【第二章】



 王宮の廊下を行くヴォルに、すれ違う者たちの顔に軽い驚きが広がった。

 何故この時間、大地の間に王太子が向かっているのか。

 しかし、胸に湧き起こった思いを口にできるほど、ヴォルは親しみやすい人物ではなかった。

 いつもにもまして厳しい眼差しのヴォルに、貴族や警備兵たちは背筋を伸ばし、白々しく視線をそらした。

 硬く磨き上げられた床を叩くように足音をたて、ヴォルは行く手の大地の間に不機嫌な視線を投げかけていた。

 ヴォルの姿を認め、控えていた警備兵が慌てて扉を開いた。途端、むっとしたひといきれと騒々しいざわめき、交わされる会話を載せたこまやかな楽の音があふれ出る。

 ヴォルは相変わらず唇を引き結んだまま、人々の間を突き進んだ。

 煌々と光を投げかけるシャンデリアのもと、美しく着飾った貴族たちがヴォルの姿に小さく目をみはった。

「夜空に虹でもかかったのかな。こういう場所より机に向かうほうが好きなお前が自ら足を運んでくるとは」

 目の前に突き進んできたヴォルに、恰幅のよい男が言った。ヴォルはやや俯瞰する恰好で、男を見据えた。

「なに莫迦言ってるんです父上。今日はこんなところでうつつを抜かしている場合ではないでしょう?」

「ん? あ、ああ、そうだったか、今日だったかね」

「今日です。まさかお忘れでしたか」

「別に忘れたわけじゃないがね。なにも城をあげての夜会を抜け出してまでのことじゃないだろう?」

「今日この日に夜会を開くほうが間違ってるんです。時間に遅れて、第十七代国王として恥をさらすおつもりですか」

 緊迫感のない父に、ヴォルは苛々と声に棘を含ませた。

「お前はちと堅苦しすぎるぞ、ヴォル。神の祝福を受けた王族として生まれたからには、花の美しさを讃え、胸を喜びにあふれさせることも必要だぞ」

「時と場合によります! 状況をわきまえてください。これは国王としての責務なんです!」

「厳しいことを」

「当然のことを言ったまでです」

「まったく、太祖の口が悪いばかりに……」

 うんざりと口端を下げる父王に、ヴォルは眼光を鋭くさせた。

「判ったよ。行けばいいのだろう? 王太子のくせに仕事熱心にすぎるわ」

 後半の愚痴めいた言葉に、ヴォルは胸の内で盛大に舌打ちをする。

 あなたたちが遊び浮かれているからだろう、と。

 父王はヴォルの内心を知るはずもなく、惜しまれるまま、息子とともに大地の間を辞していった。



 クレー宮セント翼の先に小さな森がある。鬱蒼と茂る森はおどろおどろしく、近付こうとする者はいない。まして夜ともなれば、悪魔や魔女が木の陰にひそんでいるのではと、心穏やかでなくなるというもの。

 しかし今宵、幾つかの影が魔物の森に近付いてゆく。

 ヴォルたちだ。

 ヴォルは父王と僅かな側近を連れ、塗り籠められた闇の森へと足を踏み入れた。

 冴え凍る夜気が、白く染まる息を闇に溶かしてゆく。さくさくと枯れた下草を踏む音ばかりが森に吸い込まれる。

 静寂に、父王は恐ろしさを隠せない。ヴォルと側近の持つ角燈の明かりだけが頼りだった。

 しばらく歩くと視界が開け、頭上に白い光を放つ月が見えた。目の前には古びた庭が広がっている。風雪に傷んだ石造りの庭。水の涸れた噴水が中央にあり、隙間に枯草をあふれさせた石の小径がひっそりと夜の闇に沈んでいる。ひとの肩あたりの高さの壁が、庭を区切るように小径の脇に並んでいた。

 ぼろぼろになった小径の先に、いまにも崩れ落ちそうな石のアーチがあった。その向こうにある、蔦の絡まる1枚の扉。

 その扉こそ、エルフルト王家に伝わる伝説、『花の宮』の入口だった。

「本当に、生きているのかね」

 歯を震わせる父王が、誰に言うともなしに問う。

「生きているはずです。しゅ御自身がおっしゃられたのですから。240年眠りに就く、と」

「干乾びきった老婆になっているんじゃないのか?」

「それがどうしたっていうんです。ラデューシュ、蔦を払え」

 ヴォルは側近のひとりに、扉を封じる蔦を払わせる。

 エルフルト王国太祖の過ぎた口は大いなる神の勘気に触れ、その怒りは、太祖の愛娘に240年の長き眠りを招いた。己の分をわきまえよ。口を慎め。過剰な享楽に陥るな。

 この事件は、当時の王家にさまざまな訓戒をもたらしたらしい。いま現在の状況はともかくとして。

 今日この日、11月24日。太祖の娘が神の怒りを受けた日から、ちょうど240年が経つ。

 蔦を払い終えたラデューシュは、ヴォルが頷くのを合図に苔むした扉に手を当て、力をこめて押し開けた。

 石同士がこすれ、軋む音とともに削れた砂がこぼれ落ちる。

 ヴォルは感嘆の吐息を漏らした。

 以前この扉を開けようとしたとき、髪の毛ひと筋ほども動かなかった。

 『花の宮』は、今日この日を待っていたのか。

 冷たい闇の空気に角燈を差し入れると、そこは通路になっており、奥にもう1枚扉が見えた。注意深く通路を進み扉を開けると、下に降りる石階段が現れた。

 地中深くにまで吸い込まれる階段は、足を載せただけで冷たく研ぎ澄まされた音を反響させる。階段は長く、もはや最上階がどこにあるのか、角燈の明かりだけでは判別できなかった。

 降りるにつれ、空気は更に冷たさを増し、肌に沁み込む。

 3枚目の扉が浮かび上がってきた。

 階段を降りきったところは小さなホールになっていて、扉の前になにかがうずくまっているのが見えた。

 なにか。

 ひとの形、のような。

 しばらく遠巻きに様子を窺う彼らだったが、国王に促された護衛が、角燈をおずおずと近付ける。

「ヒィッ」

 絞った悲鳴をあげたのは角燈をかかげた護衛ではなく、王だった。悲鳴は階段に反響し、うるさく尾を引く。声こそ出さなかったが、ヴォルもまた息を呑んでいた。

 ぼんやりした明かりに浮かび上がったのは、白骨化した死体だった。

 首に濁ったネックレス、左手薬指に傷んだ指輪が引っかかっている。固く閉じた扉に背を預け、うなだれて座り込んでいる。骨に引っかかっている僅かな衣服から、どうやら男性らしいと推測できた。

「殿下」

 ラデューシュが、扉に刻まれた文字に明かりを向けた。

「『アリシア・エルフルトに安らかな眠りを 安らかな目覚めを』……眠れる姫君は、アリシアという名か」

 ヴォルは噛み締めるように呟いた。白骨死体は、刻まれた文に寄り添っているようにも見える。

「この者には申し訳ないが、退いてもらうしかないな」

「かしこまりました」

 父王の部下が、おそるおそる死体を横に移動させる。骨は脆く、幾つかの関節が外れ、乾いた音をたてて床に落ちた。

 扉を開けられるだけの隙間を作り、ラデューシュが取っ手に手をかけ、ひと呼吸のあと、それを押し開けた。



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