第13話 黒田
頭に鈍い痛みを感じながら目をゆっくり開いて、二三度またたきをした。
見覚えのない天井。シーツの肌触りも匂いも知らない。
どこ? ――痛む頭に顔をしかめながら重たい上体を起こす。
畳の上に敷かれた布団の中から左右を確認すれば、左側にもうひと組み布団があった。
「ん、起きた?」
――さっ、……んのみやさん!?
驚きと同時に頭に鋭い痛みがはしる。
「まだ調子悪い?」
まだ、とはどういうことだろう。三ノ宮さんの言葉から私は調子が悪かったのだとうかがえる。
「微熱だったんだよ。酔ったからなのか、泣いたからなのかは判断できなかったけど……。今は、頭痛がするのかな?」
酔った、と聞いて
泣いた、と聞いてオレンジ色の夕陽が海の中に溶けていく情景が浮かぶのだが、その時の記憶は曖昧だ。
だけど、何かとんでもないことを言った気もする。
「どうしてここに?」
「覚えてない?」
覚えてないことに罪悪感を抱く。
「すみません」
「どこまで記憶ある?」
「ええと、サングリア飲んでから曖昧なんですけど、でも夕陽が沈む所は頭の中に残ってます」
「それだけ? 他には?」
「他に?」
「まじか。……いや……まあ、ここに着いたとき君は半分寝てたからね」
三ノ宮さんは脱力して悲しそうな顔をする。私は他に忘れていることがあるようだ。
それから三ノ宮さんは苦笑しながら昨晩のことを説明してくれた。
夕陽を見たあと、軽く発熱した私を休ませるために近くのホテルを探すことになった。脚元の覚束ない私をおんぶしながら探すが、しかし近くにあったのは民宿で、ひと部屋なら用意できると言われたそうだ。
「大変なご迷惑をお掛けして――」
「いやいや、いいよ、そんな。それより頭痛いなら、薬買って来ようか?」
「いえ、……」
「遠慮しないで。俺はコーヒー買いに行きたいし。それとも飲み物や食べ物の方がいい?」
「えっと……、じゃあお茶を」
「了解! じゃ、ちょっとコンビニまで行ってくるから、ゆっくり休んでて」
「はい。お願いします」
三ノ宮さんは爽やかな笑顔を残して部屋を出て行った。
部屋から出て行った三ノ宮さんを見送って大きく長い息を吐く。
格好良すぎて、距離が近すぎて、頭がおかしくなる。脳が軽くイカれてるんじゃないかと考えながら、窓辺に寄った。
砂浜と銀色に輝く海が見える。
脳裏に断片的に残る記憶をたどる。
海を背にして立つ三ノ宮さんは、
「格好良かった……」
砂浜に立つ姿はまるで銀幕スターのようにも見えて、スクリーンの向こうを見てるみたいだった。
だから何度も好きだなぁ〜としみじみ感じたのを思い出すと、ぽろっと「好き」がこぼれた。
「好き。……どうしようもなく好き」
胸が苦しい、痛い、切ない。
――と、その時。昨日の忘れていた場面が急に脳裏によみがえる。
「え……」
それは私が三ノ宮さんに「好き」だと言った場面。
「うそ。私言っちゃった?」
それから三ノ宮さんに強く抱き締められたことも思い出した。
さきほど三ノ宮さんが他の記憶は残っているかと、しきりに気にしていたのはこのことだろう。
私は痛む頭を抱えて畳に座り込んだ。
「私、あの時は柄にもなくはしゃいでて、楽しくて、テンション上がってて、しかも喉渇いてるところにお酒ガブっと飲んじゃって、……あーーーー、何やらかしてんだよ……。しかもこんな重大なことすっぱり忘れてたって、どうなの私の頭? 大丈夫? いや、相当バグってるわ……」
だけど、私が忘れているから三ノ宮さんもなかったことにしてくれている感じだろうか?
そうだ。このまま忘れたフリしてさよならすればいい。
そうだ。そうしよう。
そうだ。それがいい。
恋愛初心者の私にはその方法しか考えつかなかった。
コンビニから戻ってきた三ノ宮さんと静かに飲み物をいただいて、それから民宿を出た。
三ノ宮さんの口数が少ない。もちろん私も黙ったまま。
三ノ宮さんは時折、何かを言いかけるのだが、「やっぱり何でもない」と再び口を閉ざす。
私が昨日の告白を忘れていたことが原因だろうことは容易に想像がつくから、良心が痛む。
ごめんなさいと、心の中で謝りながら電車に乗った。
成就しない両思いほど苦しいものはないのかな、と考える。いや世の中にはもっと苦しいことがたくさんあるはずだと、気持ちに蓋をする。
車窓から見える景色が見覚えのあるものになっていく。そろそろ降りる駅だ。
「次の駅だよね?」
「はい。三ノ宮さんはどこまで?」
「一緒に降りるよ。心配だから家まで送らせて」
有無を言わさぬ調子の三ノ宮さんに、私は断ることも出来ず二人で電車を降りた。
降りると三ノ宮さんが私の手を握る。
少し驚いて手が震えた。
「そんな嫌そうな顔しないで?」
「……」
嫌なわけない。ただ苦しいだけ。
これ以上、三ノ宮さんのことを好きになりたくないだけ。
だって、もうどうしようもないほど好きだから……。
涙が出そうなのを、顔に力を入れて必死にこらえる。こんな顔、絶対見られるわけにはいかない。
マンションの下でお別れ……、そう思っていた私の手は引っ張られ、エレベーターの中におさまる。
無言の三ノ宮さん。
だけど、その三ノ宮さんの口が開くのが怖い。
エレベーターの中で足の止まった私の心音がひどく大きく聞こえる。
エレベーターを降りて部屋の前。
「ありがとうございました」
繋がれた手を引き抜くようにおろして、そのまま頭も下げる。三ノ宮さんが無言なのをいい事に、鍵を開けてひとり勝手にさようならしようとした。
そんな私の肩の前に三ノ宮さんの腕が見える。かと思ったら背後からぎゅっと抱き締められた。
「俺に……、言いたいこと、……ない?」
苦しみながらつむがれた言葉に胸がズキンと痛み出す。
ない、と答えるように首を横に振った。
「本当に?」
私は頷く。
「どうしたら……、君は素直になってくれるのかな……」
三ノ宮さんは私の気持ちを知っている。
でもそれは酔った私が言ったこと。
素面の私は覚えてないと思っている。
だからこそ、素面の私からの告白を望んでいるのだ。
三ノ宮さんの指先にぐっと力がこもる。鎖骨の上からそれを感じて、鼻の奥がツンとした。
「君の気持ちを言ってよ……」
「……私の気持ち……」
「うん」
「……ない、です」
「本当に?」
三ノ宮さんの辛そうな声が耳にかかる。
「……、お、……お世話になりました」
「なんだよそれ……。君は手強いな。……分かった、時間を掛けて君を口説くよ」
三ノ宮さんは私のこめかみ辺りに頬を寄せるとゆっくり腕を離した。とても名残惜しそうに。
「連絡先。今度こそ、聞いていいかな?」
この期に及んで教えていいものかと逡巡する。私は遠い田舎に帰る身。
連絡は簡単に出来るけど、簡単には会えない。それは余計に辛くないだろうか。
答えられず固まる私の耳に規則的な電子音が届く。それは鞄の中にあるスマホから。
――この音は電話だ。こんな時に掛かってくるなんて、タイミングが良いのか悪いのか……。
「電話?」
「はい」
「どうぞ、出て?」
スマホに表示された名前は【父】だった。
明日の引越しを前に心配してくる父ではない。何かあったのだろうかと思いながら電話に出た。
「もしもし」
『ばあちゃん入院した』
「え?」
父からの第一声に固まる。それは近い未来に起こり得ると想像していたものだが、実際に聞かされると驚きで、次の言葉がすぐに出なかった。
「な、なんで?」
『救急車』
何が原因で入院したのかと尋ねる私の耳に届いたのは運ばれた手段。
父も少なからず動揺しているのかもしれない。電話の向こうで黒田さーんと女性の声がする。「はい、ここです」と答える父。
『呼ばれた。また後で』
「ばあちゃん危ないの?」
『分からん』
そう言って父が電話を切る。要領を得ないまま通話が終了した。
「黒田? 大丈夫?」
「おば、……祖母が入院したって。どうしよう」
最悪の自体が頭をよぎる。予断を許さない状態だったらどうしよう?
最期におばあちゃんに会いたい。会わないと後悔しそうだと思った。
「どこの病院?」
「分からない。でも多分総合病院」
「どこの総合? 車出すよ」
私はそこで初めて三ノ宮さんに自分の地元がどこなのか話した。
「遠いな……。じゃあすぐ新幹線で」
「でも」
「『でも』って、何が引っ掛かかってるんだ?」
「引越し。明日引越し業者が来るから、とりあえずそれどうしよう」
「キャンセル? いや、俺に任せてくれるなら引越し立ち会うよ?」
「でも三ノ宮さん、明日仕事で――」
「今やらなきゃならないのは何? おばあちゃんの所に行くことだろ? 仕事なんて有給取ればいい。引越しも業者がくるんだし何とかなる。あとはそこに立ち会うのが俺で良ければ」
「……いいんですか?」
三ノ宮さんはとびきり優しく微笑む。
それだけで何だか泣きそうになった。というか、すぐに涙がこぼれた。
「泣いてる場合じゃないだろ。ほら仕度して! すぐに駅に向かおう」
三ノ宮さんは鍵の開いている玄関のドアノブを引いて私を中に促した。
自宅だというのに、三ノ宮さんの方が私よりきびきび動いてくれる。
引越時のためにまとめておいた薄いファイルを三ノ宮さんに渡すと、「こんなとこまで真面目だな」と苦笑された。
ファイルの中には引越し先の住所も書いてあるし、私の携帯番号も書いてある。
「何かあったらここに連絡をお願いします」
「了解」
「ここの鍵は最後、管理人さんに返却を」
「分かってるよ。大丈夫。こっちは大丈夫だから。準備できたなら、さあ駅に向かおう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます