第115話 秋空にかける遠き夢
レース前、嵐の前の静けさのごときざわめきを聴きながら、十八頭はスタート地点後方の待機場を巡っていた。待機場は広々としたパドックとは違い、まるで屋根付きの屋外駐輪場のように横に細長い。多くの競走馬が本番に向けて自身の精神を落ち着かせる場所だ。
その十八頭のうちの一頭、クリュサーオルもまた精神を研ぎ澄ませる。すぐ背後ではシルヴァグレンツェが「最高だぜ!」と頭を振って吠えてとやかましいが、彼にとってはいつものこと。荒れていたとしても、その実力のほどは身に染みてわかっている。
『すげえトコに来ちまったなァ……』
これまでの激走と訓練を思い出して、クリュサーオルはふいにそんな言葉を漏らした。
歩いているだけでピリピリと、本能が強者の気配を感じている。もちろん今回競うことになる十七頭すべての実力を、クリュサーオルが知っているわけではない。だが一目見れば、あるいは見なくとも気配や息づかいだけで伝わるものがあるのだ。
『クリュサーオル様。ご壮健そうでこのわたくしアン、安心いたしました』
『テメエか。そっちも元気そうで何よりだ』
輪乗りの輪から外れて、アンティックガールがクリュサーオルの隣につけて待機場を歩く。ここではパドックのように規則正しく一列に回る必要はない。そのせいかアンティックガールの鞍上も特にそれを留めには入らず、クリュサーオルの鞍上と談笑を始めていた。
ともに歩きながら、クリュサーオルは確認するように告げる。
『気を吐いてるのが三ついる。わかるか?』
『ええ、シホ様に教えていただいた通りです。人間の観察眼は確かなようですね』
『あのメスガキ、勝たなくていいなんて言いやがったからな、目にモノ見せてやりてえが……』
鼻息荒く自らを鼓舞してみるものの、やはり臆病が顔を覗かせる。なにせ、他馬を飲み込むほどの強烈な覇気だ。怯えてしまった馬は耳を畳んでいたり、そもそも輪乗りに加わらず立ち尽くしている始末である。
『あのチンタラ走る遅漏野郎、明らかにビビってんな……』
クリュサーオルが視界に捉えたのは、京都大賞典でスローペースの速度制限を敷いたルーラーオブマキマだ。耳を畳んだ上に待機場で背を向けて、どの馬とも目を合わさないようにしている。怯えている確固たる証拠だ。
そしてもう一頭、待機場の隅で密やかに身を隠し、立ち尽くしている馬がいた。
『アイアムニンジャ! ヨロシク! クリュサーオル=サン!』
クリュサーオルは思った。
——こいつはいいや、無視しとこう。
『アイエエエ!?』
志穂から伝え聞いていた通り、世界各地から馬が集っている。とあれば妙な馬も中にはいるのだろう。日本かぶれのアメリカ忍者、アイアムニンジャには見ないフリを決め込んで、待機場をぐるりと巡る。
『嗚呼、素晴らしいです、クリュサーオル様。いかに強くとも慢心せず、しかと相手を見極める様! わたくし感服いたしました』
『ハッ、そういうテメエも強ェだろ。ワリィが本気で当たらせてもらうぞ』
『そんな、わたくしに本気になっていただけるなんて……♡』
『そんで? 気吐いてんのは誰なの? 教えてよオッサン』
『やっぱりテメエだったのかよ、白いの……』
会話に割り込んできたのは「白いの」ことスランネージュだ。クリュサーオルの前方で真っ白な四つ脚をしなやかに運びながら、全頭を視界に入れている。
クリュサーオルは瞬時に三頭を視野に抑えて、覇気の正体を看破する。
『まずは人間どもが騒いでたデケエ無口なヤツだ。アレは相当だな』
『よくわかってんじゃねえかバカ野郎! 俺、アイツにしか負けたことねえんだ!』
話を聞いていたのだろう、シルヴァグレンツェも加わって、最も警戒すべきライバルの話に話題は移る。
その馬の名は、ディスティンクト。シルヴァグレンツェの戦績にある二つの二着は、いずれもディスティンクトが押し付けたものだ。
『アイツを超えてえ! お前もそうだろ、オナバカ野郎!』
『ハハ、気が合うじゃねェか!』
『ま、確かにあれデカくてマッチョでイケメンだしねー。おっさん達には敵いっこないかも♪』
『いいえ、クリュサーオル様は勝ち切ります。そしてそんなクリュサーオル様にわたくしが勝って子孫を残すのです!』
あまりにクリュサーオル推しすぎるアンティックガールに、スランネージュは閉口していた。ただ、おっさん煽りも、プロポーズじみた熱愛も、クリュサーオルの意識には届かない。
見定めるのは最大のライバル、ディスティンクトだ。
だがそのディスティンクトは、いっさい目を合わせない。ずっと別の馬の姿を見ている。
『あの野郎、オレ様なんてまるで相手にしてねェな……』
クリュサーオルの見立てでもわかる。ディスティンクトはたしかに強い。
それでも自身だって、幾度もの戦いを超えてここまでやってきたのだ。
勝ってきた矜持がある。負かしてきた相手に対しての責任がある。そしてここまで導いてくれた頭ふわふわ人間や志穂。そして、あの女との絆がある。
『……勝手に死んだバカを悔しがらせるためにも、世界を獲らなきゃなんねェんだよ』
静かにつぶやき、臆病な心を殺す。
そしてディスティンクトの視線を辿り、彼がライバルと目している馬を見定めた。
『アレが、メスガキの言ってた世界最強か……』
それはディスティンクトに負けず劣らず、巨大な馬体と異様に発達した筋肉を蓄える怪物。
ホリゾンタルレイラインだ。
『わざわざ遠くから来たんだってさ。走らせるためなら馬も飛ばすだなんて人間もモノ好きだよねー』
『アレけっこうシンドいのよねェン。体の中グッチャグチャにされる感じなのよォ』
スランネージュの言葉に、今度は海外経験の豊富なマリカアーティクが答える。
ここ極東の島国日本は、四方を海に囲まれている。空路が発達するまでは、馬すら一ヶ月近く船に揺られて海外遠征をしていたというのだから驚きだ。当然、輸送で疲弊しきった馬がレースで好走するのは稀。日本馬の海外での躍進は、航空輸送の発達とともにある。
マリカアーティクの言葉に閃いたとばかりに、シルヴァグレンツェが吠えた。
『てことは、あの世界最強野郎を倒せば世界最強ってことになるんじゃねえか!? 燃えてきたぜ、うおおおおおッ!!!』
『ええ、その通りです! クリュサーオル様、世界最強になりましょう!』
『いや、違ェな』
クリュサーオルは静かに告げる。それでは勝ったことにならないからだ。
『親父様が取りこぼした世界を獲るには、アイツが勝った場所じゃないと意味がねェ。メスガキによれば、ロンシャンって場所だ』
競馬の頂点、パリロンシャン競馬場の凱旋門賞。
クリュサーオルにとってそこは、父親が二度挑んで二度負けた因縁の地。そしてドレスの女が自身との縁を繋ぐことになった運命の地。
クリュサーオルの馬生には、どうあってもロンシャンが絡み付いている。
『オレ様はそこで勝つ。そこへ行くためにこれに勝つ。要は勝つしかねェんだよ』
ゆえにこれは、いつぞや志穂が問いかけた「走る意味」の答え。大いなる目的だ。
熱っぽく語ったからか、賑やかだった周囲は水を打ったように静まり返っていた。面と向かって大言壮語を吐いてしまったからか、どこか居心地が悪い。
『お、おいなんか言えよ!? バカな夢語っちまって恥ずかしいだろうが!』
『お前ーッ!!! 何が恥ずかしいんだ! 俺は感動したぞバカ野郎ーッ!!!』
シルヴァグレンツェはおいおい泣いて吠えていた。あまりの大暴れに鞍上は必死に落ち着かせようと首元をさすっていたが、まるで効かないようで待機場を飛び出していく。
『いいぜ! ダチなら夢には付き合ってやるもんだ! そのロンシャン野郎をぶっ飛ばしに行こうぜ!!!』
『グフフ♪ いいわねェン! その夢アタシも乗るわァ!』
合わせてマリカアーティクも待機場を飛び出す。先だって馬場に飛び出した二頭は、西日に照らされて輝く芝地で、固い絆を結んだもう一頭が踏み出してくるのを待っていた。
クリュサーオルは、高らかに笑う。
『ゲハハハハッ!!! それでこそ最高のバカ野郎どもだ!』
言って、クリュサーオルも芝地へと駆けていく。そしてゲート入り前の確認作業が終わったのか、待機場から残りの馬も歩み出てくる。
西日で眩しい先にあるゲートは十八頭分。ファンファーレと拍手、大歓声を引き鉄に、ゲート入りが始まろうとしていた。
『ねー、おっさん。気を吐いてるのが三つって話だけど、あとひとりは?』
『わかんだろ、テメエのダチだ。
『だろうね、知ってたー』
問いかけたスランネージュは、予想通りの答えに項垂れた。視線の先にライバルを見据える。
鹿毛の三冠牝馬、プレミエトワール。
スクーリングやレース前はどこかボケた一面もあるが、レースになるとスイッチが切り替わる。パドックでも待機場でも、そしてゲート入りを待つ輪乗りの中でも、ひとり静かに集中している。
『ホント、デタラメなんだよねぇ。マリーちゃんはさぁ……』
呆れたように、その一方で羨望すら混じったスランネージュの語り口に、クリュサーオルは思い出したようにもうひと言付け足した。
『おう、数え間違えた。気を吐いてんのは四つだ』
『もうひとりは?』
『偉大なるその名はクリュサーオル。オレ様だ! ゲハハハハーッ!!!』
そうして奇数7番、クリュサーオルが先にゲートに誘導されていく。1番スランネージュも手綱と人間に誘われながら、好敵手プレミエトワールから視線を外し、ゲートから見えるまっすぐ伸びた直線を見定めた。
『……うっし。私もがんばっちゃうぞ⭐︎』
奇数番の枠入りは、歓声に驚いた海外勢を除いて順調に完了。その後偶数番もつつがなく枠入り。そして最後の最後、18番プレミエトワールが悠々とゲートに収まった。
ある者は大いなる夢のため。ある者はバカな夢に付き合うため。ある者は雌雄を決するため。ある者は自分より強い相手と走るため。ある者は子々孫々に命を繋ぐため。
そして、ある者は最強の称号を得るため。
東京芝二千四百メートル、ジャパンカップ。
いよいよ王道距離の頂点を決める戦いのゲートが開いた。
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