五、『白い沙漠に白い雪』その2
今年の六月は雨が少なく快晴が続いたが、七月に入ると同時に連日雨となった。
まるで梅雨がスライドしたような天気で、どんよりとした鈍色の雲が厚く空を覆い、ぽつぽつと体温のような雨が降り続く。前線の配置は梅雨の形を取っており、気象予報士も梅雨明けはまだ先だと言っていたが、雨に濡れたアスファルトの匂いは夏のようであった。
「おはよう」
モノレール駅の改札口、柄野久 午兎を見付けた来良は小さく手を挙げてから、軽くブラウスのリボンとスカートの裾を直した。
「おはよう。今日もまた、雨か」
「雨、嫌い?」
「別に雨が嫌いな訳じゃあないけれど、傘がね。片手が塞がっているというのは、どうにも具合が悪い」
左手に持ったビニール傘を恨めしげに一瞥し、午兎は答える。
「ああ、だから鞄もリュックサックなのか。でも未来だって傘使うでしょ?」
「使わないよ。基本、ハイヴの外に出ないからね。それに、僕の居た世界は雨降らないんだ。とにかく寒いから、雨が降る余裕がないんだ。飽きもせず、ずっと雪」
だから、と傘を広げながら午兎は言った。
「こういう陽気でも、僕は嬉しいな。空気が暖かい、というのが新鮮で気持ちが良い。あそこはずっと、寒いままだから」
「もう少し・・・・・・夏休みぐらいになったら、天気が良くなってもっと夏らしくなるよ。そうしたら、海に行こうよ。ああ、海ってのはね――」
「いや、知ってるよ。スマホで見てるし」
丁寧に解説しようとする来良を午兎は半笑いで制す。
「でも、どうだろうな。そこまで後だと、僕がどうなっているか分からないから」
「そっか――」
通学路。同じ制服に溶け込むように、二人は同じ歩幅で歩く。差した傘に雨粒が跳ねて、軽快な音を立てた。
「不思議だね、ずっと未来からこっちへ来たのに、ちょっと先の未来が分からないなんて」
「僕もそう思う」
苦笑し、午兎は差した傘越しに空を見る。
「晴れたり雨だったり、時には雪が降ったり。そういうのが、ぐるぐる廻っていくのが生きている世界なんだろうね。此所へ来たばかりの時はランダムな天気に辟易したけれど、最近ではそれがちょっと好きだな」
学校が近付く度に生徒の数は増えていき、色取り取りの傘の花が開いた。
「――ねぇ、今日行くの?」
「ああ。そっちは予備校?」
「うん。でも午兎君が行くなら、サボってもいいかな」
「危ないから、付いて来なくても良いんだぜ?」
「足手纏いだって事は分かってる。でも、言ったでしょ? 少しでも長く一緒に居たいって」
「だからって、鉄火場まで一緒とはね。まあ、別に良いけれど」
肩を竦め、午兎は遠くを見つめるように眼を細める。
「あのオッサンの話だと、イサクはこの街で目撃されている。アイツが味方になる事はまずない。だったら話は簡単だ。奴を確保して、計画の全貌を聞き出せばいい。それこそ、拷問でも何でもして」
「友達・・・・・・だったんでしょ? それも、兄弟みたいな親友」
「前にも言っただろう、そう思っていたのは僕だけだったって」
「でも――――」
「向こうも、その方が良いんだ。敵だって、そうやって割り切った方が。でなければ多分、お互いにもっと辛くなる」
「分からないな、わたしには。そういう、〝男の子の世界〟っていうの。拳で語り合うなんて、野蛮だよ」
「ナイフ振り回してる奴の台詞じゃあないね、それ」
口を尖らせて語る来良に、午兎は苦笑した。
「じゃあ、一昨日と同じように十九時に駅前で。この時間なら、補導される心配もないだろうし」
「うん、分かった。でも、何でいつも夜ばかり?」
「後ろめたい事をする時は、夜陰に乗じるのが鉄則だろう? 昼間堂々となんて、それこそ泥棒が玄関からチャイムを鳴らして押し入るようなものさ」
「まあ、それはそうなんだけれどね・・・・・・」
「何か?」
己の頬を撫でながら思案する来良に対し、午兎は首を傾げる。
「午兎君は
「そうだとしても、彼らは昼間に襲っては来ないよ」
「根拠は?」
「人数だ」
午兎はしとしと降り続く雨を見つめながら、はっきりとした口調で断言した。
「時間を跳躍出来る
徐に午兎は徐に立ち止まり、それに合わせて来良も歩みを止める。
「――少しは、分かるんだ。彼らが何故、侵略しようとしているか」
「えっ――」
「侵略しないでこの世界に溶け込むなんて、僕らには無理だよ。もう少し前なら、大人の
校門へ消えていく生徒達を見つめ、午兎は続ける。
「最近、分かった。子供には、自立するまで大人の庇護が必要なんだよ。それがない僕らは、巣から落ちた雛鳥みたいなものだ。だからこの世界で少しでも身の安全を確保する為に、彼らは過激な方法を使うんだろう。馬鹿だとは思うけれど、愚かだとは思えない」
「結局、生きたいんだね。皆、折角生まれたんだから、死ぬまでは目一杯生きたいんだ。それこそ、安らかに」
「本能なんだよ。君に言わせるならば、動物的なんだ」
笑い、午兎は言った。
「だからといって、僕は彼らの好きにはしない。彼らに相応の理由があるように、僕にも彼らを阻む理由があるからね」
午兎は、自分の華奢な右手を来良の右手に絡ませる。
「・・・・・・両手、塞がっているよ?」
「君の手で塞がるなら、別に構わないよ」
「屁理屈」
口調こそ刺々しかったが、来良の表情は少し崩れていた。
また二人、同じ歩幅で雨の中を歩き出す。
「でも、嬉しいかも・・・・・・なんて」
「問題は」笑い掛ける来良から明後日の方向へ目を逸らし、午兎は別の話題を切り出した。「向こうへ送った人間の利用方法か。まあ、何に使うかは分からないけれど、どう使うかは大凡の見当が付いている」
「どういう事?」
「何度も言うが、向こうは人数が少ない。連中にとってそれは最大のネックだから、数の不利を何とかしようと思っている。だから人間は、それを補う為に使われる筈だ」
「それってつまり、人間を使って兵隊を作るって事? でも、未来と過去を行き来するには確か適性が必要なんでしょ? ちゃんと行き来する事なんて出来るの?」
「・・・・・・そこなんだよな、実際」
首を捻り、午兎はぼやいた。
「正直な話、僕もこの世界と向こうを行き来する仕組みを詳しく知っている訳じゃあない。でも、知っている知識で考えると難しいと思う。適正っていうのは、要するに迷子にならない為の適正さ。トーチのか細い灯りだけを頼りに二つの世界を行き来して無事に帰って来る能力、謂わば帰巣本能だ。こっちに来るのであればこの能力は必要だと思うんだよ」
「鞄に入れてくるとか? こっちで買った資源だって、そうやって持っていくんでしょ?」
「向こうへ持って行く分にはね。でも、あっちからこっちへは難しいと思う。滅びは一つだけど、続いている世界のパターンは無限にあるから。失敗したな、生き物を送ったことないから分からないんだ。こんな事なら、犬か猫で一回ぐらい実験してみれば良かったよ」
「そんな、クドリャフカみたいな事を・・・・・・」
半眼になる来良を尻目に、午兎は考え込む。
「キーとなっているのは、連中が選別理由にしていた花粉症の件。君が言ったようにナノマシンが関係しているとすれば、或いは――」
「ナノマシンが関係あるの?」
「例えば、ナノマシンで擬似的な
リベカ、という名前を聞いて来良は俯いた。その少女もまた、柄野久 午兎にとって兄弟に近い親友。
いや、そうじゃあない。
モヤモヤしているのは、彼の口から別の女の名前が出たからだ。
――どんどん
側に彼が居る。自分が一番好きな、男の子。
こうやって手も繋いで、一緒に登校している。それなのに、それだけじゃあ足りないと黒い塊が耳元で囁く。彼がこんなに近くに居て、何一つ不満はないのに、心だけは一向に満たされなかった。
「・・・・・・まあとにかく、所詮は仮説だ。実際は分からない。まずはこの街に居るだろうイサクの行方を――」
「――俺が、なんだって?」
眼前、いつの間にか出現した少年が不敵な笑みを浮かべた。
「イサク!?」
「良いね、そのリアクション。突然現れた甲斐があるというモノだ」
小さく見える校門を背に路地で傘を差す事なく佇む、白い外套を纏った浅黒い肌の長身の少年。写真で見た時から思っていたが、バスケ部に入ってそうな出で立ちにその格好は似合わない。事実、周りの生徒達は皆奇異の視線を少年に向けながら、彼を避けるように学校へ向かっていた。
「そっちの
周囲の視線など一切気にせず、イサクはジロリと来良に眼球を向ける。雨に濡れて湿った嫌な緊張感が、三人の間でじっとりと広がった。
「思ったより、可愛くないね」
「ほっとけ!」
畜生、シリアスが何処かに行ってしまったじゃあないか。
「すまんすまん。あのシフォンケーキ作った
「失礼な人だね、貴方。まあ、未来人が失礼なのは彼を見ているからよく知っているけれど」
握り締めた手の持ち主を一瞥し、来良は言った。
「堂々とわたし達の前に姿を現すなんて、何の用? まさか今更、味方になるつもりじゃあないでしょ?」
「味方・・・・・・ねぇ、勘付かれていたか。それとも、リベカが口を滑らせたか。アイツはエノクの事が好きだから、最後まで味方に引き入れようと甘ったれた事を抜かしていたし」
刈り込んだ金髪を掻き毟り、イサクはぼやく。
「事が済んだら、後は用済みだ。やっぱり殺しておくべきだったか」
「何を――――」
抗議しようと口を動かすより先、乾いた銃声が一つ響いた。
「こんな具合に、さ」
薬莢がアスファルトへ転がる甲高い音、同時にイサクに視線を向けた女子生徒の身体がぐらりと崩れ、その場に倒れ伏す。うつ伏せになった少女の頭部から、じわじわと脳漿の混じる血が広がっていった。
言語を
「流石はワルサー社のP99だ、ズシッと来るな。ショボい出力品じゃあないぜ、コイツは。わざわざエリアにアメリカで買ってきて貰ったんだ。威力も精度も、お前の
刹那のタイミングで銃を構えた午兎に対し、イサクは得意げに言い放った。
「試してみるかい? 真昼の決斗ってヤツを」
「軽薄だとは思っていたが、悪趣味な奴だとは思っていなかったよ」
事切れた女子生徒を一瞥し、午兎は剣呑に眼を細める。
「お前、何を考えている?」
「別に何も」
銃を構えたまま、イサクは嗤った。
「ただ俺は、しっかりと眠りたいんだ。夢さえ見ずに」
「夢?」
「ああそうさ、夢だよ」
雨脚が強まる。生徒達は学校へ避難し、周囲には三人以外人影は見当たらない。遠くでサイレンが響くのは、恐らく誰かが通報したからだろう。
「あの真っ白な終わりを待ち続ける世界、それともこんなありきたりな世界。なあ、エノク。一体どっちが、俺達が見ている夢なんだろうな?」
サイレンの音が、耳の中で反芻する。気が遠くなる感覚に、東風瑞 来良は眩暈を覚えた。
「俺にはもう、分からないんだよ。行き来しすぎて、どちらも溶け合ってしまってる。きっと今、俺は夢を見ているんだ。寝ても覚めても、ずっと夢。だからもう、いい加減きちんと眠りたいんだ。夢さえ見ずにぐっすりと眠ったら、俺は爽快な気分で目覚めることが出来ると思う」
「その為に、この世界を傷付けると?」
「何度自分を殴ってもさ、一向に目覚めないんだ。ならば世界そのものをブン殴るしかないだろう」
「勝手な事を!!」
「ああ、勝手さ。けれども、そういうモノだろう? 人間って
傘が風に飛ばされ同時に響く、銃声。二つの交錯した銃弾は互いの急所を正確に穿つが、それらは肉体を貫く前に阻まれ消失した。
「くッ――――――――」
「拳銃如きじゃあ、やはり貫けないか」
午兎は学生服の上から白い外套を身に纏い、イサクは頭部にてるてる坊主じみた仮面を被る。戦闘態勢となった二人。いつの間にか解かれた右手に、来良は切なさを覚えた。
「どうせ本物なら
「必要ねぇな、そんなモノ」
煽る午兎に対し、仮面から顔を覗かせ不敵に嗤うイサク。サイレンを響かせ赤く回転灯が光るパトカーが目の前に停車し、中から二人の警察官が険しい貌で現れた。
「俺の切り札は、こっちだからさ」
厳しい口調を向ける警察官等を一瞥し、イサクは低く嗤った。須臾。警察官の二つの頭部が血飛沫を上げて宙を舞い、パトカーが真っ二つに斬り裂かれる。
雨の中、轟々と音を立てて炎上するパトカーの残骸。それを見下ろすように中空に浮かび佇む羽根を広げた少女――――否、それは機械であった。
全長約二メートル。シルエットこそ人間の姿を保っているが、雨に濡れて無機質な光沢を放つ堅い身体は機械特有のものである。羽根のように思えたのは、背部スラスターから噴き出したエーテルの残像。光の消えた双眼は無表情に午兎を睥睨し、右手に構えた剣のブレードはSFじみた黄色い稲妻を帯びていた。
「これが、誘拐した人間を利用した兵器か・・・・・・」
「ネフィリムと言ってな、元々はハイヴ同士の抗争に使われた技術らしい。もっと昔は処理能力のデカいCPUを突っ込んでこれよりずっと巨大だったみたいだが、制作技術の失われた今ではサイバネティクスを利用して人間の身体を強引に組み込むのが精一杯だ」
宙空で剣を構える少女を見上げ、イサクは言った。
「この大剣、本物のネフィリムにとっては小型ナイフだったらしいぜ。どんだけデカいんだよって話さ。黙示録で喇叭を吹いているヤツも、案外コイツだったりしてな」
「――――――――――」
午兎は何も答えず、奥歯を軋ませる。断じてネフィリムに臆したのではない。イサクの言葉を噛み砕いたのだ。
「小型化させた影響で、全盛期の十分の一も力はない。だが、それで十分だ。別に世界を滅亡させる気なんて、更々ないんだからな」
「何が目的だ、イサク・・・・・・いや、お前等は――」
「そいつは多分、御大将自らご高説を賜ってくれると思うぜ」
イサクは懐からスマートフォンを取り出すと、それを午兎と来良に見せるように掲げる。起動しているアプリケーションソフトは、来良のスマートフォンにもプリインストールされている一般的なニュースアプリであったが、何処かいつもとレイアウトが違った。
「アップデート・・・・・・いや、違う――」
普段の二倍はある動画を表示するウィンドウ。そこに表示されているのは午兎や眼前のイサクと同じ、白い外套を纏った銀髪の少年であった。
『――我々は〝
朗々とした声で、少年は語る。その背後にはやはり白い外套を纏った少年達が直立不動で佇んでおり、更にその背後にパトカーを破壊し警察官を惨殺したネフィリムらの姿があった。
『我々の目的は、支配でも侵略でもない。ただ貴様等の時代へ、刻み付けるのだ。滅び行く我々の、命を賭した慟哭を』
来良は徐に自分のスマートフォンを取り出し、ニュースアプリをタップした。やはりレイアウトが変更された画面にに、大きな動画ウィンドウ。付随するアフィリエイト広告さえ、少年の姿が映し出されている。
「苦労したぜ、ハッキング。取り敢えず、有名所のニュースサイトにはリアルタイムでこの動画が配信されるようにしてある。アクセスしなければ見えないのが難点だが、適当にその辺で暴れればそのうち誰かが拡散してくれるだろ」
得意げにイサクが語る中、動画では銀髪の少年が口角泡を飛ばし演説していた。来良はその言葉の意味の半分も理解出来なかったが、何故かそれがとても稚拙なもので、癇癪を起こした幼児の
「まあ、動画の通りうちの御大将も自分達の力で、この世界をどうこう出来るとは思っていないのさ。だが、爪痕は残すことが出来る。深く、えぐく。丁度、こんな風にな――」
「!?」
動画の最後、少年が号令を掛けると数十体にも及ぶネフィリム達が一斉に左手を掲げた。掌に光が収束したかと思うと、刹那。激しい光線となって周囲の建物を凪ぎ払う。
「・・・・・・お前が悪いんだぜ、エノク」
途端。腹にまで重く響く爆発音が響き、水分をたっぷりと含んだ街路樹が荒れ狂うようにしなった。台風も斯くやという激しい雨風に、来良は思わず目を瞑る。
「お前が、この街に住んだからこんな事になるんだ」
「イサク、お前――――」
「おっと、殺り合うかい? そんなちんけな奴を庇いながらさ」
戯けるイサクに対し、午兎は肉薄した。雨粒を蹴り上げ、白い外套をはためかせる。構えた銃の照星がイサクを捉え、人差し指に力を込めて
それがどんなに無駄な事か、柄野久 午兎は重々承知している。自分も身に纏う白い
それでも、午兎は
「成る程、守っているのか。自分の姫様を!!」
イサクの発言に、午兎は目を見張る。図星を突いたとイサクは嗤うが、それを嘲笑うかのように午兎は口を歪めた。
意味が、分からない。不明瞭。僅かに動揺の色を帯びたイサクの背後、黒い影が躍り出る。
「馬鹿な、お前――――――」
振り返る先、雨粒に汚れたナイフを逆手に握る東風瑞 来良の姿があった。一切の躊躇を見せぬ、覚悟を決めた貌。振りかぶったナイフは正確にイサクの纏うアルバの隙間を斬り裂いた。
「やっぱり、頑丈なのはマントだけかッ!!」
地面に着地すると同時、確信したように来良は叫んだ。
その手に握るナイフは、彼女が所持する〝折り畳み式キャンプ用包丁〟ではない。高級鋼材S30V鋼を使用したフルタング構造のフィクスドナイフ、ベンチメイド社の〝コンティゴ〟であった。チャンバラをするなら持っていけ、と韮崎 鎺から手渡された逸品。
「こんなあっさりと――」
咄嗟の出来事に、イサクの思考が追い付かない。この時代の一体何処に、躊躇なくナイフを繰り出す女子高生が居るというのか。だが、確かな現実として今此所でナイフの切っ先をこちらへ向け、双眼を剣呑に細めた少女が雨に濡れていた。
「・・・・・・そのマントに慢心し過ぎたんだよ」
宙空にナイフを投げて、来良は逆手から順手に変える。
「そんなにひらひらしているんだ、隙間からダメージは与えられる」
「――――――――」
イサクはごくりと喉を鳴らした。この少女、戦い慣れている。ただの一般人だと高を括っていたが、とんだダークホースじゃあないか。反射的にイサクは午兎へ視線を向けた。そこでは銃を構えた午兎が不敵な笑みを浮かべている。
「守っていたんじゃあない、牽制していたというのか! この芋女に最高のチャンスを手渡す為に!!」
「芋女じゃあない、東風瑞 来良だ! 勿論、越水でもない!!」
ナイフを弄び、重さとG10製のハンドルの感触を身体に馴染ませながら来良は答えた。
「現代人舐めるな、未来人。爪痕を残すだと? 巫山戯るな、そんな下らない理由で、大切な命を粗末にするんじゃあない!!」
「舐めているのはお前さ、嬢ちゃん」
被っていたミトラを放り捨て、イサクは来良を凝視した。ミトラから発するエネルギーフィールドが使えない以上、防御力は著しく下がるが、その分視野を確保出来る。それはイサクが東風瑞 来良を〝敵〟として認識した瞬間であった。
圧倒的な防御力は、判断力を麻痺させる。攻撃を受けたら傷を負うぐらいの肉薄が、殺し合うには丁度良い。
どうせバッテリーの関係で、無敵のエネルギーフィールドは数回しか使えないのだし。
「こんな世界で
「理解出来ないな、僕にも。自分が辛いからって、人にその辛さを押し付けてはいけない。それは、単なる八つ当たりというモノだ」
「優等生だからな、お前は」
イサクは失笑すると、午兎を一瞥してから来良を見据えた。
「けれどな、世の中には結構居るんだぜ。人の幸せが許せない、隙あらば潰してやるって奴が。俺は別にどうだっていいけれど、うちの御大将がね」
イサクは自分のスマートフォンの中で尚も演説するエリアを一瞥する。一瞬であったが、その眼差しには憐憫と恐怖が入り交じっていた。
「アイツにとって、来良ちゃんを含めたこの世界で暮らす人間全てが、憎むべき過去なんだ。何をどうしようが、俺達は滅びて世界は終わる。せめてその前に、自分の恨みだけは晴らしたいという訳さ。運が良ければ自分の血縁者を手に掛けて、引き起こしたタイムパラドクスで自分自身を消失させる事が出来るからな」
「馬鹿じゃあないの?」
嫌悪感を露わに、来良は吐き捨てる。
「それって、単なる自殺じゃない。勝手に首吊って死ねば済む事に、無関係の人を巻き込んで。悪趣味だよ、それは!」
「許してくれよ、来良ちゃん。お育ちが良くないんだ、俺達は」
ぞっとするような笑みを浮かべ、イサクは来良に向けて間合いを詰める。その判断に、来良は戸惑う。銃を持っているなら、射程距離まで間合いを詰めるべきだ。こちらが接近戦を得意とする事を知っているなら、尚更。
「――誰が、お前を攻撃すると言った?」
自惚れるな、とイサクの双眼が語る。
「!?」
背後、ゲームに出てくるような大剣を振りかぶるネフィリムの姿。
「ネフィリム、そこのお嬢さんを永遠に睡らせろ――――」
生気のない死人じみた貌を来良に向け、一閃。雨脚が寸断され、風が唸った。肉が焦げる匂いに、銃声が響く。ぽたりぽたりと雨粒に混じる赤いモノが滴り、他人事のように来良は遠くを見つめた。
「その思い切りの良さ、凄いな」
大剣の血糊を払うネフィリムを従え、イサクは素直に評す。
「何処かで訓練でも受けたのかい? 切断される寸前に
「それはどうも」
肩口から右腕を失った来良は、青い唇で嗤った。彼女の視線の先には、つい数刹那前まで彼女へ接続されていた右腕が雨に打たれて打ち棄てられている。
「でも、それだけの価値はあった。腕一本でこの成果なら、儲けものだよ」
「何を――――」
言葉を紡ごうとした口から、血泡が吹き出す。イサクの腹部には深々と大剣が突き刺さり、白い外套を赤く染め上げている。
「エノク、テメェ・・・・・・・・・・・・!」
その大剣は、紛れもなくネフィリムが携えていた得物。その証として、血管じみたケーブルが露出する人形のような握り手が柄に付着していた。
「君らと違って、僕らには切り札がないんでね。よって君達の切り札、利用させて貰おう」
午兎は突き刺した大剣を引き抜き、慣性の法則を利用しそのままネフィリムを襲う。首を切断されたネフィリムは直ぐさま機能を停止させ、アスファルトの地面へ墜落した。
丁度、遊び終わったマリオネットが、オモチャ箱へ放り込まれるように。
「・・・・・・その剣、格好いいけれど関節への負荷が凄いみたい。ナイフで何回か
「しょうがないだろう、人間用のサイズじゃあないんだからさ」
出血止まらぬ腹部を押さえ、イサクは半笑いで呻いた。
「だが、まあ満足だ。出来れば、来良ちゃんの手に掛かって最期を迎えたかったがな」
「残念だが、その願いは聞き届けられない」皮肉げに嗤うイサクに対し午兎は言った。「彼女に人殺しなんて、僕がさせないからだ」
「は――――」
イサクは血に汚れた右手で顔を覆い、低い声で嗤った。その哄笑はしんしんと振る雨の中、ノイズのように周囲の空気を乱す。
「何が可笑しい?」
「勝利を確信している、お前の甘さだよ」
イサクは懐から白いカードを取り出した。見覚えのあるカードに、来良の思考が迸る。
「ヤバい、ナノパッチで回復する気だ!!」
「くッ――――――」
来良が気付いてナイフを手放すと同時、イサクはカードを放ち奥歯に仕込んだインプラントのスイッチを起動する。それはカードに塗布されたナノマシンを作動させる
途端、午兎の身体がぐらりと揺らいだ。握った大剣の重さにバランスを崩し、世界の重力が内臓を押し上げ嘔吐く。
「何をした、イサクッ!!」
「別に。ただ、お前のチート能力の根源をぶっ壊しただけさ。その特製のナノパッチを使ってよ」
嗤うイサクの眼前、午兎の掌に白いカードが付着していた。
「機械の化け物みたいな老人共程じゃあないにせよ、俺達の身体能力もナノマシンに頼ってる。だからこうしてぶっ壊しちまえば、この世界じゃあ常人以下のモヤシ野郎だ」
喀血し、咳き込みながらイサクは力なく嗤った。
「何で、俺が別行動していたと思う? この世界で一番の脅威であるお前を足止めする為だよ」
そしてそれは成功した、イサクは地面に膝を付く午兎へ残酷な視線を向ける。
「全部、手の中で踊っていたという訳か・・・・・・お前の、エリアの!!」
「俺の役目は、これで終わりだ、後はお前等が好き勝手にやってくれ。一足先に、俺は抜ける」
言い終えると、イサクは身体を崩し瞳は徐々に光を失っていく。
「やっと・・・・・・眠れるぜ」
堅いアスファルト。雨に濡れて決して快適とは言えぬ地面にベッドのように寝そべり、イサクは両目を閉じた。
「夢も見ず、ぐっすりとな――」
呟くと同時、イサクの灯火が消える。しかしその死に顔は、激しい殺し合いの末に果てたとは思えぬ安らかな寝顔であった。
「――――――――」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
イサクの屍体を前に、二人は無言のまま雨に打たれていた。
互いに満身創痍、あれ程滾っていた戦意さえも風前の灯火である。
雨はいよいよ激しさを増し、まるで二人を阻むように本降りとなった。遠くで、小さく慣れ親しんだ校門が見える。学校まで百メートルもない。しかし現時点に於いてそこは、来良にとって世界で一番遠い場所であった。
「・・・・・・行こう」
「うん」
午兎に差し出されたナノパッチを受け取り、来良はブレザーを脱ぎ捨てて右肩に貼り付ける。剣が傷口を焼いたお陰で思ったよりも出血が少ないが、痺れるような痛みが激しい。その痛みはナノマシンが体内へ染み込むと嘘のように消えていった。
不意に、雨に濡れた自分の右腕に視線を向ける。その腕には、血で汚れたブラウスの切れ端がしっかりと巻き付いていた。
「さようなら、女子高生のわたし」
来良は血の気が戻り始めた唇で右腕に別れの言葉を紡ぐと、路肩に転がったナイフを拾い上げる
目指す場所は、ただ一つ。狼煙のように幾重もの黒煙が立ち上る中心街。先程の一件によりモノレールは運行を見合わせており、近くを通る車は一台もない。
それでも互いの身体を支え合いながら、二人は一歩ずつ歩き出す。
イサクの悪夢は、終わった。
しかし二人の悪夢は、終わらない。
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