第4話 異世界の競馬 #1
「はい、登って、がんばって。ほら。もう少しだから」
ち、ちょっと待ってくれよ。
この坂、きつい。トレセンの坂よりも斜度がある。
こんなところ走らされたら、俺、死んじゃう。
どういうことだよ。
俺はちゃんとレースに勝ったじゃないか。一つ難関を突破したんだから、しばらくは楽できるはずだろう。
なのに、なんで、レースが終わったその週のうちに、調教に入るんだよ。
向こうの世界なら、十日はゆっくりできるのに。なぜ、こんな目に。
「ほら、あと少しだから。さあ、本気で行くよ」
馬上で声がして、手綱を握る手にわずかに力がこもる。やわらかい仕草で、前に行けと伝えてくる。
ふざけるな。疲れているんだ、俺は。やらねえよ。
「ほら、行くよ」
手綱をしごかれて、俺はあきらめた。これはダメだ。やるまで付きあわされる。
わかったよ。くそっ。じゃあ、走るぜ。
俺は息を整えると、斜度のきつい芝の坂に入り、そのまま一気に登り入る。
長い500メートル、いや、もっとあるかはあるか。
結構なスピードを出しているが、なかなか頂点には達しない。
騎手は手綱を振って、前に出るように指示する。ここで半端に手を抜くと、ウマのためにならんとわかっている。こういう所がなかなかすごい。
「もうちょっと」
ええい、なら、最後は全力で行くぜ。
俺は思いきり身体を沈め、後ろ足に力を入れる。身体にたまる乳酸に逆らって、思いきり力を入れて、一気に坂を駆けあがる。
スピードをゆるめたのは、ゆるやかな丘の稜線に達した時だ。
息が切れるし、足にも力が入らない。
もう限界だ。さすがにきつかったぜ。
「よしよし、よくやったよ。クロン」
首筋が軽く叩かれる。筋張っているが、どこかやわらかさを感じる。
本気で、俺のことを褒めているのがよくわかる。
「思いきりあがったね。これで、また強くなるよ」
あたぼうよ。俺はやる時はやるんだぜ。
なあ、チコ。
俺は首を後ろに向けて、背中に乗った娘を見る。
白いシャツに茶の上着、それから茶のズボンというのは、いつもと同じ格好だ。黒い靴は乗馬用で、少し改造してある。
身体は細いが、ひ弱という印象はない。背中や腕には、しっかりと筋肉がついていて鍛えているのがよくわかる。
ショートボブの髪が丸い顔の輪郭によく似合う。瞳は、髪と同じ茶色で、朝日を浴びて美しく輝いている。
馬上で背筋を伸ばす姿には、凛々しささえを感じる。
チコは、俺の面倒を見る厩務員だ。彼女の爺さんがやっている厩舎に属していて、餌を出したり、寝わらを交換したり、引き運動をしたりする。
こうして調教をつけるのも彼女の仕事だ。向こうの世界でいうところの持ち乗り調教助手に近いが、実のところ、チコにはもう一つ役目というか、やりたいことがあるので、立場はだいぶ異なる。
チコは、俺がこの世界に転生してから、ずっと面倒を見てくれている。
今年で18才だったと思う。
要するに女子高生と同じ年齢だが、それにはしては身体がぺったんこ……。
ゲフンゲフン。まあ、それはいい。
なんというか、入厩して、レースに出る寸前だったウマに、俺が転生した。だから、毎日面倒を見てくれているわけだが、仕事ぶりは確かなことは間違いない。
朝の乗り運動から、餌出し、馬房の掃除から馬装の装備まできっちりやってくれる。鞍に汚れがついていたことは一度としてなかったし、寝わらもいつもきれいだった。
調教となれば、さっと俺にまたがってコースに出て行く。
手際はいい。というか、相当にうまい。
俺たちの世界の、どうしようもない三流騎手よりはよっぽど腕がたつ。
ガキの頃から乗っていたっていうが、それだけじゃ、ここまでうまくはならねえ。
センスだね、センス。
鍛えれば、一流の騎手になると踏んでいるよ。
「見て、クロン。いい景色」
チコに言われるがままに、首を向けると、稜線を覆っていた靄が晴れて、情景が一望できた。
丘は天然の芝に覆われて、美しく輝いている。
右を見ても左を見ても、緑だ。
なだらかな斜面には短い草がそろっており、風が吹くと先端がたなびいて、波のように揺らめく。
右の手前には策に覆われた緑の道があり、3頭のウマが縦に並んで走っている。坂道に入ったところで、わずかに速度はゆるむも、前に出ることはやめない。騎手が合図をすると、さらに険しくなる坂に挑んでいく。
頭上に広がる空は青く、降りそそぐ日射しはやわらかい。
いいねえ。こういうの。まさに初春の朝という感じだ。
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