あやかしどもの祭り囃子
獣乃ユル
プロローグ あやかしと月
第1話 翼
鬱蒼と茂る木々が、こんなにも邪魔に思えたことは今までなかったと思う。ちらりと後ろを見れば、頭部の三つある武士のような甲冑を着た人型の何かが、態々ゆっくりと闊歩している。死骸のように腐り落ちた頬の肉や指先、光の抜け落ちた瞳。その全てが本能的な恐怖を手繰り寄せ、ただ走るだけの動作も十分に出来ない程身体の活動に影響を齎してくる。
それに加えて、何処か後ろ髪を引かれるような違和感をそれに感じていた。
「はぁ……!はっ……」
荒れた呼吸が、乱れた心拍が。体の限界という残酷な真実だけを静かに伝えていた。数時間かはたまた数十分かはもうわからないが、長い間走り続けた足は疲労を超え鋭い痛みを抱えている。
もう、走れない。
「「「おわり、だ」」」
追跡する何かの胴体から生えた六本の腕それぞれに握られた武具。刀、槍、斧、どれも碌に手入れをされていないのか鯖きっており、あんな物で攻撃されたのなら斬撃というよりも打撃に近いだろう。
逃げたい、嫌だ。死にたくない。どんどんと加速していく思考は、それでも有効的な答えを弾き出すに至らない。棒のように直線的で、鉄のように重たくなった足を引きずりながらそれでも前に動き続ける。少し先で、木々が途切れているのが見えた。森の終わりだ、あそこまで行けば、きっと。
「が、け?」
思わず声が出る。開けた視界に飛び込んできたのは数十メートル下に広がる深緑の景色だった。こんなに走ったのに、こんなに逃げ回ったのに。ぶちっ、と。何かが千切れた音が脳のどこかで響いた。
「「「にげれ、ない」」」
きっと、それは希望の糸だったのだと思う。逃げ切ってやる、生き残ってやる。こんな意味のわからない、こんな、こんな死に方は嫌だと。辛うじて自分を繋ぎ止めていたそれが、切れた。
「「「どれで、ころすかな」」」
嫌悪感を感じさせるガラついた声が妙にはっきりと耳朶を打つ。眼前に広がった光景が、嘲笑っているように感じた。
「「「おの」」」
大気が切り裂かれる音が、耳元で響いた。それと同時に、右肩に鈍い痛みが突き抜ける。きっと、言葉通り斧を肩に叩きつけられたのだろう。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛!!!!」
痛い。痛い。痛い。力が入らない。痛い。腕が。痛い。折れた。痛い。痛い。痛い。なんで。
「何で」
痛みと困惑で混沌とした脳内から溢れ出した、本当の言葉。ただ、いつも通り学校に行って、帰路に着こうとしただけなのに。ただ、普通に生きようとしているだけなのに。急によくわからないやつに追われて、襲われて。
「「「かたな」」」
次は左肩に、さっきよりかは狭い範囲の衝撃が叩きつけられた。咄嗟に声が出なくて、堪え切れなくなった涙が頬を伝っているのを感じたまま、それを拭うことすら叶わない。
「もう、いいや」
逃げるのも、痛がるのも、考えるのも。もう嫌だ。
「「「なに」」」
最後の力を全部、踏み出した一歩に込めた。ただ、前に進んだだけの一歩。でもその先に道はなくて、迎え入れたのは平等に降り注ぐ重力だった。落ちる先の木々が視界を覆い尽くしている。襲い掛かる風圧に思わず瞼を閉じて、口の内側を軽く噛んだ。落ちてる、な。枝とかに引っかかってゆっくり死んだらいやだな。
死、死んだら、か。死ぬのかぁ。何でだろ。落ちてるからかな。何で落ちてるんだろ。逃げたからか。何で逃げ
「死にたくない!!」
途切れ途切れの思考をぶった切って、そう叫んだ。まだ、贖罪の一つも出来てないのに。こんなところで、死にたくない。死ねない。
「助けてっ……!」
塞翁が馬、という言葉があったと思う。静かに、低速で過ぎ去っていく風景の中でそんなことを思った。人の幸不幸なんて想像できるものでは無い、流転するものである、みたいな言葉だ。唐突な不幸が在るなら、少しぐらい幸運が手を伸ばしてくれたって言いじゃないか。
閉じていた瞳を見開いて、吹き上げる風で空へと伸びた腕は、只、空を切って。網膜を焼き焦がしたのは、苛つくほど綺麗な満月だった。
ぽすっ、という気の抜ける音と共に俺を地面へと運んでいた勢いが失われる。
「此処は月が綺麗ですね、ご主人」
鈴を転がしたかのような、美しい声が虚空に響いた。
「はえ?」
二本の支柱によって俺の腰と背中あたりが支えられており、力の抜け切った四肢がだらんとぶら下がっている。触覚が伝えた感触から推測するのなら、俺を支えているのは二本の腕。俗に言うお姫様だっこをされている状態で空中に居るということになる。
「誰……?」
視界のど真ん中にあるのは端正な顔立ちの女性。左眼の鮮やかな紅い眼球が、右目の柔らかな蒼い眼球がどちらも等しく俺を見つめていた。長く伸びた白髪が風に吹かれ、緩慢に靡いている。
「誰、ですか?」
その女性が浮かべた穏やかな笑みの何処かに寂しさを感じたのは、何故なのだろう。
「名乗れる名前なんてありませんよ。けれど、貴方の味方で、貴方の従者です」
小首を傾げた俺を横目で見てから、少し困ったように微笑んだ。
「追々、説明させて頂きますね。舌を噛むかもしれませんので……口、開けないでくださいね」
そう言い切ったのと同時、ばさりと風を切る音が響く。視線を彼女の体の後ろにずらせば、それが羽ばたく音なのだと理解できるだろう。
闇夜に混ざり合うほど漆黒に染まった一対の翼。片方の翼ですら成人男性を横に置いてまだ余りあるほど大きく見えたそれが、その巨大さすら無視するように軽やかに羽ばたく。それによって生まれたエネルギーは何処に行くのかと言われれば、其れが翼である以上空へと向かう。
「ゔえっ」
急激に襲い掛かった重力に思わず声が漏れ出た。勢いよく遠ざかった風景が、近づいた夜空が自分が上昇したという事実にたどり着くには十分な情報を伝えてくれた。
「ご主人にこんなに傷を……矮小な木っ端風情が」
遠くを、さっきまで俺がいた場所を眺めながら彼女は忌々しそうにそう呟いた。
「ご主人、聞いてください」
目の前で起こることの膨大な情報量を処理するのですらままならない俺は、辛うじて首を縦に動かす。
「簡単に言うと、このままではご主人は死にます」
「……はい」
一度覚悟したことではあるが、今一度突きつけられると恐怖を感じてしまう。
「でも、私なら救えます。あそこ、見えますか?」
彼女の視線の先を追う。崖のその上で三つ首の武士が、こちらを睨んでいる姿がはっきりと視認出来た。視力はさほど良くなかったはずだが、何故かその瞳すらはっきりと認識する。
「あれが貴方をここに捕らえている元凶です。このままでは、何時間走っても外の世界には帰れません」
「捕らえている?」
「はい。簡易的に違う空間に……いえ、説明している暇はないようですね」
轟、と空間が吠えた。咄嗟に武士のいた方を見れば、そこには何の姿も残っていなかった。視点を上へ持ち上げた瞬間、俺を覆い隠すように翼が縮まった。
「「「なん、だ?」」」
「礼儀がなっていない」
翼の隙間から、刹那の内に空中の俺へと肉薄した武士と目が合った。彼女が翼で振り下ろした刀を防御したからか、不自然に体が宙に浮いている。そのまま武士は体を捻り、乱打を繰り出すが悉くが翼に弾かれる。彼女が少しづつ高度を落としていくのに合わせ降下しながら、六本の腕を巧みに操りながら攻撃を繰り出し続ける。
翼が勢いよく羽ばたき、それに合わせて武士が飛びのいていく。
「降ろしますね、ご主人」
いつの間にか手の届く場所まで近づいていた地面に足を付け、力の入らない両腕のせいで崩れたバランスに悪戦苦闘する。
少し彼女から離れてわかったが、白を基調としてアクセントとして赤い装飾が盛り込まれた和風の衣服。彼女が着ているのは所謂巫女服という奴だった。自分の四肢のようにゆとりのあるそれを操る姿から、完璧にそれを着こなしているように見えた。人形のように優れた外見にその衣装も相まって、普通の人間とは根本から異なるような雰囲気を感じた。
「すいません、私が遅れてしまったせいで」
彼女に見とれていた俺に、申し訳なさそうに声を掛ける。恐らく、俺の両肩の事なのだろう。
「いや、貴女が謝ることじゃ」
言葉を遮るように、低い咆哮が響き渡る。
「ご主人との会話を楽しむためにも、終わらせましょうか」
「「「がご、がが」」」
辛うじて話していた言語すら失い、喉から漏れ出たような声を武士は吐き出す。
「ご主人、少し離れてください」
優しい笑みを浮かべ、彼女はそう言う。それに従って、数歩距離を離す。
「おいで、色亡《いろなき》」
彼女は勢いよく手を伸ばし、空間の中に手を突っ込む。彼女の腕の周りだけ空間が歪み、水面に広がった波紋のように円形の何かが定期的に広がっている。とぷん、と水に沈んだような音と同時、彼女はそれを引き抜く。
それは刀。灰色にくすんだ刀身が、彼女が触れた瞬間に鮮やかな漆黒へと変化する。月光を反射して輝くそれが、妙に美しく思えた。
「塗り潰してあげます」
「「「ゔがあああああぁぁぁぁぁ!!!!」」」
なりふり構わず獣のように体を屈めて突っ込んできた武士の横を、まるで慣れ親しんだ街道を歩くように脱力しきったまま歩いて通り抜ける。
一瞬の間を置いて、金属音が鳴り響いた。瞬間、視界を濁り切った紫色の液体が覆いつくした。視界の端で液体を噴出している武士を見て、状況を漸く理解した。今の通り過ぎるまで一瞬で、認識できない程の速度で武士を切った、というだけの事なのだろう。損傷の大きさからか地面に伏した武士を横目に、彼女は穏やかに刀に付着した液体を指先で拭き取っている。
「中身は綺麗ですね」
恍惚とした表情を浮かべ、その液体を眺めた後、唐突に手首を払い液体を飛ばす。
「この程度では妖は消滅しません。なので、弱った今のうちにここから」
「……待って」
膝をついたままのそれが、どうにも気になって。その武士が唐突に動き出すとか、色んな可能性を全部纏めて薙ぎ払い、止まりたがる体に鞭打って歩き出した。
「「「……」」」
近寄ってみてみれば、三つの顔全てが生気の抜け落ちた骸のような顔をしていた。小刻みに手は震え、何かを訴えるように動いた唇からは頼りない息が漏れ出している。それを見て、何かが思考の端に引っかかる音がした。
「お前じゃないだろ」
この武士は本当に元来の姿をしているのか。妙にぎこちない体の使い方、身なりに合わない獣のような戦闘、逃げている時から違和感は色々募っていた。けれど、人間の道理が通じる相手じゃないことも理解していた。だから、違和感だなんだで理解できる相手ではないのかもしれないとも思っている。なら、これは一方的なエゴだ。
何処か、悲壮な表情を浮かべているように見えた。
「誰なんだよ」
そう言葉を吐くと、周囲に吹き荒れる様な風が発生する。月光で編まれたかのような美しい淡黄の糸が虚空から現れて、俺の両肩を補強するように巻き付いてきた。その浮世離れした光景に恐怖心も疑問も抱くことはなく、逆に安心感に近いような感情が心を覆いつくしていた。武士の身体の震えが強まっていくのと共に、全身から全てを覆いつくすように至極色の煙が噴き出した。体に合わせて甲冑が細かく振動し、金属音を打ち鳴らしている。
「離れて!」
「え?」
その時、爆発音と同時にそれの身体が跳ね上がった。
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