36
鷹一の脳に、直接ソフィアの言葉が響く。
恩師のようであり、あるいは親のようでもあり、その言葉を拒絶することができない人間のものであるかのように。
自分自身の意思でそうしているかのように、鷹一の中から、何かが消えた。
いや、“何か”で片付けるには、些か大きすぎるものだったかもしれない。
忘れて、と言われたことまでは、覚えていた。
自分が誰かもわかる。
今何をしているのかも、戦わなくてはいけないことも。
しかし、何故?
何故、俺は戦わなくてはいけないんだろう?
痛いのは嫌だし、する理由がない。
それはまるで、勉強しろと言われて「なんで?」と言うようなものだ。
勉強には目的がいる。
戦うにも、もちろんだ。
鷹一からは、その目的が取り払われてしまった。
今の彼は、ただ「そこに立っていろ」と言われただけ。
「……」
鋭く、そして燃えているようだった鷹一の瞳が、困惑で泳いだ。
寝ていたら、突然知らない場所で目覚めて、どこだろうと探っているようにすら見える。
これがAランク
“
一試合に一発こっきり。
自殺しろであったり、リタイアしろのような命令は受け付けないが、何かを忘れろという程度のことは従わせることができる。
殺傷能力すらないが、冗談ではない弾が飛び出すのだ。
ソフィアは、にやりとほくそ笑み、覇気を失った鷹一を見た。
先程までは、ピリビリと訴えかけて来るものがあったが、今は違う。
ただの木偶だ。
いまの鷹一なら、コースターから飛び降りたりなんてしない。
そんな狂気のない最底辺なんて、怖くもなんともない。
奴隷はすべてを捨てられるから、王に勝つことができるのだ。
もはやソフィアにとって、鷹一は奴隷ですらない。
指先一つでなんとでもなる。
一歩、ソフィアが踏み出す。
鷹一がまるで場所を譲るように、一歩退いた。
それは、鷹一が命を投げ出してまで得た
「さあ、どっちが強いか、決めましょう!」
左手を相手に向けて伸ばし、右拳を顔面の横に構える。
そして、力いっぱい右拳を鷹一の顔面に叩きつけた。
“燃える闘魂”アントニオ猪木の得意技、弓を引くように拳を引く、ナックルアローだ。
「シャッァ!!」
本来であれば、鷹一にそんな大振りな拳が当たるわけはない。
だが、その拳は鷹一の顔面に突き刺さる。
やる気のない人間なんて、そんなものだ。
「ウゴっ……!」
後方に吹っ飛ばされた鷹一は、なんとか踏みとどまるが、しかし先程のソフィアと同じように、鼻が折れて鼻血が吹き出していた。
「はっ……はっ……!」
痛みによる動揺、恐怖。
それが、鷹一の心拍数を上げる。
鼻血をジャケットの袖で拭い、ソフィアを見つめた。
今の一撃で、鷹一はソフィアの力を改めて実感したのである。
その体に宿る努力。
そして、痛みから逃げない精神力。
“
そんなものなら、俺にもある、と。
しかし今の鷹一は、戦う理由かない。義務だけだ。
積み上げていない人間が、勝てるわけがない
ソフィアの膂力から繰り出される一撃で、すでに鷹一の心は折れかけていた。
「クソッ……なんで、俺はこんな目に合わされてるんだ……!?」
そう言って、鷹一は踵を返し、走って逃げようとする。
今の彼にとって、ソフィアは決して勝てる相手ではないからだ。
しかし、そんな彼の行動を、控室から見ていた紅音が、精神通話で鷹一に呼びかける。
『鷹一さんッ! 何逃げようとしてるんですか!?』
「な、何言ってんだ!? あんな強いやつ、勝てるわけねえだろうが!」
追い詰められ、味方を怒鳴る。
弱い人間の、弱い行動だ。
『鷹一さん……』
王ヶ城紅音は、朝比奈鷹一のことを信頼しているが、どこに信を置いているのかと言えば。
その闘争心である。
戦いの最中に諦めが頭をよぎるような人間に、頂点を取ることはできないからだ。
しかし鷹一は、諦めを知らない。
たとえ
そんな男が「相手が強いから、勝てない」と言い出す。
それは、裏切り以外の何者でもなかった。
もちろん、ただ
「だ、だいたいッ! お前はいつも、戦いの外からあーだこーだ言うだけだろうが! 苦しい思いをしてんのは俺だぞ!」
鷹一の悲鳴にも似た叫びが、紅音の心をえぐる。
そしてそれは、どうやらソフィアに対しても不快感を与えているらしく。
ソフィアは耳にこびりついた不快感を拭い落とそうとするように耳たぶを引っ張り、顔をしかめた。
「ふう……。鷹一のスピリッツ、結構気に入ってただけに、こういう姿は見たくないですねえ。どっかんと、決めますか」
そう言うと、ソフィアは大股で、ハイヒールを鳴らしながら鷹一に歩み寄る。
紅音の言葉に反論していたせいで足を止めていた鷹一は、すぐさま追いつかれてしまい、まるで自分からそう合わせたかのように、極め技の体勢に入られてしまった。
『卍固め……!』
紅音の声色が、絶望に染まる。
卍固め。
有名なフィニッシュ・ホールドだ。
ほとんど全身の関節を極め、動きを封じる。
その関節の痛みは、徐々に相手の心を折り、降参を促す。
『鷹一さん! 抵抗して!』
「が、ぎ、ぎぎ……いでえええッ!!」
痛みで鷹一は、紅音の声が聞こえていないかのようだった。
鍛錬には、心と体の二つを鍛える意味がある。
積み上げたブロックを崩すことは誰だって惜しい。
負けるとは、そのブロックが崩れることを意味するのだ。
もっと頑丈に、また積み直さなくてはならない。
それは今までの自分を否定することであり、新たな自分を得るということ。
しかし今の鷹一には、そんなことすら考えられないのだ。
負ければ自分はこの痛みから解放される。
ただそれだけが、鷹一の頭の中にある。
まだギブアップと言っていないのは、ただなんおなくもったいないような気がする、という理由からだ。
言わば、鷹一を鷹一足らしめる、残り火が踏みとどまらせているにすぎない。
つまり、いつギブアップしてもおかしくない状況にあるということだ。
(まずい……! こんなんじゃ、負けるのはどちらにしても、時間の問題!)
紅音は、二人の様子を見ながら、考えを巡らせていた。
人差し指の腹を噛み、痛みで頭を冷静にする。
これまでの紅音は、セコンドとして鷹一に合わせることができていなかった。
しかし今、そんなことを言っている場合ではない。
むしろ今こそ、真のセコンドになる時。
紅音はそう、現状を受け取った。
確かに“
紅音の中にあるデータで言えば、勝率は八割以上。
しかし、二割は“
強い
漬け込む隙は、十分にある。
『鷹一さん! あなたはソフィアに勝つだけの自力があります! 私の言うことを聞いて下さい!』
「そ、そんなこと言われても……!」
オクトパス・ホールド。
通称、卍固め。
かつてかの名プロレスラー“プロレスの神様”ことカール・ゴッチがアントニオ猪木へと伝授し、アントニオ猪木のフィニッシュホールドとして日本で有名になった、知名度の高い技だ。
その真価は、一度かかってしまえば脱出困難であるという点にある。
脱力しても、全身に力を入れても、多くの関節が逆方向に逸らされている以上、そこから力任せに外すというのは非常に難しい。
特にソフィアは、組技を得意としている、ルチャミーツランカシャーである。
そのホールドから脱出するのは、ほぼ不可能と言ってもよかった。
『鷹一さん、あなたの一番の望みはなんですか』
『あっ、あぁ……!? 望み、だぁ……!? 今この状況から、脱出することだよ!』
『痛いですよね? 痛いの、嫌ですよね? その痛みから開放される、いい手があります。まずは、その卍固めから抜け出してみませんか?』
鷹一からすれば、負けずとも脱出できるというのなら、それに越したことはない。
必死に脳内の紅音に対し、返事をする。
『卍固めの抜け方は、簡単です。極められている、右腕の力を抜いてください』
『はぁ!? そ、そんなことで……!?』
『痛みに抵抗しようとするから駄目なんです。意外に、それだけで抜けられます!』
あまりにも自信満々。
そして、鷹一からすれば、全身を包む痛みから開放してくれる、味方の言葉だというのなら、疑う理由がない。
なので、紅音の言うことに従い、勇気を出して、鷹一は右腕の力を抜いてみた。
「えッ!?」
驚きの声を上げたのは、ソフィアだった。
彼女からすれば、ホールドされている相手が、力を抜くなんてありえないのだから。
まるで、水が入っていると思って持ったヤカンに何も入っておらず、持ち上げてみたら予想外の勢いがついてしまったように。
鷹一の右腕が、あらぬ方向へと曲がった。
姫様は最強をご所望です! 七沢楓 @7se_kaede
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