22

 わたしから兄に連絡をとった。母のことをどんなふうに告げたらいいのかわからなくなり、色々考えて結局簡潔に『お母さんと連絡がとれない』と送った。

 兄とも連絡がとれなくなっていたらどうしようと思うと、居ても立ってもいられなかった。少しして兄から『俺もとれない』と返信があったときは、安心して思わず涙が出た。

『母さん出かけたん?』

『離婚届出しに行った』

『実家んとこか』

『そう』

 少し会話が途切れ『気つけてな』と返事があった。わたしは『了解』と送り、話はそこで終わった。

 兄に今まであったことを聞いてほしいのに、やっぱり結局は必要最低限のやりとりしかできなかった。怖いからだ。こうやって連絡をとっていることを、ここまでやってきたものに見つけられたらと思うとどうしようもなく怖かった。

 同時に腹立たしかった。どうしてこんなに怯えなければならないんだろう。わたしたちが何をしたというのか。

「ねぇ実花子ちゃん、今日はあたしと一緒に寝たらいいんじゃない」

 伯母がわたしにそう言った。「一人じゃ不安でしょ。あたしが客間に寝るわよ」

「皆で居間におったらいい」

 伯父がそう言った。「じいさんもばあさんもそれでいいけ?」

「おう、それでいい」

 祖母が居間から出ていき、しばらくすると人数分の食器をお盆に載せて、台所から戻ってきた。

「みんな、昨日の残り物でいいかしら」

 文句の出るはずもなかった。


 時折トイレに立つ以外は、居間から出る人はいなかった。わたしが用を足すときは伯母か祖母が個室のすぐ外まで付き添ってくれ、一人ぼっちにならないようにしてくれた。

 わたしたちは居間だけでなく廊下にも電灯を点け、居間のテレビもスイッチを入れて、なるべく賑やかな番組にチャンネルを合わせた。眠くなったら交代で眠ることにし、居間に寝具が持ち込まれた。

「実花ちゃん、休んだほうがいいんじゃない?」

 そうは言われたものの、まるで眠れなかった。不安と恐怖と諦めと焦りがごちゃまぜになって、布団の中で目を閉じていても眠りに落ちることはなかった。

 もしかすると、複数人で賑やかに過ごしていたら何も起こらないんじゃないか。半ば無理やりそう考えながら、ひたすらに時間が過ぎるのを待った。

 やがて零時を過ぎた。暖まった寝具の中で少しだけ眠気が兆したと思ったとき、

 ひた、ずっ、

 音が聞こえた。

 わたしは寝具の中で固まった。少しの音も出さないよう息を殺し、目だけを動かして窓の方を見た。

 ひた、ずっ、ひた、ずっ、

 カーテンの外、おそらく掃き出し窓の下に何かが来ている。

 部屋の中の様子は変わらない。わたしの左右を囲むように座った祖母と伯母が、今年の白菜漬がどうのこうのと平和極まりない話をしている。祖父が炬燵で舟を漕ぎ、伯父はテレビのチャンネルを変えている。

(みんな、聞こえないの)

 わたしは近くにあった伯母の手首を握った。伯母が驚いたようにわたしを見下ろした。

「あらっ、どうしたの」

 囁き声で尋ねられたそばから、ひた、ずっ、という音がわたしの耳を撫でた。

「来てる」

 わたしが呟くと、伯母の顔色がさっと変わった。

「ほんと?」

 囁き声で尋ねる伯母に、わたしは頷いてみせた。

 いつの間にか祖父も目を覚まし、皆がこちらを見ていた。テレビの音声だけが白々しく居間に響いている。

「ねぇ、来てるって」

「ほんとか。聞こえんが」

 皆が言い交わす中、わたしはずっとあの音を聞いていた。壁を撫で、体を引き摺って動く音を、おそらくたった一人で聞き続けた。

 ひた、ずっ、ひた、ずっ、ひた。

(皆には聞こえないんだ。そういうものなんだ)

 わたしはようやく気づいた。掌で外壁をぺたぺた触ったところで、室内の人間にはそんな微かな音は聞こえないはずだ。聞こえる方がおかしかったのだ。

 音はゆっくりと家の周りを回る。遠ざかり、もう一度戻ってくる。固まって聞こえるはずのないそれを聞いていた矢先、ふいにぴたりとその音が止まった。

「なに……」

 わたしの様子がおかしかったのだろう、皆がこちらを見た。沈黙のあと、窓の外からじゃれつくような「ふっ」という短い声が聞こえた。

 その瞬間、ぐわっと煮えくり返るような気持ちで頭がいっぱいになった。あまりにも突然の変化だった。

(何がおかしいの)

 わたしは立ち上がった。祖母が「実花ちゃん」と驚いたように言った。

(何が楽しくて笑ってんだよ)

 わたしはカーテンに手をかけた。

 見てやる。

 そう思った。

 もしかしたら外見がなにかしら手がかりになるかもしれない。わたしは何も知らない。だから情報がほしい。護さんだって言っていたはずだ。見るだけなら、と。話したり戸を開けたりしないようにと言っていた。見るだけならきっと大丈夫、見るだけなら。きっと。

「おい、実花子」

 祖父が慌てた声でわたしを呼ぶ。


 わたしはカーテンを左右に開いた。

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