02

 晴にこの光景を見せるべきではない、と反射的に思った。特にうまい言い訳も思い浮かばず、階段のところに走って行って「電話してるから下で待ってろ」と言ったとき、自分の声がひっくり返っていたのを、なんだか妙に後々まで覚えていた。

 晴は思いっきり眉をしかめながらも、おれの勢いに押されたらしい。「うん……」と不満げに言いながら、大人しく階下に戻っていった。

 ため息をついてその場にへたり込みそうになったが、まだそんな場合じゃないことに気づいて立ち上がった。膝ががくがく震えた。

 おれは二階奥の部屋にとって返した。さっき見た光景は夢でも気のせいでもなんでもなく、阿久津さんは黙って部屋の中央あたりで揺れている。おれは通話状態のスマートフォンを床に置き、倒れていた椅子を起こすとその上に乗った。阿久津さんの顔を見るのが怖い。

「大丈夫ですかぁ」と一応声をかけながら抱えた体は、まだ暖かかったし柔らかかったけれど、死んでいるなと直感した。何とか下ろさなければと思って体に力を込めると、椅子ががたがた揺れた。後先考えずに動いたせいだ。この体勢からは何もできそうにない。

『文坂さーん、どうですかー?』

 床のスマートフォンから志朗さんの声がした。『阿久津さん、亡くなってません?』

 そうだ。電話。話をしなければ。おれは誰かとコンタクトをとっているべきだ。

 なるべくそっと手を離したが、支えを失うと阿久津さんの体は重力に従ってがくんと落ち、もう一度首を吊らせたことになってしまって吐きそうだった。椅子からほとんど落ちるようにして降りると、おれはスマートフォンを床から拾い上げた。

「し、死んで、ふーっ、しんでます……すみません」

『文坂さんが謝ることじゃないですが、まぁ、そうじゃろうなぁ』

「な、なんで」

 なんで知ってたんですか、と聞きたいが、上手く言葉が出てこない。幸い志朗さんは察してくれたらしい。

『阿久津さん、今こっちに来てますんで』

 と、そう言った。

 全身の皮膚がざわっと粟立つような気持ちがした。

『いやぁ〜、こんな人ボク初めて会ったわ。迷惑じゃなぁ〜』

 志朗さんの声には、さっき一度引っ込んだように思われた怒りのトーンがまた復活しつつあるらしい。死んだ人間に生きてるテンションでキレてる人と通話、ちょっとどうしたらいいのかわからないのだが、とにかくおれは這うように部屋を出た。

 揺れている阿久津さんの方を見ないようにしながら引き戸を閉め、冷たい床にぺたんと尻もちをついた。違和感に気づいて自分の顔を触ると、両頬が涙でびしょびしょになっていた。

『文坂さーん? 文坂さん、大丈夫ですか?』

 スマートフォンから志朗さんの声が聞こえる。それと同時に、一階から「きっちゃーん」と晴の声がした。

 そうだ、と晴の顔を思い出す。一階に行かなければ。晴がまたこっちに来てしまう。そう思ったとき、汗をかいた手が滑ってスマートフォンを落としそうになった。なんとか持ち直したが、その拍子に通話終了のアイコンをタップしてしまったらしい。通話が切れた。

「やば……かけ直さなきゃ……」

 ぶつぶつ独り言を言いながら、おれはまず体を引きずるようにして一階に下りた。今一度に二つのことをやってる心の余裕がない。電話もしなければならないが、とにかくまずは晴のところに行かなきゃと思った。安否がどうこうというより、晴の顔を見たかった。おれにはもう晴しかいない。

 晴はさほど不安そうな様子でもなく、居間の奥の座敷でぽつんと座っていた。おれの姿を見ると駆け寄ってきて、「きっちゃん、だいじょうぶ?」と言った。そう言われるような顔を、今のおれはしているらしかった。

「大丈夫だよ」

 おれは畳の上に膝をついて、晴を抱きしめた。ちゃんと生きている人間の手触りがした。

 晴はおれの頭を撫でながら、「あくつちゃん、お山におこられた?」と言った。何も答えられなかった。頭の中でもうやめてくれと唱えただけだった。

 お山も、人が死ぬのも、阿久津さんの首吊りも、何もかももうたくさんだ。

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