文坂実花子とその家族

01

 母の実家の庭に初めてそのひとの姿を見たとき、わたしは(とても困っているみたい)と思った。それまでの怒りも恐怖もうっかり薄れてしまうほど、その印象は鮮烈だった。


 母の実家に身を寄せて三日目、母が戻ってこなかった夜のことだ。皆がリビングに集まって夜明かししていた日、わたしはきっとすごく特殊な精神状態にあったのだと思う。だからあんなにカッとなって、かつて絶対に見ようとしなかった彼女の姿を見ようとしたのだろう。

 掃出し窓のカーテンを開けると、すぐ外に女がうずくまっているのが目に入った。土で汚れて、げっそりと痩せ、こちらを見上げた目は赤かった。よくよく見れば、汚れた髪も元々は真っ白だったようだ。

 我ながらおかしい気がするけれど、そのときわたしは(妖精みたい)と思った。そんな格好なのにその人はとても綺麗に見えた。文坂の家にずっと祟っていたもののはずなのに、なぜかさほど怖ろしく感じられなかった。ただひどく弱った美しいものが、困り果てて窓の外に座り込んでいるように見えた。

 と同時に、誰かに似ていると思った。思い出せそうでなかなか思い出せない。

実花子みかこっ」

 祖父の声がわたしの耳を打った。いつの間にかわたしはサッシの窓に手をかけようとしていた。危うく開けるところだったのだ。

(見るだけ。話したり、中に入れたりしちゃ駄目)

 まもるさんに言われたことをようやく思い出す。無意識にとろうとしていた行動にぞっとしながら、わたしは気を取り直してもう一度彼女を見た。

 閉ざされたサッシの向こうにいるアルビノの女は、まるで実在する人間のような存在感を持っていた。本当に人間なんじゃないのか、とすら思った。

(何なんだろう、このひとは。山から来る化け物って彼女のこと? このひとのせいで人が死んでるの?)

 いまひとつ頭の中で噛み合わない。

 女はわたしを見て、泣きそうな顔をした。灰色に汚れた顔にはすでに幾筋も涙の跡がついている。さっき聞こえた含み笑いのような声は、笑い声ではなく泣き声だったのかもしれない――そう思ったそのとき、自分がまた彼女への警戒を忘れていたことに気づいた。どうもおかしい。あまり凝視してはいけないものなのかもしれない。

 カーテンを閉めかけたそのとき、女の口が動いた。

(ようこさん)

 そう言った――母の名前を呼んだように思えた。

「実花子、どうした。早うカーテン閉めっしゃい」

 いつのまにか後ろにやってきた祖父が、厳しい口調で言った。「おれには何も見えんが、何か見えとるがけ」

「……うん」

 取り繕っても仕方ないと思った。

「やったら余計に見るな。この世のものでないぞ」

 祖父はわたしの肩越しに手を伸ばし、カーテンを閉めた。女の顔がカーテンの向こうに消える。

 わたしは閉じたカーテンを見ながら立ち尽くしていた。少し間をおいて、また音が始まった。ひた、ずっ、ひた、ずっ、と、今度は少しずつ遠ざかっていく。

(この世のものじゃない)

 急に足の力が抜けて、わたしはその場にへたり込んでしまった。今さらながらひどく緊張していたことに気づいた。

 いきなり死んだりはしないはずだ。わたしは話さなかったし、部屋にも入れなかった。大丈夫、見ただけだ。自分にそう言い聞かせた。

 でも、やっぱりおかしな気分だった。

 まったく怖くなかったと言ったら嘘だ。でも今見たアルビノの女は、思っていたほど怖ろしいものには見えなかった。化け物はそういう姿かたちをとるものなのだろうか? 判断がつかない。

 それに、気がかりなことがあった。

(あのひと、お母さんの名前を呼んだ)

 もうそのことを、単なる気のせいだとは思えなくなっていた。


 引き摺るような音は何度か家の周りを廻った。聞いているうちに疲労が意識を浸食し始めた。

 わたしはリビングに持ち込んだ布団の中で、皆に囲まれて眠った。

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