第5話 契約

「社長さんにわざわざお越しいただけるとは思っていませんでした。」

蓮司はどこか白々しらじらしい敬語と笑顔で言った。

「こちらの契約内容には担当者“一人で”とは書いてありませんでしたので。」

そう言って、明石は契約書をテーブルに置いた。

「…なるほど。では毎回お二人でお越しいただけるんですか?」

「いえ。契約にあたってご挨拶と、契約内容について確認させていただこうと思いまして。」

どことなくピリピリとした空気の蓮司に、明石は淡々と言った。

「まず、本当にこの契約内容でよろしいんでしょうか?」

「というと?」

「一澤さんは現在進行形でメディアへの作品露出も増えていて、おそらくこれからどんどん伸びていくアーティストだと思います。正直なところ弊社はまだまだ規模の小さい会社で、もっと良い条件を提示する会社からのお声がけもあるのではないかと思いますが…。」

「………」

蓮司は否定も肯定もしない。

「弊社としては、この条件でご契約いただけるのであれば願ってもないことです。ただ…」

明石が蓮司を見据えた。

「この契約のために弊社の社員が犠牲になるようなことがあるなら、このお話は無かったことにさせていただきます。」

「え、社ちょ…」

菫は戸惑って明石に声をかけようとしたが、明石に手の仕草で制止された。

「犠牲?」

「契約をエサに男女の関係を迫るとか、業務に関係無い事をさせるとか…いわゆるハラスメントが無いようにしていただきたい。川井が週一こちらに伺うのは…まあ、定例のミーティングという形で時間を捻出できるように業務を調整しても良いですが…あくまでも業務の一環ですので、業務日報を提出させます。」

「………」

蓮司は黙って聞いている。

「あとは…アトリエ訪問がいつまでなのか、期限を設定させていただきます。」

「期限?」

「はい。川井にも他の業務がありますので、ひとまず“今回の商品の発売まで”“発売中止の場合はその時点でアトリエ訪問は終了”とさせてください。」

そこまで言うと、明石は先ほどとは別の契約書を取り出してテーブルに置いた。

「先日手書きで追記いただいた内容と、今私からお伝えした内容を反映した契約書です。納得いただけたら、こちらに署名捺印をお願いします。」

———ふ…ハハッ

明石が話し終わると、蓮司は笑い出した。

「スミレちゃんが無防備で素直な理由がわかった。」

蓮司の口調が敬語ではなくなった。

「え」

菫が怪訝な顔をした。明石の表情は静かなまま変わらない。

「いいよ、この契約書にサインする。印鑑とって来る。」

そう言って蓮司は奥の部屋に向かった。

「…結局社長の手を煩わせてしまってすみません…。」

菫が言った。

「いや別に、このくらいのことは当たり前。」

明石は優しく笑った。その顔に、菫は思わず顔を赤らめてしまう。


印鑑を持って来た蓮司が契約書に署名と捺印をした。

「…にしてもさぁ、よく俺がここのあんぱん好きだって知ってたね。袋見た瞬間すげーびびった。しかも栗入りのつぶあん。」

蓮司が手土産の袋を開けて言った。

(え…そうなの?)

「私の妻が一澤さんの作品が好きで、以前に雑誌に書いてあったと教えてくれました。」

明石が言った。

「あー…なんかインタビューで聞かれたことあったかも。」

「…さすが香魚あゆさん!」

菫が感嘆の溜息をいて言った。

「アユさん?」

蓮司が聞いた。

「社長の奥さんは私が世界一尊敬してるデザイナーさんなんです。」

なぜか菫が得意げに言う。

「大袈裟…」

明石は苦笑いした。

「世界一?」

蓮司の眉が一瞬ピク…っと小さく動いた。

菫は営業用に持ち歩いている商品カタログのファイルを取り出した。

「香魚さんがデザインしたこのお花のシリーズ、プチフルールって言うんですけど、これがとくに好きなんですよね〜!色がすーっごくきれいで、花柄なのに背景にストーリーがありそうっていうか…スミレの柄もあって…」

菫の声色がワントーン明るくなり、急に饒舌になる。

「ふーん…」

蓮司は不機嫌そうな顔になった。

「でもさー、そのは俺のファンなんだから、俺の方が世界一ってことじゃない?」

「え…うーん…一澤さんと香魚さんはジャンルが違うっていうか…」

菫は真剣に考えて言った。

「まあいいや、俺の商品が発売になったらより売れるし。」

「ぜひそうなってください。こちらも尽力します。」

明石が苦笑いで言った。

「明石さん。」

蓮司が言った。

「はい。」

「あんたが言ったみたいに、もっと…言ってしまえば金額的においしい契約の話もあるんだけど、スミレちゃんが俺の個展に来たことがあるとか、明石さんの奥さんが昔のインタビューのこと覚えてるとか…そういう会社は初めてだから。だからあんたのとこと契約するし、ちゃんと仕事する。よろしくお願いします。」

そう言って、蓮司は立ち上がって右手を差し出した。明石も立ち上がって握手をした。

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

「スミレちゃんも握手する?」

蓮司が笑って言った。

菫はぶんぶんと首を横に振った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る