第121話 トーホウジャッカる

 ここ競馬大国でありギャンブル大国の日本。

 年がら年中どこかしらで馬が走っているが、その盛り上がりがピークに達するのはやはり秋から年末にかけての秋競馬G1戦線だろう。なかでもエリザベス女王杯から暮れまで続く八週連続のG1開催は、陣営も馬券師もファンも胸を高鳴らせるばかりだ。

 そして年の瀬。

 まだまだ若い二歳馬たちも、とうとうG1の檜舞台に立つ。

 未来の優駿である彼ら彼女らの真価が、いよいよ問われようとしていた。


「さあ、ふたりの真価を問うよ! 第一問! 秋のG1全部言えるかな!?」


 十二月半ば。

 長い冬休みに突入した志穂は、家業にバイトにと忙しなく走り回っていた。今日は洞爺温泉牧場でのバイトと預託しているレインのリハビリ。一緒に働くのは小野寺と、実家に帰省したはいいが暇すぎた茜音だ。


「菊花賞と秋華賞と……ジャパンカップ……」

「みっつもわかるなんて加賀屋さんすごい……!」


 残念ながら、志穂と小野寺はまだまだ競馬素人なのだった。

 とっさにレース名を列挙できるレベルにまで達するのはなかなか難しい。G1でさえこれなので、G2以下重賞はさっぱりだ。ここからリステッド競争までの開催期や条件まで即答できれば立派。そして、その勝ち馬を過去数十年分ソラで言えたら茜音のような競馬オタクの仲間入りである。


「モタとかマリーたちが出たレースなら覚えてるんだけどねー」

「そのうち勝手に覚えてるから大丈夫! 覚え方もあるし!」

「待って、メモするから」


 氷点下の気温でもよく舌が回るものだと感心しつつ、志穂は茜音の解説にペンを走らせた。


 年間に開催されるG1は全部で二十四戦。

 まずは牡馬牝馬のクラシック計六戦。そしてNHKマイルカップ。

 古馬の王道路線、春三冠——大阪杯・天皇賞春・宝塚記念と、秋三冠——天皇賞秋・ジャパンカップ・有馬記念。

 短距離路線は春の高松宮記念、秋のスプリンターズステークス。

 マイル路線は春の安田記念、秋のマイルチャンピオンシップ。

 ダート路線は春のフェブラリーステークス、秋のチャンピオンズカップ。

 牝馬限定戦は春のヴィクトリアマイル、秋のエリザベス女王杯。


 ポイントは春と秋で似た条件のG1が開催されていること。これらは短距離やマイル、ダートなどそれぞれの路線を歩む馬たちの大目標だ。

 そして年末、これらとは異なる三戦が開催される。


「残りの三つは二歳戦だね。牝馬限定の阪神ジュベナイルフィリーズと、朝日杯フューチュリティステークス。そして年内最後のホープフルステークス」

「阪神ジュベナイルフィリーズ。それってネージュが勝ったやつだ?」

「そう、勝つと二歳女王! カッコいい! ちなみに《フィリー》ってのは英語で二歳から四歳までの牝馬のこと。五歳以上になると《メア》って言うんだよ」

「フィリーが小娘、メアが熟女ってことね?」

「境目が急激じゃないかな……?」


 小野寺に言われたが気にせずメモに書き留めた。その後、茜音から英語では馬の性齢によって細かく呼び名が変わるなんて話が出たがすっ飛ばして、今年のジュベナイルフィリーズについて調べてみる。

 そこで志穂は、あのメスガキの名前を見つけたのだった。


「うわ、ファルサリア出るんだ。しかも一番人気……」

「ね! まさか新馬戦で見た子がここまで行くなんて! これはもう偶然じゃなくて運命! 単複買う!」

「それってそんなにすごいことなんですか?」


 小野寺の質問に、茜音のメガネの奥が光って澱んでいた。デビューから見守り続けた馬がG1の舞台に立つことのロマンを寒さにも負けず語り出した茜音に我関せずを決め込んで、志穂は出走馬を調べていく。


 二歳牝馬十八頭。戦績はいずれも二戦から三戦だが、最低でも新馬戦はゆうゆうと勝ち上がっている実力馬。そんな中でもっとも前評判が高いのがファルサリアだ。

 戦績は二戦無敗。

 超一流牧場の名牝系出身で、父は早熟性に定評のある《エピファネイア》。二歳重賞はコーナーで外を回される不利を受けながらも一馬身差で快勝。

 さらに阪神ジュベナイルフィリーズは阪神競馬場のマイル距離。比較的平坦でコーナーふたつ、スローペースで前残りしやすく、ファルサリアのような先行馬には有利。

 挙げ句に鞍上は今年のリーディングジョッキーで、厩舎も三冠牝馬プレミエトワールを育て上げた草苅厩舎だ。人気しない方が嘘だろう。

 考えながらも競馬サイトでコースを調べていると、志穂は気づいた。


「あれ? これって桜花賞と条件おんなじなんだ?」

「いいところに目をつけましたねぇ!!!」


 小野寺をキョトンとさせた熱のこもったロマン語りを、今度は志穂が浴びる番だった。

 いわく、阪神ジュベナイルフィリーズは翌年の桜花賞を占う前哨戦。クラシックを目指す陣営は、ここで結果を残して本番にはずみをつけたいのだ。ちなみに牡馬の場合は、ホープフルステークスと皐月賞が同じ中山芝二千メートルである。

 志穂は重々しいため息をついた。茜音の説明にうんざりしたのではない。比べないようにしていても、どうしてもハルと比べてしまうのが人の常だ。


「いいなあ、ファルサリアは。ちゃんと一月に生まれて育成期間もたっぷりあって、結果も出せてさ」

「ハルちゃんも最近いい感じって聞いたよ? 坂路で五十秒後半なんて相当だし!」

「でもなあ……」


 あのかまくら坂路は風洞。つまり外界の影響を受けないため走りやすいのだ。それにトレセンの坂路に比べると数メートル低い。好タイムを出せたって油断はできないし、実際のレースでは周りに大勢の馬がいるのも不安要素である。


「せめてクラシック最終戦には間に合わせてあげたいんだけどな。一千万円貰えるのもあるけど」

「いっせんまんえん……?」


 例の石崎の配信を見ていない小野寺は疑問符を浮かべていたが、茜音は「うんうん」と頷いていた。

 あの配信で石崎を焚き付けるコメントを書き込んだのは誰あろう志穂である。ゆえに勝てば百万、クラシックを勝てば一千万円だ。簡単に誘導される様があまりにおかしくて、スクショして待ち受け画面にしているほどだ。

 焦りと不安で志穂が黙り込んでいると、くすりと笑って茜音が告げてきた。


「志穂ちゃん、《トーホウジャッカル》って馬、知ってる?」

「知るわけないじゃん。どんな子?」

「フフ、調べてみるといいよ」


 茜音は結局何も答えてくれず、休憩も終わったので志穂たちは作業に戻っていった。

 レインに乗って軽くウッドチップの上を走らせたり温泉に入れたり、当歳馬とねっこたちに言葉や礼儀作法を教えているうちにすぐに日は暮れ、今度はすこやかファームでの仕事に戻っていく。

 坂路三本をこなして暖かな温室パドックで母娘ともどもくつろいでいると、志穂はふと思い出す。


「そういや、茜音ちゃん言ってた馬なんだっけ」

『知ってる子?』

「や、なーんも知らん。調べてみるか」


 寝転んだクリスを背もたれクッション代わりにして調べたところで、志穂は目を見開いた。


「そっか、この子もデビュー遅れてたんだ……」


 トーホウジャッカル。

 預かり予定のセブンスワンダーと同じ、スペシャルウィークを父に持つ牡馬だ。

 戦績は十三戦三勝。だがそんな数字では、彼の馬生を測ることはできない。


『シホー! ボクにも教えて!』

「待って。今わかりやすく説明するから」


 記事を読みながら、ハルにもわかるように志穂は説明を組み立てていった。

 トーホウジャッカルは、2011年の三月十一日に生まれた。この日、何が起きたかは日本人ならば皆知るところ。牧場が被災することはなかったが、その後の物資不足や「競馬どころじゃない」という厭世的なムードが日本を支配していたのは記憶に新しい。

 さらに彼を襲ったのは病気だ。腸炎に見舞われて生死の境を彷徨い、一時は「骨と皮しかない」状態まで痩せ衰えて競走馬になるかどうかすら危ぶまれていた。当然その期間はほとんど運動できず、大事なデビュー前の期間を治療と回復で棒に振ってしまったのである。

 そんな彼のデビューは、三歳の五月末。日本ダービーの前日である土曜日の未勝利戦だ。ただ当時の彼はゲート試験を合格しただけのような状態。なかなか快勝とはいかず、続いての二戦目も敗戦となる。彼が勝ち上がったのは未勝利戦がなくなる直前、七月のことだった。

 トーホウジャッカルの快進撃はここから始まる。

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