第11話
駅を出ると潮の匂いがする。
そう、ここは海だ。
駅の前には広大な青がある。
アスファルトは堤防の手前で終わり。階段を下りて砂浜に足を沈める。
ざく、ざく。
両足が砂地に付いて動かなくなる。
波の寄せる音。風が運ぶ潮の匂い。
「時間切れなんて……、ダサいな……」
薄く紫がかる空。
「夜景もダメ。海もダメ。縁がなかったってことかな……。諦めろって神様が言ってんのかな……」
泣きたいと思う俺の頭上で、鼻をすする音がした。
誰か泣いてるのだろうか?
――俺も泣きたいよ。
そう思いながら頭上を仰ぐ。堤防の上で泣いているだろう主を見て、俺の心臓はびくっと大きく揺れる。
「くっ、黒田!?」
そこにいたのは彼女だ。
愛しい君は帰ったのではなかったか?
なのに、なぜここで泣いている?
俺はすぐさま砂を蹴って、堤防の階段を駆け上がった。
「なんで?」
彼女は唇を噛んだまま、ボロボロと涙をこぼしていた。
こんな時に思い出すことではないが、元カノは涙を武器にする女性だった。女性の涙は信用ならないと身をもって知ったはずなのに、黒田の涙はそれとは違う。
「黒田……」
彼女の涙を見て、どうしていいか分からない俺はオロオロとするばかり。
抱きしめていいものか、それとも寄り添えばいいものか。上げかけた手を下ろしてはまた上げるという意味不明な行動を繰り返してしまう。
とりあえず先にこぼれ続けている涙を拭いてもらおうと、ハンカチを差し出した。
「良かったら使って」
黒田はまたきつく唇を噛むと、俺の好意を受け取ってくれた。水色の綿のハンカチは水分を吸った所だけ青くなる。
涙が少し止まったのか、噛み締めていた唇に隙間ができ、熱い空気をゆっくり外に出しているようだった。
俺は彼女が落ち着くのをひたすら待つ。
と、その時。
ひときわ強い風が吹き、俺の目に砂が入った。
「イっ」
咄嗟に目をつむり、指で目頭を押さえる。
「大丈夫ですか?」
俺を心配して彼女が下から覗き込むのを反対の目で見ていた。
君こそ大丈夫かい? という言葉は飲み込んで、「大丈夫だよ」と返す。
「目に砂が入っただけだけど、もう痛くないから大丈夫」
「良かった」
安心したように肩の力を抜いて微笑む彼女の姿に、俺の鼓動が早くなる。
――俺の心臓よ、鎮まれ! お前は勘違いしているだけだ。あの彼女の微笑みは俺のものじゃないんだ!
泣いたせいで紅潮している頬が妙に色っぽく見えてしまう。
見惚れている俺の横で黒田がぽつりと「海」とこぼし、その瞳に青を映す。
「初めてです」
「ん?」
「海……、来たの初めてなんです」
「ホント?」
「だから、ちょっと感動して泣いちゃいました」
海見て泣いたとか、もう可愛いすぎない?
「今日の目的地ってここですか?」
「目的地?」
「30分の」
「あ、ああ。ああ、……いや」
当初は海じゃなくて、丘から見る夜景だったのだと、わざわざ白状しなくてもいいかと思う。だって、海を見てこんなに感動してくれているのだから。
「ひどいです」
「ひどい?」
「30分の時間切れだからって電車に置いてけぼり。なのに三ノ宮さんは一人で海に行っちゃって」
「ごめん」
「私、下におりてきます」
どこか振り切れたような黒田は一人走って堤防の階段をおりていく。
「ちょっと待って」
急いで追い掛けるが、俺はいまだこの状況に戸惑っていた。
まさか黒田が電車をおりて来てくれるとは思っていなかったのだ。
だが、彼女の嬉しそうな表情(無表情が少し緩んでいるくらいだから、付き合いの短いやつには分からないだろうが)を見れば、そんなことで戸惑っているのがバカらしく思えてくる。
砂浜で足を取られる彼女の横に立つと、彼女はゆっくりと距離を開けた。確実に距離感は意識されている。
「歩きにくいんですね。よいしょ」
そう言って黒田は俺に背中を向けて、ゆっくり一歩離れていく。
手を伸ばしても彼女の手は捕まえられない。
「黒田……」
彼女は振り向きもせずに「はい?」と返す。
「……あのさ、せっかく来たんだし、良かったら……夕陽が沈むのを、見て帰らないか?」
答えを悩んでいるのか、返答がない。
一緒にいる時間を引き延ばそうとする魂胆が丸見えで、呆れているのかもしれない。
「って、言っても夕陽が沈むのに2時間くらい待たないといけないんだけどさ……」
腕時計を確認する。日没まであと1時間半から2時間弱と言ったところか。
「無理だよね。疲れてるしね……」
今すぐ夕陽が沈むならまだしも、2時間も待てないだろうな。
「……ます」
黒田がぼそりと何か言う。もしかして『帰ります』と言ったのかもしれない。だから聞き返した。
「ごめん、聞こえなかった。なんて言った?」
黒田が振り返る。一瞬視線が合ったものの黒田はすぐに下を向いた。
「見ます。……見てから、帰ります」
「え?」
「夕陽見ます。せっかくここまで来たんですもん。三ノ宮さんと一緒に見たいです」
「ええ!?」
嬉しいのだけど、驚きの方がまさってしまった。
「……あ、うん。見よう! 俺と一緒に見よう!」
驚きは、じわじわと喜びに変わっていく。そのまま勢いで抱き締めてしまいたい衝動を堪え、俺は飽くまでも紳士的に振る舞うよう努める。
「じゃあちょっと歩いてみる?」
砂浜の散歩を提案してみると、黒田は「そうですね」と頬を緩めた。
黒田の小さな歩幅に合わせてゆっくりと歩く。黒田は黒田で、俺に合わせようとしてくれているのか、せかせかと歩いているように見えなくもない。
「時間はたくさんあるからゆっくり歩いていいよ。黒田のペースでね」
「はい、すみません。なんだか、歩き辛くて。砂浜の上だと、歩いてることを意識しないと歩けないって言うか……、普段歩く時と力を入れる所が違いますよね。明日筋肉痛になってたら嫌だな」
軽く笑う黒田から目が離せない。
それなら手でも繋いでみる? ――なんて提案してもいいだろうかと悩む。
黒田に触れたいからとかじゃなくて、危なっかしいからだよ、と言うのは建前で、本当はすごくすごく触れたい。
と、その時。黒田の身体が前に傾ぐ。
「わっ」
「おっと……」
咄嗟に黒田の肩を掴み、腰に腕を回していた。
「あ、ありがとうございます」
「いや、転けなくて良かったよ」
黒田に触れたのは不可抗力。だけど、手が離れたくないと言っている。これじゃ紳士とは言えない。
だが黒田も嫌がらない。というか動かない。
「黒田?」
顔を覗き込むと、頬はさっきよりも赤くて、耳まで染まっている。
俺のことを意識してる? いや、違うか。男に免疫がないだけだろう。
たかがこれだけのことで頬を染めるなんてピュアが過ぎる。
――なんだよ、くそ可愛いな。
なんとか理性を保ち、顔の赤い彼女から手を離す。
見ていたら吸い寄せられそうになる赤い耳、赤い頬、赤いうなじ。
俺は首を振って視線を逸らした。そのまま辺りを見回す。どこか落ち着いて休憩できるところはないかと。
少し先にテラスで飲食しているご婦人方を発見した。ちょうど良さそうだと思った俺は「あそこで休憩しない?」と彼女に提案する。
彼女は首振り人形にでもなったみたいにこくこくと頷く。
ゆっくり歩を進める俺の、半歩後ろを彼女が歩く。砂を踏む二人分の足音。
まばらに人はいるけれど、俺と彼女の音と、それから波の音しか聞こえない。
テラスのある店は木のぬくもりと温かみのあるバールカフェだった。店内にはカウンターとテーブル席、ガラス張りの窓際にはソファがある。もちろん奥にはテラス席もある。
店員にお好きなところにどうぞ、と促されテラスに向かった。海がよく見えるし、傾いた太陽も真ん前に見えている。
「飲み物頼む? 喉渇いたでしょ?」
まだ首振り人形になったままの彼女はこくんと頷いた。
メニューを広げながら飲み物のページを開く。
ソフトドリンクは片手で数えるほどしかないが、コーヒーとアルコールは充実していた。
ビールも数種類ある。
ごくごく鳴らしたいと俺の喉が訴えているが、ちょっと控えておいた方がいいだろう。だって昨晩は衝動のままに呑んで女性の家で寝落ちたという失態をしたばかりなのだから。
「黒田決まった?」
「えっと、……はい、これに」
黒田は写真付きのメニューを指差す。
「サングリア?」
「美味しそうかなって……」
確かに写真は美味しそうだ。グラスの中にフルーツがふんだんに入っているのだから。きっと『映え』を狙った商品なのだろう。
とは言っても黒田は『映え』なんて意識してなさそうだが……。単純に美味しそうだと思ったのだろう。
俺は店員を呼んでサングリアと、生絞りオレンジジュースを注文する。
彼女は少し落ち着いたのかいつもの表情で店内や海側を見回していた。
俺はそんな彼女を見ているだけで心が温かくなるような幸せを感じると同時に、彼女を手の中に閉じ込めて独占したいという欲を感じていた。
「乾杯」
「いただきます」
グラスに口を付け、乾いていた喉を潤すようにごくっと飲み込む。
オレンジのツブツブが入ってきて、さすが生絞り! なんてよく分からない感想を内心でもらしてしまった。
声に出てなくて良かった。彼女に聞かれていたら恥ずかしくて穴に入りたくなる。ひとくち目の感想が小学生並みで、彼女の俺に対する評価はきっと更に落ちてしまうのだ。
そんな彼女も喉が乾いていたのだろう。勢いよくガブっと飲み込んでいるが、大丈夫か?
まあ泣いていたのだし、水分補給は大事だ。
だがそれは、水でもお茶でもソフトドリンクでもなく、アルコールだよ?
「はぁ……」
艶かしい吐息がもれる。黒田は半分残っているサングリアを見下ろして首を傾げた。
「あれ?」
「黒田?」
俺が呼ぶと返事をしながら彼女は自分の鎖骨の間辺りを押さえる。
「サングリアって何か知ってる?」
浮かんだ疑問のまま聞いてみた。
彼女は無表情のまま唇を薄く開き、首を傾げる。
「フルーツジュース?」
ブブー! と俺の中にいる誰かがバツ印を出す。
「あのさ黒田。知ってると思ってたんだが、それお酒だよ。確かワインにフルーツを漬けてるんじゃなかったかな?」
ワイン、と薄く開いた唇から微かな声をこぼして、黒田はグラスに鼻を近づける。
ひくひくと鼻を動かす仕草がなんだかやっぱり可愛いくて、好きだなぁ、としみじみ感じながら黒田の動作を眺め続ける。
好きでもない男からこんなに見つめられて嫌だろうな〜なんて思いながら……。
でもこれで本当の本当の本当に最後だと思ったら、黒田の姿を目に焼き付けておかずにはいられなかった。いずれ忘れなければならない相手だと言うのに、我ながら女々しい。
喉の乾きが潤され、一旦落ち着く。
空の色が青からオレンジにゆっくり染まるグラデーションを見るものの、夕陽が沈むまでにはまだまだ時間が掛かりそうだ。
「何か食べる?」
昼が遅かったといえど、少し小腹が空いてきた俺はメニューを再度広げて、軽食のページを示す。
「じゃあ、……三ノ宮さんが食べたいものを一緒に食べたいです」
俺が食べたいものを一緒に食べたいなんて発言、可愛い過ぎないか?
それにこういう発言をするから、何だか俺は期待したくなるんだ。もしかして俺のことが好きなんじゃないかって。
都合のいい解釈だって充分分かっている。
そう思いながら、黒田の好きな甘い系に寄せるか、ガッツリ俺の嗜好で選ぶか悩んでしまう。
メニューの上を何往復も視線が泳いで、やっと決めたのは2段のアフタヌーンティースタンド。サンドウィッチ、スコーン、エッグタルトなどがのっている。
……彼女に寄せすぎだろうか?
でも女の子はこういうの好きだよね?
そう不安になりながら黒田に提示すると彼女は、ふわっと笑った。
こんな風に笑うことがあるんだという衝撃を受けながらも、喜んでくれたことに嬉しくなる。
追加注文して、テーブルに届くと、彼女は瞳を輝かせた。
「私ひとりだったら絶対頼むことなんてなかったです。こういうの、ちょっと憧れで……。あ、何言ってんだろ、恥ずかしいな」
ふにゃ、と口角を緩める彼女はサングリアで酔ったのだろうか。彼女が微かに笑うたびに胸が苦しくておかしくなりそうだ。
今なら『どこにも行かせない』と腕に閉じ込めてしまっても抵抗されない気がする。
そんなことを考える自分を戒めるように背筋を伸ばして、彼女の前に取り皿を置いた。
「どうぞ、好きなもの選んで?」
「ありがとうございます。わあ〜どれにしよ〜」
珍しく語尾の伸びている彼女。酔ったら可愛い女の子になるようだ。
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