第113話 名馬は生き様で語る

「人が多すぎて何も見えねえーッ!」


 本番のひとつ前、第11レースのパドック周回の時点で、すでにパドックは芋を洗うような様相だった。もちろん彼らの目的は、今パドックを周回している馬ではない。この後、第12レースのパドックを一番いい場所で見ようと場所取りをしているのだ。

 最前列に立つのは巨大なレンズを伸ばすカメラマンの群れ。シャッター音は機関銃のように絶え間なく鳴り響き、彼らもまた本番に向けて調整を行っている。


「志穂ちゃん! 子どもの特権!」

「おかあさーん! どこーッ!?」


 茜音の作戦通り、真っ赤なドレス姿で泣き叫ぶ中学二年生女子という珍妙な客が生まれた。そこそこ背も伸びた上にメイクまでしている志穂ではいいかげん幼女扱いも無理かと思ったが、そこはそれ。

 馬の突撃に比べれば、人垣なんて可愛いものだ。毎日ハルの鼻先スピアを受け止めることでついた強力な体幹を武器に志穂は人垣を割って突き進む。結局、泣く子と地頭と筋肉には勝てないのである。


「よっしゃ、最前確保! お姉ちゃ〜ん!」


 そして志穂は、今度は茜音めがけて手を振る。隣を空けろという暗黙のメッセージだ。それでも空けない奴はヒールで足を踏み潰す。文句を言われたところで志穂の肝はこの程度では揺らぎもしない。適当に謝って場を納め、茜音も隣にやってきた。


「本当にたくましくなったねえ、志穂ちゃんは……。茜音ちゃん嬉しい反面怖い……」

「文句あるなら私の母さんに言って。たぶんこれ親譲りだから」


 都合の悪いことは全部親の教育のせいにしておく。それが志穂の処世術なのだった。


 パドックの最前列で、本日の主役十八頭を待つ。出走馬をひと目見たい観客が押し寄せているのか、柵に体がめり込みそうだった。せっかくのドレスもめちゃくちゃになっているがそれも覚悟の上。

 ドレスを着た姿を、クリュサーオルに見せ続けてやること。

 そしてプレミエトワールとスランネージュにエールを送ること。

 それが、これまで志穂を育ててくれた三頭にできる精いっぱいの恩返しなのだから。


「志穂ちゃん来た! いよいよパドック入場だよ!」


 十八頭に先行して、それぞれの馬番と馬主服がデザインされたプレートを持つ美女が現れた。さながらオリンピックの入場行進のように厳粛に、それでいて微笑みを浮かべて期待感を引き連れて、まずは十八人が等間隔に並ぶ。その直後だった。


 機関銃のごときシャッター音が一斉に放たれた。

 地下馬道を通って最初に陽の下に現れたのは、可憐な白馬のアイドルホースだ。


「ユキナだ!」

「さっすがアイドルホース! お客さんの反応がすごい!」


 歩いて一瞬足を止め、まるで一礼でもするように頭を垂れてからスランネージュは歩き出す。

 単なる偶然か、あまりに人が多すぎて怯えたのかはわからないが、スランネージュはアイドルホースらしい可愛らしさといじらしさを振り撒いている。

 遠目に目が合う。合図のつもりなのか片耳をぴくりと動かしたので、志穂も手を振った。


「来たよー。調子どうよ?」

『まずまずってトコかな⭐︎ てか私のファン多すぎ⭐︎』

「よかった、通常営業って感じね」

『そゆこと。終わったら銀色のヤツの差し入れよろしくー』


 スランネージュは気楽な調子で、志穂の眼前を歩いて回っていった。

 これまでのどのレースより客が多くても、別段緊張はしていないようだ。さすがはアイドル。競馬場でもひだまりファームでも、大勢のファンがいる環境に慣れているのだろう。

 スランネージュの心配はなさそうだ。ひと安心した志穂は続々と地下馬道から姿を現す馬に目をやる。

 次に現れたのは、三バカだ。


『おうメスガキ、この人間の数はなんだァ? たかがレース見るためにこんだけ集まるとは、テメエらも酔狂だな』

「そんだけ多くの人が期待してんだよ。アンタを含めた走りにね」

『そうかよ。ならまァせいぜい楽しませてやらァ。こっちはこっちで楽しむからな』

『くぅ〜ッ! その通りだぜバカ野郎!!!』


 レースを楽しむ余裕を見せるクリュサーオルの後ろには、感激しきりでテンションの高いシルヴァグレンツェがつけている。なんせ志穂を見つけた瞬間、天に向かって吠えるほどだ。


『久しぶりじゃねーかお前ーッ! しっかり約束守りやがったな!? なんて最高な野郎なんだ、バカ野郎ォ!』

「いいからアンタは落ち着いて歩けっての」

『なに言ってんだ、こんな最高な日に落ち着いてられるワケねえだるォ!? うおおおおおおおーン!!!』


 ある意味普段通りなのだろう、チャカついているシルヴァグレンツェの姿に、周囲の人々は苦笑を漏らしている。茜音によると「この落ち着きのなさこそシルヴァグレンツェ!」とのこと。パドックで暴れているくらいのほうが機嫌よく走るというパドック党泣かせの破天荒な馬だ。


「ほんと調子だけはいいね、アンタは……」

『あらン? てことはあなたがシホちゃんってワケねェ?』


 ひとこと告げたところで、今度はクリュサーオルの前を行く五歳牝馬の声がする。マリカアーティクだ。


「アンタが三バカのもう一頭ってトコね。マリカでいい?」

『グフフ! いいわよォ〜。アタシもシホって呼ぶわァ。ようやく会えたわねェ〜ンッ! それに……おいしそうねェ?』


 謎の寒気を感じつつ、志穂はマリカアーティクの背を見送っていく。長々と話たくとも話せない。大勢揃っていて楽しいが、周回を待たなければ会話が続かないパドックでの会話はやはりもどかしい。


「一同に集まる機会ってここくらいだからなあ……」


 いっそのこと三バカ全員を同じ外厩で預かってみようか、なんてあり得ないことを考えているうちに、クリュサーオルたちは目の前を通り過ぎていく。そしてさほど間を開けず、日本総大将が姿を現した。


 シャッターが炸裂する。

 皆がその勇姿を収めようとカメラやスマホを高く掲げる。

 アイドルホースよりも期待を集めるG1五連勝中の日本競馬界のエースは、ひと言も発さず前だけを見つめて歩いていく。


「これがディスティンクト……」


 話しかけるのも忘れて、ただその覇気に圧倒された。

 隔絶すること。

 その名の示す通りの浮世離れした存在感だ。以前スランネージュが言っていた言葉を思い出す。


 ——つい後ろ着いてっちゃうんだわ。


 あの独特の固定観念を、志穂は「カリスマ性」だと考えた。誰もがすごいと認めて一目置く才能。それが志穂にもおぼろげにわかる。

 赤褐色に染まる黒鹿毛。馬体は大きく五百キロ台中盤。体毛と薄皮一枚隔てた皮膚の奥には、縦横無尽に走る血管と練り上げられた筋肉。

 ディスティンクトはテッペンに立つ究極の馬。

 その視線に捉えられた瞬間、志穂でさえ鳥肌が立つほどだ。

 

 彼はひと言も答えず立ち去った。

 威圧するでもなく、挨拶するでもない。志穂どころか他の馬同士との雑談にも加わらず、ただ静かに歩いている。


「あれ? ディスティンクトとのイマジナリーウマトークはなし?」


 話をしてみたかった。どうして強いのかと尋ねたかった。秘訣を知ればハルも強くなれるはずなのだ。

 だけれど茜音の問いかけに志穂は首を横に振る。


「なんだか、簡単に尋ねちゃいけない気がするんだよ」


 馬における強さ。それは誰よりも速いことだ。だけどそんな物理的な強さだけでは、彼の戦績を説明することはできない。

 完成された体躯には、それを上回るほどの剛毅な精神力が宿っている。それはいかなる状況でも戦い抜く根性であり、人が勝手に負わせてくる過度な期待に応え続けてきたがゆえの信頼だ。


 本来、馬とは喋れない。

 ただし物言わぬ馬は、自らの生き様で人間に語りかけてくる。


 ——俺を、信じろと。


「……いつか強くなったら話してみたい。その時に答え合わせができたらいいな」


 バズーカみたいなレンズの照準を独り占めして、ディスティンクトは志穂の声も届かない場所へ歩いていく。

 そして直後。やはり枠運に嫌われた志穂の推しが、美しい歩様とともに現れた。


『ハルは元気?』


 開口一番、プレミエトワールは妹の安否を尋ねてくる。スランネージュ伝手には聞いているのだろう。志穂の頬はひとりでに、自慢げに綻んだ。


「どんどんたくましくなってるよ。いずれアンタも抜かしちゃうかもね」

『それでいいわ。妹をよろしく』


 返す言葉はそれだけだったが、冷たい印象はない。言葉少なでも妹への——家族にかける愛情があふれている。

 プレミエトワールに出会えてよかった。

 彼女を目標にすることができてよかった。

 潤んだ目頭を押さえて、志穂はパドックを回る十八頭の勇姿を眺める。


 二週目では、スランネージュからアンティックガールという古風な五歳牝馬のことを紹介された。なんとクリュサーオルを慕っているという年上の乙女は、どうか未来に彼との交配をと持ちかけてくるほどに入れ込んでいるらしい。


『シホ様。どうかこのわたくしアンとクリュサーオル様の間に、契りを結ばせていただけないでしょうか』

『あんなオッサンのどこがいいんだろねー』


 スランネージュの適当な放言に『アァン!?』という声が聞こえた気がするが、クリュサーオルまでの距離は遠い。幻聴だろう。


「あー、まあ……考えとく……」

『どうか、よろしくお願いいたします』


 あまりの情熱と深愛に、志穂は呆気に取られていた。さすがに交配となると叶えてあげられるかどうかは未知数だ。クリュサーオルが実績を買われて種牡馬にならないと始まらない。

 思わず「種牡馬 なり方」とネットで検索してしまったが、結果は簡単。勝てということだけだ。


 そして、志穂が密かに気にしていた六頭の外国馬だが。


「……外国馬とも喋れるのか、私の能力は……」


 馬の言葉はワールドワイドだ。バベルの塔が崩壊した人間と違って、ウマ語は世界共通言語なのだろう。話しかけると六頭すべてに驚かれたが、かける言葉は変わらない。


「みんな、がんばって!」


 もう競馬場についてしまえば、志穂にできることはない。

 誰が勝ってもいいし、負けてもいい。

 無事是名馬、ただそれだけを志穂は願いつつ、周回のたびに賑やかになっていく十八頭の様子を見守っていた。

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