第12話

 海の上はオレンジで、見上げれば群青色。


 テラス席にいる彼女の視線はもう俺なんて映していない。


「砂浜におりてみる?」

「え? ……はい、行きたいです」


 店を出て浜を歩く。というか、彼女はちょっと小走りだ。そんなに急がなくても夕陽はすぐに落ちたりしない。


 ゆっくり歩いても大丈夫だよ、とその背中に声を掛けようとした瞬間、彼女の身体が傾ぐ。

 あ、と思った時には俺の手は間に合わなくて、黒田は砂の中に膝を埋めていた。


「大丈夫?」

「ははっ、転けてしまいました」


 へにゃ、と笑う彼女。

 これはやはり酔っているな、と思いながら手を差し伸べる。


 だが黒田は俺が差し伸べた手の意図が理解出来ないのか「これは何でしょうか?」という顔をしていた。


「ほら、掴まって?」


 首を傾げながら、そろーっと手を上げる彼女。手を下ろされる前に掴み、勢い良く引っ張って立ち上がらせる。

 だけど勢いが良すぎたのか彼女の身体は俺の胸に倒れてきた。


 慌てて抱き止める。


 びっくりしたのは俺もだけど、彼女も。


 時が止まったかのように二人して固まる。


「…………」


 これ以上はダメだと、彼女の身体から手を離そうと思ったが、……やめた。


 これ以上ないほど腕の力を強めてぎゅっと抱きしめる。彼女の香りが強くなる。


 ――無防備な君が悪いんだよ。だからこんな悪い男に付け込まれるんだ。



 しばらく抱き締めていると……。


 彼女の身体が小刻みに揺れ始める。泣いているのだと分かった時には彼女はもう鼻をすすって、涙をボロボロこぼしていた。


 そんなに嫌だったのかと、抱き締めなければ良かったと後悔しながら、泣かれるほど嫌がられたことに自分が傷付いているのだと気付く。


「ごめん。もうしない。ごめん……」


 優しい君は首を横に振る。

 

 そこは怒っていいんだよ。

 抱き締めるなんて気持ち悪い、と罵っていいんだよ。


 俺が傷付いているのと同じくらい、いやそれ以上に彼女は嫌悪に身を震わせているのだ。

 だから無理矢理抱き締めた俺が傷付くなんて間違っている。


 泣くより笑って欲しい。

 そう願いながら彼女から離れようとしたとき――、彼女は俺のシャツの裾を掴んだ。


「黒田?」


 シャツを掴む意図が分からず名前を呼ぶが、彼女は首を振りながら、涙をこぼし続ける。


 今度は子どもに声を掛ける時のようにとびきり優しく名前を呼んでみた。


 彼女はゆっくりと首を振りながら息をこぼす。


 何かを吐露するような吐息。


 いや――、何か言っている。少し膝を曲げて黒田の口元に耳を傾けると、「き」という言葉が聞こえた。


 何だろうか、と思いながら黒田の涙であふれる瞳を見る。


 すると彼女は唇を歪め、眉を寄せ、苦しんでいるような表情を見せた。

 黒田の中で何かが暴れているのを感じる。


「黒田?」

「き……」


 足の先から頭の先まで震わせながら黒田は声を絞り出す。だが彼女の口からは「き」しか出て来ない。

 きっと続く言葉があるのだろうけど、苦しさの中で声が震え、言葉になっていない。


「大丈夫だよ。ゆっくりでいいから」


 俺に伝えたいのだろう言葉。

 どんなに長く掛かってもいい。

 俺はちゃんと待ってるから。


 君の声で、君の言葉を聞きたい。

 たとえ罵りでも、嘲りでも、怒りでも、俺は受け入れるよ。


 多分君は『「き」もちわるい』って言いたいんだって検討は付いてるけどね。

 

 そして君は涙をこぼしながら口を開いた。



「さ、……のみやさん」

「はい」


 俺は微笑む。

 どんな罵声でも受け入れるよ、の意味を込めて。


「わたし……」

「うん」

「三ノ宮さんが……」


 ドドド、と鼓動が早くなる。

 

「三ノ宮さんが……」


 どんな言葉も受け入れる気でいるのに、やっぱり怖いな、なんて思いながら続きを静かに待った。


「す……」


 黒田の声を心の中で繰り返し、「す」に続く言葉を待つ。『「す」っごく気持ち悪い』かもしれない。

 しかし黒田は横を向いた。


「やっぱり言えません」

「な……、何で? いや、俺の事なんて気にせず言っていいんだよ?」

「言えません」

「黒田は優しすぎるよ。思ってることは言っていいんだよ。吐き出さなきゃ苦しいだけだ。俺なら大丈夫。大丈夫だから言ってみなよ?」

「大丈夫じゃありません」

「大丈夫だって! 俺が言ってんだから!!」


 俺も黒田もだんだんヒートアップしていく。それが分かっているのにどうにも止められない。


「それでもダメなんです。言ったところでもうどうにもならないんだからっ!」

「どうにもならないって事はないだろ! 言ってみなきゃ分からない事だってある。黒田だけで判断するなよ!!」

「でも」

「でもじゃない。言ってみろ」


 彼女は唇を一度きつく噛んでから、思い切り爆発させた。


「三ノ宮さんが好きなんですっ!!」


 は?


 彼女の叫びを聞いた俺は一瞬放心していた。


 そんな俺の前で彼女は前言撤回している。


「やっぱり忘れてください! 違う違う違うんです。だから忘れて――」


 頬も耳も真っ赤なのは、泣いたせい?

 それとも夕陽に照らされているから?


 だけど、忘れられるわけない。

 俺が一番望んでいた言葉が黒田の口から出たのだから。


「本当に俺の事、好き?」


 問いに答えられず、視線を泳がせる彼女の行動は是と言っているようなもの。


「本当に?」


 俯いている彼女はそおっと視線だけでこちらを伺う。


 彼女はもう泣いていない。

 腕の中に閉じ込めたい衝動を抑えながら許可を願う。


「抱き締めていい?」


 彼女はすぐに視線を下げると、小さく頷いた。

 俺の手はすぐ様彼女の身体を抱きしめる。


「本当に? 本当に?」


 腕の中で彼女は観念したようにまた小さく頷いた。


「あ〜〜」


 じわじわと実感するにつれ、腕の力が強まる。


「うっ……く……」


 呻く彼女に気付いて「ごめん」と言いながら力を弱めた。


「さ、三ノ宮さん」

「なになに?」


 俺の声だけ弾んでいる。


「夕陽……」

「あ」


 腕を解いて海の向こうに視線に向けると夕陽が海に接着するその瞬間だった。交わった一点が揺れている。


 彼女の細い腰を引き寄せて横に並ぶ。


「綺麗」

「ああ綺麗だ。綺麗だね。俺は今日見たこの夕陽を忘れないよ」

「私もです」


 夕陽が沈み切る最後のその時まで見つめ続ける。


 海の上のオレンジが消えると、彼女は「ほお」と熱い息を吐き出した。


「見れて良かったです」

「うん」

「連れて来てくださってありがとうございました」

「いいんだ、また二人で来よう」


 彼女は渋い顔をして、それからまた熱い息を吐く。


 夕陽が沈んでも顔の赤い彼女。

 やはり泣き過ぎたのだろうと、彼女の赤い頬に手を添えると見事に熱かった。


「もしかして、しんどい?」


 俺の言葉を聞いて始めて、彼女は自分の身体に気を回したのか、額を触って「熱い」と呟いた。


「泣き過ぎかな?」

「たくさん泣いてたしね」

「恥ずかしいな、もう……」


 黒田の膝がかくんと曲がる。彼女の腰に回していた俺の腕はすぐに彼女を支えて、俺の肩に寄りかからせた。


「少し休もうか」


 彼女はコクンと頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る