『いじめ』という言葉の悪さと無くす方法
最近、再び旭川のいじめ事件が取り上げられている。報道を見るに、本来は『救えた』命だったように思う。教頭の言い分に憤慨したし、もっと言えばあの教頭の態度は20年以上前に私が担任から受けた態度そのものだった。20年でいじめに対する教育現場の認識は全く変わってないように思える。
私は、『いじめ』という言葉にひどく違和感を覚えている。やっていることは刑事罰に問えるような『犯罪』であるにもかかわらず、『学校』や『職場』といったコミュニティ内で起こったものについては『いじめ』という言葉でひどくマイルドにされている印象を受ける。
最近になって、私は『いじめ』が『いじめ』であるうちは、『いじめ』は社会から無くなっていかないと感じるようになった。昨今は『ハラスメントリスク』によって大人社会の『いじめ』は減ったように思うが、0になったわけではない。八戸の不動産屋が起こした一件も完全に『いじめ』である。もっと言うと『名誉棄損』『侮辱罪』に値する内容だろう。
そもそも一般的には成熟したといえるであろう大の大人ですらいじめが起こり得るのに、子どものいじめは余計になくならないと私は思う。『いじめ』の酷い所は『加害者に加害者意識がない』ことだと思う。刑事罰を『いじめ』というマイルドな言葉に置き換えたが故に、加害者側はいくらでも逃げようがあるのだ。
私が思う『いじめ』を無くす方法はいたってシンプルだ。『いじめ』によって得られるエクスタシーよりも、『いじめ』をする”リスク”のほうが上回る社会になればいいと考えている。具体的には『刑法で裁きやすくなるための法整備』と『少年法改正によるいじめに対するリスク増強』をすべきだと考えた。
特に、少年法の改正によるリスク増強は重要だと考えている。いじめによる加害を少年法適用外とし、少年院ではなく刑務所にぶち込むべきだと考えている。
例に挙げた旭川の事件のいじめ加害者10人や、八戸の不動産屋が従業員に『症状』などという人の尊厳を踏みにじる『クズ』に『更生の余地』などないのだ。そもそも構成の余地があるような人間はいじめに加担しない。
私の『いじめ』による古傷は、20年近く経った今でも忘れたころに疼く。いじめの加害者はやったことをいちいち覚えてはいやしないが、いじめられた被害者は一生忘れることなく覚えている。
願わくば『いじめた人間が生涯をかけて後悔・反省するような社会』になるべきだと思っている。そのような社会が実現すれば、私をはじめとした数多のいじめ被害者が報われる社会になっているだろう。
・・・この復讐心を糧に私は明日を生きていく。
それでも、生きていく。 石男(うまずお) @umazuo
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