第50話 量産される脅威

 「些少ですが、どうぞお納めください」


 「ありがたく頂戴します」


 「猛想戦記」の相次ぐ重版に伴って発生した印税収入。

 それを持参した平沼龍角に礼を言いつつ、連合艦隊司令長官の山本大将は札束が入った茶封筒を躊躇なく自身の懐にしまう。


 現在、山本長官は井上成美中将や高木惣吉少将らとともに、水面下で終戦工作に勤しんでいる。

 しかし、工作にはそれなりの現ナマが必要だ。

 いくら海軍大将といえども所詮は役人であり、自身の裁量で動かせる金には限度がある。

 それに、事が事だけに表立って大金を動かすのは憚られた。

 だからこそ、平沼からの献金は今の山本長官にとって重要な資金源であり、それゆえに彼に対する態度もまた丁寧なものになっている。


 「ドイツと日本が連携してソ連を下したのは重畳でした。これで、日本はいつ裏切るか分からない国家の脅威を取り払うことがかないました。一方の米国はと言えば、最後の同盟国を失いこちらは孤立が決定的となっています。

 事程左様に戦争が順調に推移しているのも、ひとえに山本さんの的確な戦争指導のおかげです。この不肖平沼、日本国民の一人として御礼申し上げます」


 いつになく持ち上げてくる平沼に、謙虚の言葉と苦笑を返しつつ山本長官は壮絶というよりもむしろ凄絶あるいは悲惨という言葉こそが似あう独ソ戦に思いをはせる。

 昭和一八年春、雪解けを待って進撃を開始したドイツ軍に対し、一方のソ連軍は米国からのレンドリースが断ち切られた状態でこれに対峙しなければならなかった。

 米国から送られるはずだったトラックや機関車、それらが入手できなくなったソ連軍は次第に機動力を失い、夏になる頃には拠点防衛以外に取り得る手段が無くなってしまう。

 そんなソ連軍の弱みに付け込み、ドイツ軍はソ連兵が籠城する町や村を一つずつ潰していった。


 悲惨なのは住民たちだった。

 ドイツ軍に街そのものを包囲されてしまっては逃げることも出来ず、ソ連兵とともに武器を手にとって抵抗するしかない。

 もちろん、降伏を訴える市民もいたが、しかしそのような者は裏切り者呼ばわりされ、味方であるはずのソ連軍にそのことごとくが始末されていた。

 それと、一般市民とはいえ武器を携帯している者に情けをかけるほどドイツ軍はお人好しではない。

 かわいそうな住民たちは、その多くがソ連兵とともにドイツ軍によって街ごと摺り潰されてしまった。


 そのドイツ軍からの報告を信じるのであれば、秋までに殲滅されたソ連軍の師団は数百に及び、戦死者もまた数百万人にのぼるという。

 さらに、ドイツ軍とソ連軍の戦いの巻き添えとなった一般市民は死者行方不明者合わせて数千万人にも及ぶというから、いかに欧州の戦いが容赦の無い凄惨なものだったのかが分かる。

 もちろん、この戦いにおいて枢軸側も無事では済まず、ドイツ軍は数十万、イタリア軍と日本軍はそれぞれ数万に達する将兵が戦死傷している。


 「まあ、北方の脅威が無くなったことは喜ばしいことですが、しかし依然として米国は強大です。我々に喜んでいる余裕はありません」


 昭和一八年というのは帝国陸軍のみならず、帝国海軍にとっても対ソ戦に明け暮れた年だった。

 それゆえに、米国あるいは太平洋艦隊相手に十分な圧力をかけるには至っていない。

 帝国海軍が対ソ戦にその戦力を傾注している間に米海軍は戦力強化を着々と進め、特に空母戦力は開戦前をも上回っている。

 さらに信じられないことに、再起不能のダメージを与えたはずの真珠湾をわずか二年足らずの間に完全回復させてしまった。

 米国に対して速戦即決、短期決戦早期和平を志向していた山本長官にとって昭和一八年というのは、ただただ太平洋艦隊再建のための時間を与えてしまった、言わば愚行の年にしか思えなかった。


 「その強大な米国に対して、山本さんは大勝負をかけようとしている。狙いは太平洋艦隊の撃滅であり、それを奇貨として米国民に日本に対する恐怖心を惹起せしめ米政府に揺さぶりをかける。そして、機が熟したところで講和交渉を持ち掛ける。そういったところでしょうか」


 平沼の推測は当たっている。

 これまで彼の言うことが外れたためしは無いのだが、しかし事が事だけに彼の見識を再確認しておく必要があった。

 場合によっては、機密に抵触することも話さなければならないこともあり得るからだ。


 「海外事情に精通されておられる平沼さんにお尋ねしたい。あなたは米国、特に米海軍の現状についてどう評価されておられますか。腹蔵ないご意見を賜りたいのだが」


 平沼の推測に対して否定も肯定もしないまま、山本長官は彼にざっくりとした質問を投げかける。

 以前にも似たようなことを何度かしたが、しかし平沼は一度たりとて筋違いな返事をしたことはない。


 「山本さんは二大洋艦隊整備計画をご存じだとは思いますが、その前提でお話を進めさせていただいてよろしいでしょうか」


 平沼の確認に、山本長官は間髪入れず首肯する。

 二大洋艦隊整備計画はオープン情報であり、軍人のみならず一般市民でもその内容を知る者は多い。


 「米国は戦前、二大洋艦隊整備計画に基づいて一二隻の空母を発注しています。そのうちの一隻は北大西洋海戦で撃沈した『ホーネット』、残る一一隻は『エセックス』級と呼ばれる『ヨークタウン』級を大きく上回る大型正規空母です。

 これら『エセックス』級のうち、最低でも七隻、多ければ八隻が昭和一八年中に竣工あるいは就役することになります。また、新型巡洋艦を改造した『インデペンデンス』級軽空母ですが、こちらは九隻のうちのそのすべてが年内に完成の運びとなるでしょう」


 「エセックス」級はともかく、なぜ「インデペンデンス」級空母の存在とその建造数まで一般市民であるはずの平沼が知っているのかと突っ込みたい気持ちを抑えつつ、しかし山本長官は目でその先を促す。

 それに、そもそもとして平沼は自分に「意知字句艦帳」をもたらした存在だ。

 この胡乱な男に対して細かい疑念をいちいち質していたら、話が前に進まない。


 「つまり、米軍は現時点で大小合わせて十隻以上の空母がすでに実戦配備され、さらに数隻が慣熟訓練に入っているということですな」


 何かに耐え、嚙み締めるように話す山本長官に、しかし平沼は平然と悪い情報の追い打ちをかける。


 「あっ、そうそう。『エセックス』級ですが、トータルですでに三二隻が発注されていますよ。さすがに、米国はお金持ちですねえ。貧乏な日本とはスケールが違う。実にうらやましいことです」

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