がわかった。父上もまた旅に出たかったのだ。自らの目で世を見てみたかったのであろう。思えばそんな節が以前からあった。
久遠殿が参った時も、海の向こうの話をあまり聞けなかったと残念がっておられたくらいだからな。
「内匠頭殿を頼れ……か」
内匠頭殿が並みの武士でないことはわしにもわかる。とはいえ三好殿でもないということに父上はどこまで先を見通しておったのであろうな。
『新たな世がくる』。確かに父上はそうおっしゃった。父上の死に顔は安らかで満足のいくもののように見えた。故に最期の言葉が忘れられぬ。
「御屋形様、三雲がなにやら密使を出した様子。恐らく若狭の細川に御屋形様の死を知らせたのかと」
考え込んでおると蒲生藤十郎が参った。父上が三雲を見張らせておった男だ。
「あの男は六角家に刃を向ける気か?」
「いえ、そうではないかと。ただ織田憎し、久遠憎しの男でございますので」
他国と通じる者も珍しくあるまい。甲賀衆から織田にも早々に父上の死は伝わったはずだ。とはいえ父上の意向に背いておったあの男を、父上は何故放置しておったのだ?
「父上の遺言には従わぬか。下野守、そなたは如何思う?」
「当面は見張っておればよいかと。あの三雲にはかつての力はありませぬ。すでに明との交易は破綻しており、甲賀衆の信もありませぬ」
そうか。三雲にはもうそのような力はないか。まさか父上は……。
「父上が三雲を放置したのは、時がなかったからか? それともわしに残したのか? 家中をまとめる策として?」
ここでふと思い浮かんだ。父上はあえて放置しておったのではないのかということだ。
「その双方であると某は考えております。奴に出来るのはせいぜい細川や三好に通じること。御屋形様さえその気になればいつでも処罰出来まする。それに……、もし北伊勢で織田と揉めた際には、差し出す首にもなりましょう」
ああ、そういうことか。いつでも斬り捨てられる男のひとりくらいは、おってもいいということか。
「北伊勢は揉めそうなのか?」
「若い者が尾張に出ていき困っておるという話はございます。織田が狙ったかわかりませぬが、あちらは人が足りぬ様子でございますれば」
人が足りぬほど栄えておるのか。勝手に出ていく者を、出ていった先に文句を言うても仕方あるまい。
なんとも面倒なことだ。
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