第35話 頓挫 参

 視線を上げると沢渡主殿頭さわたりとものかみが目を眇めて宴の庭を見ていた。

 まだ五十代であるはずだが、目が異様にぎょろりとして、不愉快を表す皺がそのまま固まってしまったような顔付きだ。

 沢渡主殿頭の言葉は自分に向けられたものではない。

 高遠は頭をさげて通り過ぎる。――と、


「あのように着飾って、奥向きはまだ質素倹約を理解しておらぬな。のう、高遠殿?」


 と、声がかかった。

 無視するわけにもいかない。仕方なく立ち止まると、沢渡主殿頭は言葉を続けた。


「男色本出版などという馬鹿げたことを、ようやく中止したかと思えば、この騒ぎ。塩沢殿は懲りておられぬようだ」

「――花見は内々にすませ、灌仏会かんぶつえも取り止めにするなど、懸命に働かれておりまする」


 灌仏会は大奥の長局ながつぼねに露店が並ぶもので五十三次とは違い、大がかりなものではない。普段出入りしている商家の女将たちが店主を務めるもので、奥女中が気楽に楽しめる行事だ。

 だからこそ、取りやめにできた。

 しかし、沢渡主殿頭は気に入らないようだ。


「いくら中止しようと、このように派手に騒げば気が緩み元の木阿弥。このような行事は無駄使い以外のなにものでもない」


 さすがにムッとする。


「……諸藩を招いての行事は、上様のご意向を示す大切な機会と心得ております。貧相にしては、幕府の権威も揺らぐことになるかと」

「さすが男色本などで稼ごうとする女子おなごは口が立つのう。素直に、はいと言えぬか。高遠あかね殿?」


 どこか小馬鹿にした響きだ。

 老中と御年寄の権力は、塩沢に劣るが軽んじられるものではない。このように言われる覚えはない。

 だが、男色本出版で失策を犯した高遠は、沢渡主殿頭と戦うだけの力は削がれている。

 これ以上問題を起こすことは大奥にとってよいことではない。


「――……心得ました」


 頭を垂れ、ひと言いって立ち去った。背中に視線を感じる。

 一刻も早く視界から消えたかった。

 胸のなかは膿んだ傷がじくじくと痛み、あと少し突けば傷が開いてしまいそうだ。


 ――男色本を出すことは、それほど浅ましいものだったのか? 財政難を救う手立てが、なにもないなか、ようやく見つけた手段だったのだ。だからこそ、いっときとはいえ出版許可が下りた。


「……だが、それが間違いだったのかもしれぬ……」


 大奥を救うには正しい方法ではなかったのだ。

 華やいだ空気も、さんざめく笑い声も自分とは切り離された、遠くのできごとのように映った。



 ***



 大奥内ではようやく男色本出版の話は下火になり、須磨の事件も風化されつつあった。須磨が騒ぐ人ではないので、自然とそういう流れになっている。

 高遠たち御年寄は大奥総取締役、塩沢と共に相変わらず催事の調整に追われている。

 来月から執り行われる行事は七夕など、大奥内での行事が多く、縮小するか、中止するかで大わらわだ。

 千鳥の間での仕事を終えた高遠は、さすがに疲れを感じていた。


 ――少し横になりたい。戻ったら茶を飲んで、夕餉まで休んでいよう。


 部屋へ入った高遠は、


「もどった。茶を頼む」と部屋方の霞に告げた。

「はい。すぐに」


 霞はてきぱきと作業をこなし、高遠は二の間に腰を落ち着けた。運ばれた温かい茶を一口飲んで、ふうと息を吐く。

 すると、霞が一通の文を差し出してきた。


「鶴屋より高遠さま宛てに文が届いております」

「鶴屋から?」


 ――違約金は支払ったし、なんの用だろうか?


 訝しく思いながら折りたたまれた紙を開き、目を通す。――と、文は、はらりと手から落ちた。


「……作品が……盗まれただと……?」


 文には、


『幸い絵だけは擦るために当家を離れてりましたので無事でしたが、高遠さまの作品を含め、好色本の類いである原稿や絵がもちさられてしまいました。

 奉行所のお役人は金に困った者の犯行である可能性が高いと申しておりますが、現段階では誰が盗んだかわからない状態です。

 無事に戻ってくるかは難しいですが、流出すればすぐに出所がわかり、こちらに戻すことをお約束いただいております。また、鶴屋の名にかけて探すことをお約束いたします。どうぞ今しばらくご猶予いただきたく』


 出版は見送られた段階だったため、作品の返却まで求めていなかった。それが失われたという。そんな馬鹿な話があるのか。

 あの二作品は寝る間も惜しんで必死に推敲し、清書したものだ。高遠の五年が詰まった他には替えられない大切なもの。それが失われた――。


 なぜ? どうして? 誰がそんなことを?


 頭のなかにはいくつも疑問が渦を巻く。

 須磨の事件の首謀者の差し金なのか、鶴屋の言うとおり今なら好色本の類いは金になると生活に困った物取りが売りさばくために持ち去ったのか。

 理由はどうであれ、作品が失われたことだけは違えようがない事実だ。


 初稿の原稿はあるが清書で大幅な改稿を行っていたため、それをもう一度やれと言われても、とても無理だった。


「――――……っ」


 理不尽な現実にとてつもない怒りが襲い、憤怒が血の流れと共に全身に巡った。このままわめきちらし、大声で泣いてしまいたい衝動が常に高遠を制御する鋼の心を突き破ろうと暴れる。

 しかし、同時にこれは鶴屋のせいでも自分のせいでもない、不慮の事故だとわかってもいた。被害を受けたのは鶴屋だ。同じように脅迫状が届いたのも須磨で、高遠は違約金を支払っただけだ。自分より苦しい思いをしている人がいるのだ。


 わかっている。わかっていても悲しかった。


 どうしようもないことなのだという諦めと悔しさに泣きたいけれど泣けもしない時間が過ぎるとプツリ、と自分のなかのなにかが切れたのを感じた。

 時間と情熱をそそいだことが無に帰すということがどういうことなのか、この年になってようやくわかった。

 悔しさや怒りより虚しさが勝り、くたり、と肩が落ち、全身から力というものが抜けていった。

 空になった湯飲みがコロリと畳に転がる。


「はは……」


 乾いた笑いが洩れた。


 ――ああ、もう書くことを止めよう。もう、きっと書けない。

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