それから……
次はいつ呼ばれるのだろうか。
俺はワクワクしつつも、せめて娘が成人するまで待って欲しいなだとか、両親もできたら見送りたいだとか現世への未練を感じていたせいだろうか。
気がつけば、あの不思議な体験から二十年の時が経っていた。
娘が成人するまでの最初の五年は、ノルンもきっと待ってくれているんだろうと考えて、特に気にしていなかった。
世の中は不況にあえいでいたが、うちの商売はインターネット時代の波に乗れて通信販売で上手くいっていたし、ただガムシャラに働いて過ごしていたと思う。
親父は、その後も度々心臓発作を起こしたので、結局、繁忙期以外は実質引退してもらった。
想定外のことといえば、専門学校を卒業したばかりの娘がまさかの授かり婚をしたのだ!
娘はまだ二十歳だったが、全くもって人のことを言える立場ではないので、俺は相手のチャラついた男を親父のように殴ったりはしなかった。
しかしながら、顔には出ていたのだろう。最初の結婚の報告以降、奴と俺が顔を合わせることはなかった。
娘が二十五歳になる頃には経営権を譲ろうと考えていたが、孫ができたことで予定が大幅に狂う。
最悪、店を継がない可能性も考えて、通販部門は独立させて株式会社にし、ずっと手伝ってくれていた後輩との共同経営に変更した。これなら俺が急にいなくなって店を畳んだ場合でも、会社の株式を娘と孫に残せる。
しかし、そんな俺の心配をよそに、娘はやはり俺の子供なのか、二年で実家に舞い戻った。
その後は、娘を菓子職人として指導しながら実店舗の経営をし、後輩と通販事業も精力的にこなし、生活は激務だが充実しており、あの不思議な出来事は時々思い出す程度になった。
俺が五十歳になった年に、親父が鬼籍に入り、俺自身も狭心症と診断された。医者から「働きすぎです」と宣告され、よい機会だと娘に経営権を譲る。
ちなみに、娘は後輩と再婚した。歳の差は気になるし、後輩には「お前ら、いつからだ?」と問いただしそうになったが、どこぞの知らん男よりはよっぼどいい。
その頃の俺は色々な責任から急に解き放たれて、ぼんやりすることが増えた。
周囲からは、結構心配されていたように思う。そして、大手出版社に勤めている元妻から連絡があった。
「いま主婦向けの料理雑誌の編集部にいてね。お菓子作りの連載を始めることになって手伝ってほしいの。もちろん、担当者は私じゃないし、貴方の心理的な負担には十分配慮するから」
たぶん娘が何か言ったのだろう。でも、良い機会だからと、俺はその提案を素直に受けた。その連載は意外と好評を得て、最終的にレシピ本を出版した。
ノルンとあの世界の出来事が本になった気がしてとても嬉しく、ただ同時に向こうへの焦燥感はどんどん強まっていった。
あれは、ノルンのリップサービスだったんじゃないか。本当は呼び戻す気なんてなかったのかもしれない。本の嬉しさとは反比例するように、彼女への自信はどんどん無くなっていく。
本が出版された日、元妻からこう言われたのを今でも思い出す。
「言うタイミングをずっと逃していたけれど、離婚を決めたのは貴方が悪かったわけじゃないのよ。ただでさえ、妊娠出産で大学の卒業も社会に出るのも遅れて、会社でも子供がいることで同期に後れを取っている気がしていたの。なのに貴方は自分の仕事に邁進してて、楽しそうに見えてしまったのね。私が幼かっただけなの。貴方はずっと良い人で、良い父親だったわ」
俺がずっと再婚しないことに責任を感じていたのだろう。確かにいつも心のどこかで「俺はどうせまた失敗する」と考えていたのかもしれない。
不覚にも泣いてしまった俺に、元妻はビックリしながらも、背中に手を置いて落ち着くまで待ってくれた。
「ねぇ、じいちゃん。ガトーショコラとチョコケーキの違いって何?」
閉店作業を終えて、スタッフルームで孫と二人で売れ残ったケーキを食べているとそう質問された。十五歳になった孫は、店でレジのバイトをしている。
「ああ、ガトーショコラは、日本人が勝手に作った名称の菓子だよ。スポンジ生地にチョコレート多めに入れて、クリームはナッペしないな。チョコレートケーキは、チョコクリームをナッペしてるだろ? それくらいの違いかな。チョコレートケーキでもオペラやザッハトルテみたく名前がついてるのもあるぞ」
バレンタインデーの時期も繁忙期なので、俺は店を手伝いに来ていた。
「洋司さん、すいません。結局、閉店作業まで手伝わせちゃって」
後輩が調理場からスタッフルームに顔を出す。俺は「気にするなよ」と手を振って答えた。
店頭販売部門の社長は娘で、通販部門の社長は後輩。今の俺は商品開発を気ままにする立場だ。一応、名刺上は「会長」だが、こんな小さい会社で「会長」は少し笑える。
「じゃあね、じいちゃん!」
娘たち三人が車に乗って帰るのを見送ると、俺も自宅へ徒歩で帰路についた。
あと二年で、俺は六十歳になる。ノルンは今もどこかで世界を見ているのだろうか。泣いてはいないだろうか。俺の残した菓子は、まだあるのか。そんなことを考えながら歩く。
そして、狭い見通しの悪い十字路に差しかかると、強烈な胸の痛みに襲われた。
グゥ……と息を出すのが精一杯だ。薬を胸ポケットから取り出そうとしたが、手からすべり落ちる。
それでも、なんとかしゃがみ込み、薬を拾った。
口に薬を含む。大丈夫。問題ない。
だが、立ち上がった次の瞬間、キキキキキッというタイヤの急ブレーキ音とライトの光と共に、ドンッと衝撃が身体に走り、俺の世界は暗転した。
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