第545話・三河の様子

side:松平広忠


「殿、そのようなことなりませぬぞ!」


「そうでござる! 当家は今川家に従う身。それを織田に鞍替えするなどありえませぬ!!」


 尾張から戻ると落ち着いた頃合いを見計らって、織田への臣従を考えておると家臣たちに伝えたが、やはり反対する者が多かったか。


 今川家に臣従をして今川家中と血縁を持った者もおる。当家が未だ今川家と手切れになっておらぬ現状を思えば当然のことか。


「そもそも織田が殿の臣従をあっさり受け入れますかな? 先代様が尾張に侵攻したことはまだ忘れてはおりますまい」


「織田は民へは施しをするが武士には冷たい。織田に従った者や先年の戦で戦った者に銭で褒美を出してはおるが、領地は与えておらん。三河の国人を信用しておらぬのであろう」


 反対するとまでは言わぬ者も、臣従には懐疑がぬぐえぬ様子の者もおる。条件次第というところなのであろうが、当家はその点において不利になるのは確かか。


 先年の本證寺との戦のあとも原因だ。織田は本證寺やそれに加担した寺を潰すと寺領を召し上げて領地を整理した。


 織田に従った者は、それを分けてもらえるものだとばかり思っておったようだが、蓋を開けてみれば織田はすべて直轄領にしてしまった。


 まあその分、銭は気前よく褒美として与えておったようだがな。


「だが、美濃の斎藤も臣従をするらしいぞ。あそこが降れば、美濃はもう手向いできる者はおりますまい? 美濃が落ち着けば織田は三河に本腰を入れて侵攻してきますぞ」


「斯波様も織田殿も否定しておったが、本心ではあるまい。少なくとも西三河は今の織田ならば簡単に攻め獲れる。戦をしても今川家から援軍が来るのかすら怪しいではないか」


 喜んで賛成する者は表向きはおらぬ。とはいえ冷静に考えれば織田にあらがう力は当家にはもうないのだ。


「美濃では土岐家の残党が追放されましたな。手向いすれば良くてあれの二の舞いかと」


 本證寺では一揆を起こした者たちは皆殺しにされたが、尾張国内でも美濃でもそこまではしておらん。確かに美濃土岐家の末路が恐らく織田に手向いした先に待つものであろう。


 不承不承ふしょうぶしょうに臣従に賛成の者は苦虫を噛み潰したような顔でそう告げた。


「今川家は織田に我らと吉良家を始末させる気なのではないのか? 我らと吉良家が潰れると今川家が西三河を治めやすくなる」


「雪斎坊主ならやりかねんな。織田をうまく利用して西三河の一向衆を潰したのだからな。本願寺からは三千貫とも云われる銭をせしめたらしい」


 気になるのは年寄りたちか。未だに織田は弱いと考えておるようだ。父上の尾張攻めでは『あと一歩まで織田を追い詰めた』と自慢しておったからな。


 織田には安祥城を奪われて、小豆坂では今川家の助力があっても敗れたのだがな。そのうえ、近年では小競り合いでもことごとく敗れておるというのに。まあ、年寄りの数少ない自慢だ。いい思い出なのだろうな。


 そんな年寄りたちが未だに比するならば上だと考えておるのが今川家だ。織田の者とは会ったことはないが、今川家の雪斎和尚とは皆が会っておる。並みの男ではないのは確かなのだが。


 先年の戦の折に雪斎和尚はわしに対して、一向衆との戦は織田の策だと言うたが、あれが嘘だと言う者もまた多い。


 織田の策だという者もおれば、今川家が織田をいいように利用しただけだという者もおるのだ。織田も今川家も、そこのところの内情をつまびらかに明かすわけではないからな。仮に明かされても信じぬのが当然と言えば当然だが。


 結局、会ったこともない織田では、一時の勢いがあるだけだと考える者が多いのだ。その点で言えば織田を認め出向いた吉良家のほうが、まだ世の中が見えておるということか。



 美濃の斎藤家が臣従を申し出たというが、あちらは娘を嫡男の嫁に出しておる。粗末には扱われまい。


 こちらも結論を早く出したいが、このままでは家が割れてしまう。いかがしたものか……。




Side:織田信広


 安祥城の近辺も、すっかり賑やかになったな。今では町と言ってもよいほどの集落ができておる。


 元は本證寺の寺内町におった連中や岡崎などの西三河の他領におった連中もおる。


 ここ安祥城は織田家にとって三河の重要な拠点なのだ。尾張の本家から三河に運ばれてくる荷と銭が集まる。東海道からは少し外れておるが、近頃では安祥まで来る商人や旅の者も多い。


 この日、わしは本證寺跡地の周辺に来ておる。本證寺の跡地も今は更地となっておって、本證寺のかつての威容を偲ばせるものはほとんどない。偲ぶなど許されることではないがな。


 父上はここに石碑を建てて、本證寺の悪行を後の世に伝えるのだという。それを聞いた三河の一向衆が、顔色を真っ青にしておったほどだ。死しても許されぬのかとな。当然であろう。『死すれば御仏の許へ』を悪行に使うたのだぞ。


「殿、ここの田はいつ見ても素晴らしいですな」


 本證寺跡地の周辺には見事に同じ形に整えられた田んぼが広がっておる。すでに彼方此方あちらこちらには裏作の秋植えの麦を蒔いておる田んぼさえある。供として連れて来た三河衆が感慨深げにそんな田んぼを見ておる。


 本證寺の元寺領の後始末はまだ終わってはおらぬ。広い寺領の整理と田畑を整えることに加え、先年の水害からの復興などもあり、一年ではとても終わるものではない。


 こやつら三河衆は当初、褒美に土地を貰えぬと聞き不満を口にしておったが、土地を与えるのならば、そなたたちではなく久遠殿にやらねばならぬだろうと言うと黙った。


 本證寺の戦では犬山城の与次郎叔父上が活躍したが、策を講じて戦を整えたのは久遠殿と父上なのだ。与次郎叔父上や久遠殿が領地を得られておらぬのに、ろくな手柄もない三河衆に領地が与えられるはずがなかろうに。


 ただ家臣たちは、勝手にわしや父上が久遠殿を警戒しておると勘違いした。さすがにそんな噂はまずいので、織田の考えを説き明かしたが、納得させるのに苦労したわ。


「これで三河も変わる。尾張に先んじて変われば我らにも日の目が当たる」


 ここはすべて父上の直轄領だ。新しくここに入れた領民も尾張や元本證寺の寺領の領民など様々だが、なるべく元の土地とは切り離すようにした。ここは自身の土地だと勝手なことをされたら困るのでな。


 幾許かは勝手に本證寺領にて暮らす者もおったが、こちらも命じて移動させた。反発もあったようだが、二度とあのような一揆など起きぬようにするのだと言えば、大半が素直に従った。


 それと惣による村のいとなみも今後は織田に従うようにと命じて、従うと言うた者たちから、さきんじて田んぼを貸し与えた。


 村は元あったものを使い回しながら再建したが、すべて織田の銭でやったものだ。あくまでも貸し与えただけにすぎん。勝手に売り買いしたり、借り入れの担保にするのは禁じた。


 ただ、それでも三河の領民は、尾張のように豊かになるかもしれぬと希望を持っておる。


 わしに従う三河衆もまた、尾張でもまだ珍しい新しい田んぼと領地の治め方に期待しておる者も多い。


 尾張への対抗心はあるが、飢えや戦に悩み怯えるよりは食えるほうがいいのが本音のようだ。本證寺の坊主の代わりに織田が土地を治めるならば、以前よりはいいだろうと考えておるらしい。


「岡崎の宗家は今年も大変なようですな」


「もう関係ない。他家の話だ」


 今年は水害こそなかったが、尾張や西三河は米が不作気味だった。松平宗家が大変そうだとこちらにも噂が流れてきておる。


 されど、家臣たちはすでに他人事で案ずることすらほとんどない。もう松平宗家には戻ってきてほしくない。それがここにおる三河衆の本意と言っても過言ではないだろう。




◆◆

松平広忠。三河岡崎城城主。史実の徳川家康である竹千代君の父親。


与次郎叔父上。犬山城城主。織田信康。信秀さんの弟。


織田信広。三河安祥城城主。信秀さんの庶子。

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