第39話「紙とペン」ざまぁ
「これは旦那様からのご命令です。
ある部屋に奥様をお連れせよと。
その部屋に来ないのなら食事は提供せずとも構わないと、仰せつかっております」
くっ……! この嫌がらせは夫の指示だったのね!
悔しいけどハリマンの方がわたくしより立場が上だわ。
ここは従うしかなさそうね。
「どこに行けばいいの?」
「御案内しますので、ワタクシのあとについてきてください」
「わかったわ。
誰かわたくしに手を貸しなさい」
しかし、部屋にいるメイドも執事も動こうとしない。
「誰も奥様に手をかすなと、旦那様から命令されております」
「くっ……!」
ハリマンはどこまでもわたくしに恥をかかせる気ね!
こうなったら何が何でも、指示された部屋まで行ってやろうじゃない!
空腹と怪我の痛みでよろめきながらなんとか立ち上がり、重い足を引きずりながら、なんとかハンスのあとをついていく。
ハリマンと結婚してから今まで、シーラッハ公爵家の屋敷の広さは自慢だった。
しかし、今日だけはこの広さが嫌味に感じる。
廊下を何度も曲がり、長い階段を登ぼり……と思ったら今度は下り……また何度も角を曲がり…………その繰り返し、なかなか目的の部屋にたどり着かない。
「ちょっと、まだつかないの!」
「もうすぐでございます」
ハンスのそのセリフを聞くのは五度目だ。
もうすぐ、もうすぐって……どれだけ遠いのよ!
わたくしは肩で息をしているのに、ハンスは汗一つかかず、平然とした顔をしている。
そのすかした表情が鼻につく。
「もう……無理、い、一歩も……歩けな……いわ……」
わたくしが床にへたり込んだその五メートル先で、ハンスが足を止めた。
「この部屋です、奥様」
ようやく目的に辿り着いたことにホッと息をつく。
歩けないので床をはって扉の前に移動する。
部屋の扉をよく見たら、わたくしの部屋の隣の部屋だった!
「散々、遠回りさせて……どういうつもり!?
わたくしの……部屋の隣の部屋……じゃない」
「できる限り遠回りさせよ、との旦那様のご指示でしたので」
ハンスは悪びれもせずに言った。
こいつも絶対に首にしてやるわ!
ハンスの足の骨を折って、三日間食事を与えずに地下に監禁して、屋敷の一番高いところにある部屋の屋根裏に退職金を隠して「欲しければ自分の足で歩いて取ってきなさい!」って言ってやるわ!
一時間ハンスのことを罵ってやりたい気分だったが、しかし今は空腹と疲労で怒る気力もない。
そうこうしている間にハンスが扉をノックした。
「誰だ?」
「ハンスです。
奥様をお連れしました」
「通せ」
ハンスが扉を開けると、中から食べ物の匂いがした。
わたくしは最後の力を振り絞り、ハンスを押しのけ部屋の中に駆け込んだ!
鴨のコンフィ、舌平目のムニエル、ガレット、キッシュロレーヌ、オニオングラタンスープ、ムール貝の白ワイン蒸し、ラタトゥイユ、パテドカンパーニュ、ローストチキン、タルタルステーキ、ブイヤベース、クロックムッシュ、マカロン、ミルフィーユ、
カヌレ、クリームブリュレ、チョコレートタルト、チョコレートムース、洋ナシのアイスクリーム・チョコレートソースがけ……!
テーブルの上にはわたくしの好物ばかり並んでいた!
わたくしが料理に手を伸ばすと、誰かがわたくしの腕を掴まれた。
「何をするの! 邪魔しないで!!」
手を掴んだ人間をキッと睨みつける。
「やれやれ、貴族としてのマナーも、公爵夫人としての誇りも無くしたようだな。
部屋の主に挨拶もなく入ってきて、いきなり料理に手を伸ばすとは……。
平民でも今のお前よりマナーが良いぞ。
今のお前は飢えた野獣同然だ」
わたくしの手を掴んだのは夫だった。
「ハリマン、手を放して!
話なら食事の後でいくらでも聞くわ!」
料理の匂いで胃袋を刺激され、わたくしの理性は崩壊寸前だ。
このままでは旦那様の腕に噛み付いてでも、拘束を解こうとしてしまう。
「料理が食べたいなら、まずはこの書類にサインしなさい」
旦那様が紙とペンをテーブルの端においた。
「この紙にサインすれば料理が食べられるのね!」
わたくしはペンを手に取り迷わずサインした。
「これでよろしいでしょう!
二度とわたくしの邪魔をしないで!」
旦那様の手を振りほどき、わたくしは料理に手を伸ばす!
フォークやナイフやスプーンもあったが無視した!
テーブルマナーなんてどうでもいいわ!!
わたくしは鴨のコンフィを手で掴み、豪快にかぶりついた!
続いて舌平目のムニエルとムール貝の白ワイン蒸しを平らげ、喉を潤すためにオニオングラタンスープを一気に流し込んだ。
皿に口をつけてスープを飲んだことなどなかったが、この方が美味しく感じる。新発見だわ!
「今の君はまるで飢えた野良犬だな。
いや野良犬だってもう少しまともだ」
ハリマンがわたくしをあざ笑っている声が聞こえたが、今はそれどころではない。
「欲深い君が、書類に何が書いてあるか確かめもせずにサインをするとはな……」
次はキッシュロレーヌを食べよう!
甘いものも欲しくなってきたから、その次はチョコレートタルトにしよう!
わたくしは次に何を食べるかの算段で頭がいっぱいだった。
「僕とデルミーラの離婚はたった今成立した!
その女はもう公爵夫人ではない!
当家の家名に傷をつける害虫だ!
その女を屋敷から追い出せ!」
キッシュロレーヌに手を伸ばそうとしたとき、部屋に護衛の兵士が入ってきて、わたくしはあっという間に拘束された!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます