11

 わたしたちだけでなく、黒木さんも家を囲むような泥のあとに気づいたらしい。小さく「うわ」と声を上げつつ、車のスピードを落とした。

 車内に重苦しい、厭な空気が流れた。

「もしかして家の周り、なんかありました?」

 志朗さんが突然口を開いた。緊張していたわたしの耳に、その声は場違いなほど朗らかに聞こえた。

「すみませんね、ボク昔事故で両目なくしちゃったもんで、全然見えないんですよ。なので見たらすぐわかるようなものでも、いちいち確認させてもらいますね」

 と言いつつ、いきなり「何か家の周りをぐるぐる周ったような跡とかあります?」とどんぴしゃの正解を出した。父が若干戸惑いながら「そうです」と答える。

「車、どのへんに停めましょうか」

 早くも気を取り直したらしい黒木さんが一旦車を停め、父に声をかける。とりあえず家の前の何もない辺りに車を停め、外に出ることになった。

(ああ、厭だなやっぱり)

 ついさっき「一緒に行きたい」という意気込みを訴えたところなのに、本家を目の前にするとやっぱり気が削がれる。膝の上でこぶしを握って、まだ泥の跡を見ただけだ、と自分に言い聞かせた。まだほとんど何もわかっていないようなものじゃないか。

「実花子さん」志朗さんが声をかけてきた。「大丈夫ですか?」

「だ……い丈夫です。大丈夫」

 わたしが精一杯の気合を込めて答えると、志朗さんはニッと笑った。

「じゃ、降りましょうか」

 そう言って、志朗さんはためらいのない仕草でスライドドアを開けた。冷たい外気が流れ込んでくる。志朗さんは白い髪を風に吹かれながら、様子を伺うように外に顔を向けていたが、

「まぁ、行きましょうか。一応タイムリミットがありますしね」

 そう言うと慣れた動作で車を降り、白杖で一歩前を探りながらどんどん歩いていく。とても目が見えないとは思えない確かな足取りだ。わたしは急いでその後に続いて車を降りた。

 庭の椿が赤い花をつけている。何日か世話をする人がいなくても咲くのだなと思いながら、わたしは庭の車庫に目をやった。白い軽自動車がない。聖くんが乗っていたものだ。やっぱりいなくなっちゃったんだ、と思うと胸が痛くなった。

(聖くん、きっと晴ちゃんのために逃げ出したんだろうな)

 そんなことを考えた。

 聖くんは、晴ちゃんをこの家にまつわる運命からなんとか救えないか――そう考えたんだと思う。だからまず家を離れて、物理的に距離をとろうとした。そういうことじゃないかと思った。それが正解なのかどうかはわからないけれど、きっと一定の意味はあるのだろう。だからこそ置いていかれたものが、こんな風に家の周りをべたべた触って回ったのではないか。

 カン、カンと耳慣れない音がした。志朗さんが舌打ちをしたらしい。おそらくエコロケーションだろうと思った。映画かなにかで見た覚えがある。

「広いですねぇ」

 志朗さんが言った。

「田舎の家ですからねぇ」

 と父が答えた。「まして本家ですから。敷地だけは広いですよ」

「おうち、入れますよね」

 志朗さんはどんどん家の方に近づいていく。黒木さんが車をロックし、きびきびとそれに続いた。父がポケットから鍵を取り出し、「ええ、開けましょう」と言って歩いていく。

 ぼやぼやしていたら置いてきぼりになる、と気づいて、わたしもようやく本家の母屋へと重い足を向けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る