第二話 囚われの獣たち
地下格闘技場
──地下格闘技場
まともなスポーツのないシャオランドのメジャーな娯楽、それが地下格闘技だった。まともな競技名がないのは、まともなルールも規定もないからである。
例えば、
シャオランドには、こういった興行をやっている組織がいくつかあった。すべてが犯罪組織が背後に絡んでいるので、流れている金はきれいなものではなかった。興行の裏では、薬物や人身売買、売春が行われているケースも珍しくない。
そんな地下格闘技上のリングに、フィスタの姿があった。
「見た目に惑わされるな、フィスタ。やつぁ筋肉がでかいだけのでくの坊だ。技量に関してはお前さんの方が上さ」
フィスタのセコンドについているのは同じプライベーターの“ブラインドホーク”と自分で名乗っている盲目の老人だった。
「……じいさん見えてんの?」
リングのコーナーに立つフィスタが訊ねる。
「
得意げにブラインドホークは笑う。
「それは良いんだけどさぁ……せめてあたしの方を向いて言ってくれる?」
老人は明後日の方向を向いて話していた。
場内アナウンスが始まった。
「それでは、本日の第三試合を始めます。
場内から「つまんねぇよ、女同士なら下着剥ぎ取りマッチしろよぉ!」と野次が飛んだ。
「うるせぇぶっ殺すぞ!」
ブラインドホークが野次に言い返す。しかし、言った方向にはフィスタがいた。
「じじい、わざとやってる?」
「赤コーナー、七戦四勝一分け、“マッチョブロンド”、エリカ・ミッタマイヤー!」
フィスタの対のコーナーに立つのは、染め上げた金髪を後ろで束ねたヨーロピアンの女だった。フィスタより一回り大きい体はタトゥーだらけだった。
女が右手を掲げると観衆が湧いた。
「エリカ! 今日はオメェに賭けてんだ! その女の骨が折れる音を聞かせてくれぇ!」
(
フィスタは相手の体を見ながら思った。
「青コーナー、地下格闘技上初出場、期待のルーキー、“アクトレス”フィスタ!」
フィスタはウィンクして観客に投げキッスをする。すると、場内からブーイングが湧いた。
「あらやだ、キスが刺激的過ぎた? 童貞ばっかなの?」
「フィスタァ、タオル投げさせんじゃねぇぞ……。」
ブラインドホークが重々しい様子で告げる。
「じいさん、それ言いたいだけだろ」
ゴングが鳴った。
エリカは腰をやや落とし、握った拳は顔の前に設置していた。典型的な
対するフィスタは両手を開き、左手は前に出ていた。前に出ている左脚は浮足気味だった。
「……フィスタという女のあの構えは?」
VIP席で観ている、興行主のマフィアは隣にいるアジア人の女に訊ねる。男はかつては何らかの運動をやっていたのかもしれないが、今では脂肪の塊になっていた。だらしなくないのは、強欲そうな瞳なだけだった。
「……ムエタイのようだけど」
女は答える。チャイナドレスから出ている肩と腕、そして太ももの筋肉の発達から、彼女もまた地下格闘技場の選手のようだ。
「ムエタイ? 立ち技で戦う気か?」
「ただ、重心のかけ方が……。」
リングの上では、エリカがフィスタに対して攻撃を仕掛けていた。
しかし、フィスタは防御するのはなく、エリカの手首の辺りを拳で叩いて弾いていた。
奇妙な光景だった。先に手を出しているエリカの攻撃のことごとくが、後に出しているフィスタの攻撃で相殺されていた。
「……あれもムエタイか? あんな軽そうなパンチでエリカの攻撃が撃ち落とされるものなのか?」
興行主が訊ねる。
「……いや、あれは“勁”だ。最小の動作で拳に重みを効かせてる」
「勁? ミステリアスな技術を使うんだな?」
「そんなに複雑に考えなくて良い。脱力して最小の力と最短の距離で攻撃を利かせるってだけのこと。一流のボクサーなんかは自然にやってる」
エリカが左のローキックを打つ。フィスタは足を脱力してそれを受ける。足がふらりと揺れる。いくらエリカが蹴っても、フィスタはそれを流していた。
(それにしてもやたら脱力できてる女だな。場慣れしてるのか?)
フィスタの戦い方を見ながら、チャイナドレスの女は思った。
攻撃が効かないので、エリカは業を煮やしてタックルに入った。しかし、フィスタは急に加速したステップで後ろに下がりそれをかわすと、さらに後ろに下がった。
フィスタはロープを背負った。
追い詰めたと思ったエリカは強引に右フックからのタックルを試みる。
しかし、フィスタはティッチャギ※で右フックで体が伸びていたエリカの脇腹を穿った。
(ティッチャギ:テコンドーの技法。構えた状態から一瞬だけ後ろを向き、体が戻ろうとする遠心力を使って蹴る。後ろ回し蹴りに似ているが、体を大きく振らないため動作が小さい)
「ぐっ?」
脇腹にカウンターの蹴りが入りエリカがうめく。
フィスタはエリカがひるんだ隙をついて体を入れ替える。
フィスタがリングの中央に立つと、エリカは再び頭を振りながら迫っていく。
フィスタの体が回転し、後ろを向く。
エリカは先のティッチャギを警戒してボディをガードする。
だがフィスタは攻撃をせずに、その場で回転をしただけだった。一瞬気が緩んだエリカだったが、再びフィスタは回転する。エリカも体を緊張させ再びガードする。しかし、フィスタの攻撃は上段の後ろ回し蹴りだった。エリカは距離があるために軽い
下がった時、エリカは自分がロープを背負っていることに気づいた。
エリカは前に出ようとする。
その顎にフィスタの二段目の後ろ回し蹴りが入った。
「かっ!?」
アルマーダ※からのハボ・ジ・アハイア※だった。
(アルマーダ:カポエイラの技法。その場で体を回転させて、足を上げて放つ蹴り。相手の顔面に蹴り足の外側を当てる。)
(ハボ・ジ・アハイア:カポエイラの技法。回転蹴り。軸足をコンパスのように利用して回転し、後ろを向く際には手をつくほどに上体を傾ける。その時に上がった蹴り足のかかとで相手の顔面を攻撃する。)
「あれは……ムエタイなのか?」
興行主がチャイナドレスの女に訊ねる。
「ムエタイだったのは、最初の構えだけだ……。」
さらにフィスタはエリカに迫る。
エリカは頭をガードしていた。
そのエリカの脇腹に、フィスタは三日月蹴り※を打つ。
(三日月蹴り:空手の技法。前蹴りと中段回し蹴りの中間の軌道で放ち、
「お……ごぉ……。」
(あれだけ入れられたら動けないはずだけど……
フィスタはガードポジションから、こまめにエリカの脇腹や顔を殴る。下から何度かエリカが関節技やポジション替え狙ってきたが、フィスタはそれを防いだ。
(このまま打ち続ければ、薬使ってようがそのうち動けなくなる。隙を見てマウントとるか関節を取るか……。)
フィスタは冷静に計算をしながらエリカを仕留めることを考えていた。これ以上相手に不必要なダメージを与えることなく。しかし──
「おいふざけんな! レズビアンショー見に来たんじゃねぇんだぞ!」
「情けねぇぞエリカ! そんなルーキーになに醜態さらしてんだ! てめぇにゃもう二度と賭けねぇからな!」
「制裁マッチだ! お前つまんねぇから次はキモデブの男と勝負させろや!」
フィスタの手の動きが止まった。
「あいつ、また悪い癖が出てやがる……。」
遠くから客席で試合を見ていたチャカが呟いた。
フィスタは数回エリカを殴ると、自分から立ち上がりガードポジションを解いた。
観客が湧いている一方、エリカはにその理由が分からなかった。
フィスタはオンガードポジション※で構えた。
(オンガードポジション:ジークンドーの技法。利き手を前に出し、やや下げる。後ろ手は顔の前に置く。両足はつま先立ちをして、後ろ足の動きの変化でステップを生み出す。)
「……また構えが変わったな」
VIP席の興行主が言う。
「技術のバーゲンセールみたいな女だな」
チャイナドレスの女が言った。
エリカが前に出る。フィスタはその前に出てきたエリカの膝を前蹴りで止める。エリカの体が傾くと、右のジャブで顔を打ち、右に回り込んで右フックでエリカの脇腹を打つ。
「くっ」
エリカがローキックを出すが、フィスタは下半身を下げて避け、せり出た上半身からまたジャブを打つ。
フィスタのステップワークと前蹴り、ストレートリード※でさばかれて、エリカの攻撃はことごとく出す前に止められていた。
(ストレートリード:ジークンドーの技法。半身に構え、前に出した方の手を縦拳にして打つ。敵に拳が届いてから全自重を乗せる。打撃の特性と
お互いに決定打に欠いたままゴングが鳴り、場内からはブーイングが起きていた。
コーナーではブラインドホークが待っていた。タオルは本人が汗を拭いていたせいでびしょびしょになっていた。
「よく戻ってきたな、フィスタ。かなり打たれたようだが、なぁに、気にすることはねぇ、あちらさんもお前にビビってるさ。後は気迫だ。虎の目だぞフィスタ。虎の目で相手を威嚇しろ! 奴にお前には勝てねぇってことをその身に刻み込むんだ! アイズ・オブ・タイガーだ!」
「じいさん、どうでもいいから、あたしのスーツの背中のファスナー下ろしてくれる?」
「ん? あ、ああ……。」
ブラインドホークはフィスタのエメラルドグリーンのスーツの首のところにあるファスナーに手をかけた。そして、少しファスナーが下がると、フィスタは自分の手を後ろに回して自力でスーツを脱ぎ始めた。
「あ~あ、初脱ぎは温泉回って決めてたんだけどなぁ……。」
スーツを脱ぎ始めたフィスタに場内は歓声を上げた。しかし、すぐにそれは収まった。
「へ、珍しいもんに見慣れた観客が静まり返ってやがるぜ」
観客席のチャカは肩を揺らして苦笑した。
「何だ……あれは? どう鍛えたらあんな体になる?」
VIP席の興行主が前のめりになる。
「どう鍛えたっていうか……どうやったらああなる?」
チャイナドレスの女も驚きを隠せていなかった。
フィスタの体は異様だった。盛り上がった筋肉ではなく、繊維の束のように引き締まった筋肉だった。その筋肉が体中の所々で角ばった凹凸を作っている。それは鍛え上げられたというよりも、そう生まれついた生物の体のようだった。小さくてもその危うさが分かる、スズメバチを見るのに近かった。
そして、その会場にいた誰もが思った。
(……ぜったい強い)
チャカがあご髭をなでる。
「そういうことか……。」
ゴングが鳴る。
フィスタは前に出ると、アリシャッフル※をした。
(アリシャッフル:ボクシングのステップワーク。その場で連続して縄跳びを飛ぶように足を交互に動かす。モハメド・アリが得意としていた)
エリカが近づくが、フィスタのステップワークが速すぎた。まるでリングの上を滑るように前後左右に動くため、どこから手を出していいのかが分からなかった。
しかし、逆にフィスタの左右の
追い詰めようにも、フィスタのステップとポジション取りが絶妙ですぐに位置が入れ替わり、まったく思い通りにいかない。
フィスタが距離を取った。左ジャブの届かない距離だった。
エリカはガードを少し下げた。
その瞬間、フィスタは飛び込むような右の逆突き※をエリカの顔に叩きこんだ。
(逆突き:伝統派空手の技法。右の足の踏み込みと腰の回転、背中を捻じる力を右の拳に乗せて打つ)
「!?」
フィスタはエリカがパンチに気を取られていた刹那、自身の足の幅を少し狭め、より跳躍できるようにしていた。
さらにフィスタは右のクロス※でエリカの顔面を殴った。
(クロス:ジークンドーの技法。右手をまず相手の顔面に当て、その瞬間に前足の左、後足の右と、体重を順番に乗せる。見た目は普通のストレートと変わらないが、自重が乗るのが拳が当たる瞬間だけなので、素早く構えを戻すことができる。)
右の二連打で吹っ飛ぶように首が曲がっていたエリカに、フィスタはだめ押しの右ストレートを放つ。右の拳がエリカの顎を大きく揺らした。
「右の三連打だと!?」
VIP席のチャイナドレスの女が叫んだ。ジャブではない、主砲の右打ちを三連発で打つ技術など見たこともなかった。
「あ……う……。」
苦し紛れにエリカはフィスタにタックルを仕掛ける。
楽々とタックルを切るフィスタ、そしてエリカの胴に背後から手をまわした。
「よいしょ」
まるで、大きな丸めたカーペットを持つように、フィスタは軽々とエリカを持ち上げた。
「なっ?」
胴に手をまわされ持ち上げられ、エリカは体が斜めになっていた。自分より体の小さな相手に持ち上げられているというのに、エリカは手も足もマットに着かない。
「天国見せたげる」
フィスタはそう言うと、後ろ反り投げ※でエリカの側頭部をマットに叩きつけた。
(後ろ反り投げ:レスリングの技法。相手の胴に後ろから手を回し、自分の体を大きく反らして捻じることによって、相手を後方に叩きつける。)
滅多に見られない大技の後ろ反り投げで場内には歓声が起きた。
しかし、それでもフィスタは止まらなかった。
フィスタは再びエリカを持ち上げると、またもや後ろ反り投げで叩きつけた。
歓声が驚愕の声に変った。
それでも終わらず、さらにフィスタはエリカを持ち上げた。
驚愕の声さえも静まり返っていた。
「お、おいおい」
「まさか……。」
フィスタは三度目の後ろ反り投げでエリカをマットに叩きつけた。
「ふん、お優しいこった」
観客席のチャカが言う。
「インパクト残して相手の評価を下げないようにするってか」
三度目の後ろ反り投げは、肩と背中をマットに叩きつけていた。その時には、もうエリカは意識を失いかけていた。
フィスタはエリカの胴に回していた手を離すと、レフリーに告げた。
「もう終わりだよ」
レフリーはエリカの様子を見ると、すぐに両手を交差するように振って試合の終了を告げた。
試合終了と共に、再び場内は歓声に包まれた。
ブラインドホークがリングに上がり両手を広げてまっすぐフィスタのもとへやってくる。
「よくやったぜ、フィスタ。俺は信じてたぜ、おめぇならきっとやってくれるってよぉ」
その抱擁をフィスタは軽やかにかわす。
「なんでこんな時だけあたしの場所が把握できんのさ、じいさん」
フィスタはリングアナウンサーのもとへ行き、マイクを奪い取った。
「ちょっ?」
フィスタは頭をかきながらマイクで話し始める。
「見たでしょ? 悪いんだけどさ、あたしって超強いわけ。だからさ、ここで一番強い奴とやらせてよ? まどろっこしいのは嫌いなんだよね。とっととチャンプになってベルトと賞金、あと……」
フィスタはVIP席の興行主を見て指をさす。
「そこで、ぬくぬく観戦できる権利が欲しいわけ」
VIP席の興行主が不敵に笑う。
「ふん、面白い女だ。……確かに強い事は分かったが、相手がエリカだからな。お前なら勝てるか?
「もちろん」
チャイナドレスの女、シュェリーは無表情でリングの上のフィスタを見ていた。
「ほう……。だが、いきなりお前とじゃあ面白くない。何より、稼げそうな女だからな。少しランクマッチをやってもらうとしよう。試合を組んでくれ。下着剥ぎ取りマッチなんぞは考えなくて良い、
シュェリーは無言でVIP席を出て行った。
「ふん」
興行主は薄ら笑いを浮かべてウイスキーを飲んだ。
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