第21話 結局オレは童貞ってことか……

 喫茶店の客がオレと五稜さんの二人だけになったことで、すっかり静まり返ってしまった。

 オレは温くなったコーヒーにようやく口を付けた。

 五稜さんもそれを見てミルクティーに手を伸ばす。

 そして一緒に飲んで、コップを戻す。


「さて、実際のところオレはキミを襲ったのか? 襲ってないのか?」

「あの、それはですねぇ……」


 五稜さんの方を見て尋ねると、酷く動揺した表情を浮かべた。

 あ、もうこの反応で十分理解できた。


「結局オレは童貞ってことか……」

「すみません。本当にすみませんっ!」


 五稜さんが頭を下げてつむじを向けてくる。今ならなぞっても文句を言われそうにない。

 膝枕をしてと甘えてきた時に何度か触ろうとしたけど、なぜか酷く嫌がられたんだよな。触らないけど。


「本当のこと教えてくれるか?」

「それは……」

「今更見捨てたりしないから。ただ事実が知りたいんだ」


 あの日、オレたちの間に何があったのか、あるいは何もなかったのか。


「……四月二八日、大和さんの記憶がない間のことですよね?」

「ああ、父親がオレじゃないってことは襲ってなかったんだよな? でも五稜さんはオレのことを知ってたし、学生証も持ってた」


 きっと五稜さんが語ったことの全てがウソってことはないのだろう。

 でも、どこまでは本当でウソなのかは、記憶の無いオレにはわからない。だから教えてもらう必要がある。


「概ねは以前説明した通りです。わたしと大和さんは漫画喫茶で隣同士のブースを利用していました。きっと大和さんトイレにでも行ったんだと思います。でも、帰るブースを間違えてわたしのところに入ってきました」

「そこは本当なんだな」

「はい。それからわたしに覆いかぶさってきて」

「襲ってないんだよな! オレっ」


 そこを改めて聞くとアウトっぽいんだがっ!


「そのまま寝ちゃいました」

「…………」


 それはそれでどうなんだ?

 セックスこそしてなかったとしても、襲ったと言えば襲ってるよな?


「それから一時間くらいでしょうか? わたしに覆いかぶさったままで」

「その間何もしなかったのか?」

「あまり騒ぎにしたくありませんでした。高校生が漫喫で外泊なんて問題ですから。覆いかぶさられてるくらいなら我慢しようって思ったんです」

「なるほど」


 確かに未成年の保護者同伴なしの外泊は問題だろう。

 というか店側は見逃してていいことなのか?


「一時間くらいでまたトイレに行きたくなったのか、大和さんは出ていくと二度と戻ってくることはありませんでした。その時に学生証を落とされていきました」


 だから五稜さんはオレの名前と身分を知ることができたわけか。


「本当はすぐに捨てようと思ったんですけど、何かに利用できるかと思ったので、持っておくことにしたんです」

「利用ってなに? 怖いよ。それに学生証にクレジット機能とかないからな」

「ホント全く使い物になりませんでしたね。でも、会いに行く役にたちましたから」


 えへへ――と五稜さんは誤魔化すように笑った。

 その笑顔を見ると怒る気なんてこれっぽちも湧いてこない。

 オレは騙されていたことを怒れる立場なのだろうけど、もうそんなことどうでもいいくらいに五稜さんのことが好きだ。

 その気持ちをもう抑えられそうにない。


「五稜さん」

「はい」

「オレはキミのことが好きだ」


 本当はもっと違う形で告白するつもりだった。

 でもさっきの話の中で既にオレの想いは五稜さんにバレている。その状況で今まで通り接するのはきっとむず痒くて気持ち悪くなると思う。だから、今ここで改めて告白することにした。


「わたしでいいんですか? わたしは大和さんを騙しました。赤ちゃんだって大和さんと血の繋がりがありません」

「うん、知ってた。実は前から本当はそうなんじゃないかなって」


 もちろん確証があったわけじゃない。あくまであの時、あの呟きを聞いてしまったから、そうなのかもしれないと思っただけだ。

 そしてそれは間違いじゃなかった。あの呟きに出てきた〝タクヤ〟は伊藤拓哉だったんだ。


「知っててわたしの面倒を見てくれたんですか? わたしのことを好きになってくれるんですか?」

「好きになるんじゃない。もう好きなんだ」

「どうして……?」

「あれだけ世話しておいて、いつまでも他人でいられるわけないだろ」


 最初は襲ってしまった罪悪感と父親としての責任だったが、愛情と取って代わるにはそれほど時間はかからなかった。

 辛いのに、苦しいのに、赤ちゃんのために頑張る姿を見て、何も感じないはずがない。


「っ……大和さんには葵さんがいます」

「だから、あいつはただの幼馴染みだって」


 まだ葵を引き合いに出すのか、この子は。


「わたしは酷い女ですよ。大和さんを騙して、お義父さんやお義母さんだって」

「ウソは事実に変えればいいだろ。赤ちゃんは……無理だけど、恋人だって胸を張ればいいだけだ」

「最低な行為をしたんです。別の男の人の赤ちゃんなのに、大和さんに責任をとらせようと……」


 今にも泣きそうな声で、自分を卑下にする。

 それは彼女の行いを考えれば当然のことかもしれない。

 でもオレはその全てを既に許している。


「言っただろ、もうオレが父親だって。本当の父親のあいつが来たって、キミとその子を渡したくないって思ったんだ。最後まで責任とらせてほしい。それくらいキミが好きなんだ」

「大和さん……」

「イヤじゃなかったら、返事を聞かせてほしい」


 一応あの話の間に五稜さんの気持ちも聞いているけど、それは勢いって可能性も無きにしも非ずだ。

 ちゃんと改めて、五稜さんの口から聞いておきたい。


「イヤなんてこと絶対にありませんっ」


 五稜さんは潤んだ瞳でオレを見上げる。


「なら口にして言ってほしい。オレは五稜さんとどんな関係になれるのか」

「それは……」


 恥ずかしそうに一度目を伏せ、それから少しで決意を固めたのか、真っすぐオレのことを見つめてくる。

 そしてオレは生まれて初めてちゃんとした告白を――


「一八歳になって結婚できるようになったら、わたしを大和さんのお嫁さんにしてくださいっ!」


――プロポーズを受けることになった。

 告白を越えてプロポーズ。

 首筋から全身に向かって鳥肌が立った。

 嬉しさのあまりオレは感情に任せて、五稜さんを力一杯抱きしめた。


「や、大和さんっ!」


 オレの突発的な行動に五稜さんは驚きの声をあげる。


「絶対に幸せにしてみせるっ。五稜さんのことも赤ちゃんのことも絶対にっ」

「大和さん」


 オレの気持ちが正しく伝わったのか、五稜さんがオレの胸元を握ってきた。

 少し離れて顔を下げると、ツヤツヤとした色っぽい五稜さんの唇が視界に入る。

 まるでキスをして――と訴えかけているように見えた。

 いやいや、待て。

 告白してプロポーズされたからって、いきなりキスするなんて童貞丸出しじゃないか?

 こういうのには順序がある……あれ? 順序的にはもうしてもいいのか? 

 だから待てって、それが童貞の思考なんだって、やっぱりタイミングが重要だろ。

 初めてのキスがこんな喫茶店なんて……もちろん趣があっていい雰囲気の喫茶店だ。

 マスターだって、まるでオブジェの一つと化したようにグラスを磨いて、こっちを見ないようにしてくれてる。

 できるマスターだな。


「大和さん」


 まるで催促するように五稜さんが名前を呼んでくる。

 視線を戻すと五稜さんは瞳を閉じて顔を寄せてきていた。

 これはもう合意のうえだよな? さすがに勘違いじゃないよな!

 女の子にここまでさせて引き下がったら――男じゃないだろっ!

 そう自分に言い聞かせて、オレは五稜さんの肩に手を置き直し、ゆっくりと口と口を重ねるように距離を縮めていった。

 やばい。心臓鼓動音がうるさい。息苦しさが半端いない。

 キスするだけでもこんなに緊張するもんなんだな。


 ◇


「大林六花……ですか」


 伊藤が置いていった一万円で会計を済まし、オレと五稜さんは家に続く道で手を繋いで歩いると、五稜さんは独り言のようにぽつりと呟いた。

 本当はアルバイトの予定だったが、今日は働く気にならなかったので急だが休む

ことにした。

 シフトを変わってくれた人には、後日礼を言おう。


「どうしたんだ急に?」

「いえ、近い将来名乗る名前になるわけですから、今のうちに慣れておこうと思ったんです」


 大林六花――確かに結婚したら五稜さんはそう名乗るようになるのだろう。

 なんだそれ、うら若き女子高生にそんなこと言われたら、オレどうかしちゃうぞ。

 数が月前までは年下なんてないと思ってたのに……人って変わる生き物なんだな。


「……籍を入れるのは五稜さんが十八歳になってからにするか? それともオレが大学を卒業してからにするか?」

「大和さんはどうしたいですか?」

「オレか? う~ん、やっぱり早い方がいいと思うかな。正直籍を入れた瞬間にそれまでの生活が何か変わるとは思えないが、やっぱり特別なことだと思うから」

「わたしもそう思います」


 気の早い話だとは思う。だけど、赤ちゃんが産まれて一緒に暮らしている以上、少しでも早くちゃんとした夫婦になりたい――そう考えるのは当たり前のことだろう。

 幸いお互いに考えていたことは同じなので、きっと来年五稜さんの一八歳の誕生日にオレたちは入籍するだろう。


「五稜さん――」

「待ってください大和さん」

「うん?」

「わたしはもう五稜じゃなく大林になるのが決まってます。いつまでも五稜ではなく、そろそろ名前で呼んでほしいです。わたしも大和さんって呼ぶようにしましたし」


 そう言えばいつの間にか五稜さんはオレのことを大和と呼んでいた。

 オレの両親の前では付き合っているのをアピールするために、大和さんと呼んでいたのは知っているが、いつの間に。

 確か大学に迎えに来てくれた時もまだ大林だったはず。


「……いいのか? そのいきなり馴れ馴れしいとか思わないか?」


 異性の名前呼びなんて葵くらいしか経験がない。

 これまで仲良くなった女子は少なからずいたが、大抵の子に告白して玉砕してきたオレは名前で呼べるほど親しくなることができなかった。

 男の中には大して親しくもないのに名前で呼ぶような奴もいるが、オレはそう言うタイプじゃないから。


「馴れ馴れしくしてほしいんです。もう他人じゃなくなるんですから」


 五稜さんが上目遣いでオレを見つめてきた。

 なんていうか……この場で全力で抱きしめたいっ!


「そうか……六花……さん」

「っ……はい、大和さん」


 名前を呼び合い、オレたちは互いに握る手に力を込めた。

 六花さんと呼んだのは流石にいきなり呼び捨てにはできなかったからだ。ちゃんじゃなくてさんにしたのは、伊藤が六花ちゃんと呼んでいたから。

 あいつと同じ呼び方はしたくなかった。なんかお下がりみたいで生理的に無理だ。


「それでですね、大和さん。わたしそろそろ安定期に入るんですけど」

「もうそんな時期になるのか」


 つわりはもう大分治まりつつある。

 安定期の定義がつわりが治ってからなのか、それとも日付で決まっているのかオレは詳しく知らないが、五稜さん――いいや、六花さんはもうそろそろ安定期に入るらしい。


「大和さんの献身的なお世話のおかげで無事にここまでこれました」


 ありがとうございます――と六花さんは歩きながら頭を下げる。


「それでですね、安定期に入ったら何ですけど……」


 一度そこで言葉を切って、六花さんは少し恥ずかしそうに顔を逸らした。

 どうしてそんな反応をするんだ? と小首を傾げたが、その理由はすぐに判明した。


「安定期に入ったら、そのですね、えっち……なことしませんか?」

「え、えっと……それってつまり……セックス?」


 言葉の意味を理解するまで数秒を要し、自分の解釈が間違ってないか確かめるために確認する。すると六花さんの横顔はみるみると赤く染まっていき、コクッと一度だけ素早く縦に動いた。


「いいの? え、あ、その……妊娠中に」


 身体と赤ちゃんへの負担は大丈夫なのだろうか?

 セックスするってことはつまり……赤ちゃんと急接近することになるし、振動とかダイレクトに伝わりそうな気がするんだが。


「お医者さんが安定期に入ったら、激しくしなければ問題ないって言ってました」

「そ、そうなのか……」


 妊娠中は絶対安静ってイメージだったが……そうか、してもいいのか。え? していいの? ていうか今オレ誘われてるのか?


「もちろん大和さんがイヤなら無理とは――」

「イヤじゃいぞ!」


 このままだとお流れになってしまうかと焦り、オレは足を止めて六花さんの手をやや強引に引っ張って、こちらを向かせた。

 顔を真っ赤にした六花さんと目が合う。


「あっ……」

「その! 六花さんの負担にならないなら、オレの方からお願いしたいっていうかっ……ぜひしたいっていうか」


 念願のセックスが今目の前にある。

 あの日、六花さんを襲っていなかったオレは名実ともに童貞のままだ。

 脱童貞の機会が巡ってきて、何がイヤなことがある!

 もちろん相手が誰でも言い訳じゃない。六花さんだからこそ、今心の底からしたいと思ってるんだ!


「……やっぱりこの話無しでもいいですか?」

「なんで!」


 誘ってきたのそっちなのにっ!

 まさかのお預けなのかっ。


「ちょっとがっつきすぎて怖いです」

「がはっ……」


 経験のないオレは思わぬチャンスに興奮して、我を失っていた。

 今自分がどんな顔をしてるのかわからないが、きっと鼻の穴でも広げて血走った目をしているのかもしれない。イヤだな、そんな顔見たくねぇし、見せたくねぇよ。

 なのでオレは反省してますと頭を下げる。


「わ、悪い……童貞なもんで興奮しすぎて……お誘いが凄く嬉しくて、つい」

「……本当に童貞何ですか?」

「ああ、生まれてこのかた一度も経験なくて……だからな」

「葵さんとはしてなかったんですか」

「だから葵とは――」


 そんなんじゃないからな――と言おうと下がった顔を上げると、六花さんはとても嬉しそうな顔をしていた。


「六花さん?」

「あ、いえ……他の女の人と比べられることなく、好きな人とできると思ったら、嬉しくて」


 それは童貞をもらえて嬉しいってことか?

 女の子にもそういう気持ちってあるのか?

 よく女性は「最後の女になりたい」なんてことを聞くが、やっぱり初めての相手にもなりたいものなのだろうか?


「そ、そうなのか、嬉しいのか……」


 そう言ってもらえると、これまで童貞だったことも無駄じゃないように思える。

 大事に残しておきたかったわけじゃないが、結果オーライだ。


「はい。だから……してくれますか?」

「……していいのか?」


 結局オレは誘われてるのか? 

 どうなんだ、ハッキリしてくれっ!


「あまり激しくしないと約束してくれるなら」


 やっぱり赤ちゃんは気になります――と六花さんは恥ずかしそうに言う。

 本当はこの場で衝動に任せて抱きしめてしまいたかったが、また無しと言われてしまいそうなので理性を総動員して何とか抑え込む。


「あ、ああ……約束する」

「はい、約束です」


 約束してしまった……。

 よわい二十にしてついにオレの童貞に予約が入った。


「ごほん、それでどうして急にこんなこと言いだしたんだ?」


 女の子からセックスしたいなんて、かなり勇気がいる発言だと思うんだが。


「それはですね……この子はどんなに頑張ったって、大和さんと血の繋がりありません。でも、少しでも愛情をもってほしいと言いますか……」


 それってつまり……なんだか発想がエロ親父っぽくないか?


「大丈夫だ。そんなことしなくても赤ちゃんはちゃんと可愛がる自信があるぞ」


 なんて言ったって、六花さんの赤ちゃんだ。たとえ父親がオレじゃなかったとしても可愛いに決まってる。

 寧ろ血の繋がりの無さをいつか恐れる日が来るかもしれない。

 それくらい可愛がるに決まってる。

 口に出したら警戒されそうだから余計なことは言わないが。


「ホントですか?」


 疑いよりも不安の色を濃く見せる瞳を真っすぐ見据えて、オレは力強く頷いた。


「よかったです……いつかちゃんと大和さんの赤ちゃんも産みたいです」

「っ……頑張らないとな」


 ホントにこの子はどうしてオレの理性を試すようなことばかり言うんだ!

 因みに頑張るってのはセックスだけじゃなくて仕事もって意味だ。

 子育てには金がかかる。

 何人子供を作るかはわからないが、沢山稼がないといけない。

 何たって、オレたちの生活はこれから始まるのだから。

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