第125話 とある馬のおはなし

「で、こっからどうする気?」

『まあまあ、急いてはことを子孫汁しそんじるってな。違うか!』

「…………」


 セン馬にしてやろうかと睾丸に狙いをつけたところで、スワンはハルのいるかまくら坂路ではなく、偽ロンシャンのスタート地点へ向けて常歩を始めた。そのまま何か特別なことをするでもなく、園芸用支柱の棒だけが雪に埋まらず出ているラチに沿ってコースの雪を踏み締めて歩いていく。


「何がしたいんだ、あのおっさんは……」


 藁をもすがる思いで頼んだのに、スワンのやっていることは単なる散歩。ハルのことなんて無視して、雪中行軍もかくやと新雪を踏み締めているだけだ。

 年の功とは言えど、期待しすぎたのかもしれない。志穂は早々に諦めて、馬房の掃除に戻ることにした。


 ハルが動き出したのはその直後だった。


 *


 偽ロンシャンの長い直線を、雪とその底の芝の感覚を確かめるようにスワンは歩いていた。動くと熱をもつ馬体を冷やすには、十数センチ近い積雪がちょうどいい。

 踏み締めるたびにキュッと音を鳴らしていると、後方に若馬がつけていた。ハルだ。


『……おじさん、走らないの?』

『おじさんはゆっくり歩くのが好きでね。ちゃんハルは速いのかい?』

『ボクは速いよ? 見てて!』


 言うなりハルは雪をかき分けて疾駆する。新雪を踏み締めてスワンを抜き去り一気に丘を登ると、コースを逆走して戻ってきた。ハルは得意げに鼻を鳴らしてみせた。


『どう? 速い?』

『やるねぇ。おじさんに走り方教えておくれ』

『仕方ないなぁ〜! ついてきて!』


 雪深いコースは不良馬場どころではない走りにくさだ。雪の壁を蹴り飛ばすようではうまく進まず、脚を雪より高く上げては踏み下ろすしかない。必然一完歩の幅は狭くなるため、足元の回転数が上がっている。


『走りにくいときは小さく脚を動かすのがコツだよ!』

『ほう、物知りだ。いつもは違うのかい?』

『いつもはぐーっと体を伸ばして走るよ! でも地面がぐちょぐちょのときはこっちの方が速いんだー』

『なるほど、ちゃんハルはヨウキーだ』

『うんボク陽気!』


 ハルは陽気——器用にも、馬場によって足運びを変えていた。そのまま雪深い丘を全力で登りきって右回りに下っていく。スワンもそれについていこうとするが、慣れていないコースだからか加減しているからか、ハルにはどんどん差を開けられていた。


『おじさーん! 遅いよ〜?』

『雪の中を走るのはビーサーヒーさーでねえ。雪だけにがいるんだな、これが!』

『そう! ボク勇気もあるよ!』

『グーヤンチャンネーには通じないか。たはは……』

『なにそれ?』


 年の功のお言葉は何ひとつ通じなかったものの、スワンには感じるものがあった。

 二歳でのデビューから七歳。五年間、二十戦以上の展開を後方で見守ってきたからこそ分かる、前を行く馬たちが有している前進気勢。言ってしまえば、負けず嫌いの心持ちだ。


『ちゃんハルはいいレースができそうだネ。おじさん応援したくなっちゃうよ』

『ホント!? ならシホに教えなきゃ——』


 喜んで叫びかけたところで、ハルは不貞腐れるように新雪の中に寝転んで埋まってしまった。


『そんなトコで寝たら風邪引いちゃうヨ? おじさんが温めてあげようか? なんちゃって』

『……シホと一緒じゃないならレースに出る意味ないもん』

『にゃーるほど』


 スワンはようやく事態を把握した。自身にも似たような経験があるがゆえに、ハルの抱えた不満は理解できたのだ。

 埋もれた雪をかき分けて、投げ出されたハルの背によりそうように並ぶとスワンは告げる。


『おじさんの知り合いに、こんな馬がいてねえ』


 そしてスワンは、とある馬の馬生について語り始めた。


 *


「宏樹、ワシからの誕生日プレゼントだ! お前のために四千万で落札してやったぞ!」

「なんで馬なんだよ!? おれ妖怪ウォッチのゲームが欲しいって言ったじゃん!」


 まだ当歳馬だった彼も、初めて現れた小さな人間の姿はよく覚えていた。他の人間と違って小さく、かつ落ち着きがなかったからだ。何を話しているかはわからないが、泣き喚き始めた様子から、人間にも子どもの時期があるのだと当歳馬ながらに理解する。

 その少年は自身と同じでまだ幼く、分別がない。とはいえ好奇心は持ち合わせているようで、おずおずと差し伸べられた手に、当歳馬の彼もまた応えることにした。牧場の顔見知りたちとは違う撫で方、手は震えていたが、それが少年の緊張なのか、自身の緊張なのかはわからない。


「さすがワシの孫! もう馬を手懐けるとはな! カッカッカ!」

「これ、おれに懐いてんの……?」

「これではない。モノ扱いしてはいかん。大事な命だ」

「じゃあなんて呼べばいいんだよ。馬とかか?」

「カカカ! こいつは宏樹の馬だ。名前をつけるのもお前の大切な役目だぞ!」

「ならジバニャンがいい! じいちゃん知ってる? 妖怪ウォッチの——」

「本当にそれでいいのか?」


 老人の口調は、暗に否定していた。少年はすぐさま不満を見せたが、当歳馬の彼をしげしげと眺めて「たしかに」と言い淀む。


「全然地縛霊っぽくもネコマタっぽくもない。馬の名前ってどういうのがいいんだ?」

「なあに、まだデビューまで二年はある。ゆっくり考えるがいい」

「そんなにかかるのかよ!?」


 そんな出会いから二年間、老人と少年は定期的に彼の様子を伺いにきた。老いたまま姿の変わらぬ老人と違って、少年は会うたびに姿が変わっていく。それでも馬よりは、人間の子どもの成長は遅いのだと彼は理解する。

 そしてある日、少年はニンジンを片手に笑顔で何やら言っていた。


「お前の名前考えたぞ。すっげーカッコいいんだ!」


 撫で方にはもう、昔のような緊張はない。気持ちのいいところを理解しているのか、額の流星をなぞりながら慣れた手つきでニンジンを口元に運んでくる。

 傍らでは、やや老け込んで杖をつく老人と、身なりを整えた男の姿があった。少年と馬、ふたりを眺める渋面には、笑みが浮かんでいる。


「名前はセブンスワンダーだ! いいだろ、世界の七不思議って意味なんだぜ!」

「宏樹様、それだと七番目の宝という意味になります。世界の七不思議だとセブンワンダーズですが」

「べ、別にいいだろ!? じいちゃんもいいよな!?」

「第七の報酬か、いい名だ。手配しておけ、関口」

「承知しました」


 何を言っているかはわからない。だが皆一様に幸せそうだったことだけは覚えている。

 むしろ彼も馬自身、少年がやってくるのを楽しみにしていたのだ。甘いニンジンを持ってくるからではない。幼少のみぎりに知り合い、ともに成長している彼と定期的に触れ合うのが楽しかったのだ。

 このままこの少年と、そして老人たちと一緒に過ごすのだと馬ながらに彼は思っていた。


 だが、状況は変わり、彼はレースの中へと身を投じていく。


 *


 スワンはとある馬の馬生について、おぼろげながらも告げていた。黙って聞いていたハルは、昔話が途切れた瞬間に言葉を挟む。


『え……? その男の子とはもう会えないの……?』

『おじさんが聞いた限りじゃ、最初の方は会いにきてたそうだがねえ』

『そのお馬さんは男の子のこと大好きだったんだよね!? そんなの悲しい……』

『たはは、ちゃんハルはやさしいねえ』


 誰のことを語ったのか気づいていないハルの素直さに、スワンは苦笑するほかなかった。


『だってボク、シホに会えなくなるとかヤダもん! レースに出たらもう来てくれなくなるんでしょ!?』


 スワンはやや考えて答える。


『あの嬢ちゃんは絶対に会いにくる気がするけどねえ』

『そんなことないよ、シホは一緒に来てくれないもん! ボクに乗ってくれないんだよ!?』

『おじさんも……ゲフンゲフン。おじさんの知り合いも、少年は乗ってくれなかったそうだよ』

『なんで!? なんで見離すようなことするの!?』

『おじさんはね、あれは見離した訳じゃないと思うんだよなあ』


 そうしてスワンは再び語り出す。


 *


 レースで先頭になれば、顔見知りの人間たちとともに並ぶ、馬からすれば謎の儀式口取式がある。はじめての栄誉の舞台で、少年は身なりを整えてその馬の隣に立っていた。


「ううっ、勝った……! すごいぞ、セブンスワンダー……!」


 少年は泣いていた。その少年を慰めるように、老人が頭を撫でている。泣いているのは少年だけで、他の人間たちはみな笑っていた。祝賀ムードの中、ひとりだけ泣いている少年が哀れで、その馬は身を寄せてやった。


「おれ、応援することしかできないけど……!」


 少年は衣服の胸元から、毛で作られた何かを出す。肌身離さず持っていたものだろう、それを握りしめて、天高く掲げていた。


「宏樹の必勝守が功を奏したな! カカカカッ!」

「うん、おれもっと作る! そんでセブンスワンダーにもっと勝ってもらう!」


 泣きはらした少年の笑顔が、陽光にさんさんと煌めいていた。

 自身を見離すような人間が、あんな顔をするはずはない。


 その馬はそのときようやく、自らの目的に気づいたのだ。

 それは、送り出してくれた少年のために走るということ。

 泣きはらした笑顔を、どうかもっと見てやりたかった。 

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