第34話 安いウィスキーが美味しく感じる時
「唯さん、唯さーん」
そう、リカー男子のモカンボ・アネホくんと談笑していた。彼は面白い形のボトルがあるとマスケット銃の形をしたボトルがあるだなんて教えてくれた。しかし、そんな事唯は知らないし、そもそもモカンボ・アネホなんてお酒多分聞きかじった事すらない。
なので尋ねてみた。
「マスター、このモカンボ・アネホってピストル型のボトルってあるんですか?」
「ございますよ!こちらですね。贈答用やコレクション等に喜ばれる形状ですね」
そう言って本当に、先ほど夢(?)でモカンボ・アネホ君に教えてもらった物と寸分狂いのない物が登場した。となるとあれは本当は夢なんかじゃないのかもしれない。ならば一体なんだろう? 唯ははじめてこのお店に来た頃に感じた不思議な気持ち。でもそれは全然嫌な感じはしない。そんな時、リナ先生が声を出す。
「いやー、自分にはこのラムちょっとキツイっすねー! スパイシーさが結構主張してくるっすよ! でも、嫌いじゃねーです」
まだ半分以上残っているストレートのラム。お酒を口にしなくとも雰囲気だけで酔えるようなロケーション。唯もジャズが流れる店内でモカンボ・アネホを再び口にする。
「あっ、Sing, Sing, Singですね!」
「はい、100年近く前の曲なのに色褪せませんよね」
ジャズの名曲。メジャーどころを聞きながら時間を忘れてお酒を楽しむ自分、なんだかカッコいいなと唯は思う。これもマスターの受け売りだが、少しくらいナルシストでいい。お酒を飲んでいる時の自分は別人なんだと思うのもまた一興。誰も咎めないし、静かにお酒を飲んでいる限り誰にも迷惑はかけない。何を思い、何も思わなくてもいい。
そんな店内の音楽、空気を壊さない。いや、むしろ唯やリナ先生よりお店に馴染んでそうな女性のお客さんが入店した。
「こんばんは、アナスタシアさん」
「ただいまマスター。レッド貰える?」
「畏まりました」
さん付けという事はどうやら常連あるいは馴染みのお客さんらしい。唯は感づかれないように聞き耳を立てる。アナスタシアと呼ばれた女性。二十代だろうか?四十代だろうか? 間違いなく日本人ではないのに訛りもない流暢な日本語。そしてマスターと笑顔で分かり和える仲。さらに、美人ときたら興味もわく。
そしてマスターはボテっとしたボトルを用意する。
アナスタシアという女性が所望したとおりREDと書かれている。高いお酒なんだろうかと唯は調べてみると、不味い、激安等と記載があり、恐らく唯が知りうる限り、“
バー・バッカス”で今まで見てきた中で最も安いお酒だろう。
そんなREDをアナスタシアはゆっくりと静かに飲んでいる。入店してきた時の様子からマスターとお話でもするつもりなんだろうかと思っていた唯だったが、すぐに自分の世界に入っているアナスタシア。唯とリナ先生と目が合うとウィンクしてくれるあたり、人懐っこい人らしい。そうなると美人に目がないリナ先生は、
「はじめましてっす。そのお酒うまいんすか?」
「はじめまして、そうね。ジャパニーズで一番好きかもしれないわね。二人も呑んみて、マスターこちらのお嬢さん方にも同じ物をロックで出して上げて」
「畏まりました」
マスターはアナスタシアに言われたとおりロックグラスにREDを入れて二人に差し出す。ウィスキーなのだが、不思議な香りがする。ウィスキーらしくない。かといって変なにおいでもない。しいていえば、バーボンに近いような……。
「いただきます」
「いただきますっす!」
アナスタシアは返事をする代わりに、グラスをかかげて反応する。悪い言い方をすれば安物のウィスキーなのだが、意外と悪くない。むしろ、美味しいか美味しくないかという話をすると美味しいと唯もリナ先生も思った。
カロンと氷が割れる音がする。アナスタシアが飲んでいると様になる。離れたところに座っているアナスタシアにマスターは灰皿を持って行く。するとグラスを置いてピアニッシモを取り出すとそれにさっと火をつけて一吸い、二吸いすると灰皿に置く。そしてしばらくしてREDを一飲み。店内の音楽はルイ・アームストロングの“この素晴らしき世界”が流れている。音楽もお酒もたばこも全てアナスタシアを引き立たせているようで、一杯飲み干すと、アナスタシアは立ち上がり、千円札を三枚マスターに渡して、
「じゃあまたその内」
「はい、行ってらっしゃいませ」
マスターと唯、リナ先生にウィンク。リナ先生はすぐにドキんとした顔して赤面する。そしてもうアナスタシアはお店から出てしばらく経っただろうと思われた時にハイテンションでリナ先生がマスターに尋ねる。
「マスター! 誰っすかあの美人! なんすか、なんすか! 超カッコいいじゃねーすか」
唯も聞きたいなと思う事を全てリナ先生が代弁してくれるので、マスターの返答を待つことにした。マスターはREDのボトルを軽く拭くといつもの微笑で、
「アナスタシアさんは、何をされている方か私も知りません。当店に一度来られてから定期的に日本にお戻りの際は立ち寄っていただいています。はじめて来られた時はお金をあまりお持ちではなかったようで、一番安いお酒をご所望されました。ツケでも構わないのでお好きな物をとお伝えしましたが、今の身の丈にあったお酒をとの事でしたのでREDをお出ししました。それからアナスタシアさん、こちらのファンになられたらしくいつも1,2杯呑んで帰られます。お金は結構ですとお伝えしているのですが、律儀にお支払いいただいているので、こちら」
小さな金庫を見せる。そこをマスターが開くと、一万円札の束、おそらく100万円くらいと千円札が束で入っている。そこに先ほどの支払い分をマスターは入れて鍵をしめた。
「なんすかその大金」
「はじめてこられた時のアナスタシアさん、お金が足りなかったんですよ。小銭を全部合わせても400円程しかなくて、とてもお安いお酒なのでそれで構わない旨をお伝えしたんですが次に来た時に100万円をお支払いになられ、それからはお断りしてもあんな感じです。まだREDのボトルも4本目ですから、これだと一生分飲めますね。もし、アナスタシアさんがお困りの際にお返ししようとこうして残してます」
そう言うマスターはいつもの微笑ではなくて、ちょっと自然に笑っているのが二人にも分かった。きっと、何かの理由でまたアナスタシアがお金が足りないなどといった時、マスターはここぞとばかりにこのお金を突き出すんだろう。その日を楽しみにしている館が伝わってくる。
「このREDっていくらくらいなんすか?」
「この720mlのボトルで800円程でしょうか? ドン・キホーテ等だと税抜き600円台で売られているのも見た事がありますね」
「ブラックニッカクリアとかトリスみてーっすね」
「価格帯としてはそうですね」
唯もリナ先生も思い出す。手ごろに火傷しない価格のウィスキーを買って、ウィスキー不味いなと思った記憶を、しかしそこそこの価格帯の物からはじめればウィスキーも実に美味しかった。そこでマスターはそれらの気持ちを汲み取ってから二人に、
「2,3000円程のウィスキーを入門に飲まれるのがいいですね。バーボンならメイカーズマーク、スコッチならシーバスリーガル等ですね。そういった物で美味しいなと思われた後に、それら安価なウィスキーを楽しまれると感じ方も変わってくるかもしれませんね。現にお二人もREDを美味しいと感じられていますし」
二人は舌が肥えるという言葉を知っていたが、改めて体感したのは本日がはじめてかもしれない。あれは決して美食家の言葉ではなく、美味しい部分を感じ取る事ができるようになるという事だった。
となると、唯とリナ先生は試してみたくなるお酒がある。“バー・バッカス“に通い始めた頃、コンビニウィスキーを飲み比べたのだが、どうも口に合わなかったお酒が一つあるのだ。
「マスター、ブラックニッカクリアってあるっすか?」
「えぇ、こちらに」
トンとあの髭のおじさんのマークが有名なブラックニッカクリアをマスターは出してくれる。なので、リナ先生は、
「このボトル入れていいすか? ちょっと飲んでみてーんすよ。マスター、オススメの飲み方ってあるっすか?」
「そうですね。やはり、ハイボールと言いたいですがお二人にはウィスキーフロートなどいかがでしょうか?」
聞いたことのない飲み方、ウィスキーフロート。マスターが目の前で作ってくれる。大きな氷をグラスに数個入れ、そこに水を7割程入れる。そこにウィスキーをゆっくりと注いで水の上にウィスキーを浮かべる。
「こちらでストレートと水割りを同時に楽しむことができます」
ウィスキーは加水すると味が大きく変わる。そういえば水割りはあまり頼んだことはなかった。二人は同時にストレートでブラックニッカクリアを口に含む。あぁ、やはりアルコール感が強いな……と当初と同じだと思った瞬間、ブラックニッカクリアのはっきりとしたウィスキーの味が分かる。これがブラックニッカの味なんだ。うん、これはこれで……
「うまいっすね?」
「はい、あの時と同じ味なんですけど、いやあの時感じなかった味がします」
ストレートなので本当に同じ味の中から二人はブラックニッカの味わいを感じ取った。そしてゆっくりと加水し水割りのブラックニッカ、程よくアルコール感が飛んで、これは普通に美味しい。
むしろ、
「さっきのREDはバーボンっぽかったっすけど、このブラックニッカはスコッチっぽいっすね」
「ジャパニーズウィスキーは、スコッチを真似て作られていますから、リナ先生の感想は正しいですね。好みもあるんですが、ブラックニッカクリアは若いお酒ですので、楽しめる領分も変わってきます。ただ、私はこの価格帯でちゃんとしたウィスキーとして販売されているブラックニッカクリアは凄い企業努力だと思います。どうでしょう? ハイボール飲んでみませんか?」
マスターが作るカクテルは本当に美味しい、ハイボール一つとってしても再現ができない程に……当然それを断る二人じゃない。
「いただきます!」
「いただくっすよ!」
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