第112話 俺より強い奴に会う

 令和六年十一月二十四日、日曜日。東京競馬場。

 入場制限も完全撤廃された府中のスタンドには、早朝にも関わらず多くの人々が足を運んでいた。

 皆の目的はもちろん、世界のトップホースが集結する競馬界の祭典。東京第12レースのG1ジャパンカップ。一着賞金五億円、暮れのG1有馬記念と並ぶ国内最高賞金かつ最高レーティングの舞台。

 早い話が、国内最強馬決定戦だ。


「背伸びたね、ドレスも似合ってる! メイクは……うんまあ、いいんじゃない?」

「茜音ちゃん来るならメイクしてもらえばよかった……」


 開場すぐの第一レースの時点で観客スタンドにはそこそこの人が集っていたが、斉藤萌子の遺した赤のドレスのおかげで茜音とはすぐに合流できた。

 昨晩の電話の直後「ジャパンカップ行きてえ!」情熱が抑えられなくなった茜音は、すぐさま航空券を押さえて朝イチの便で飛んできたのだ。競馬新聞の読み方すらわからない志穂にとっては、歩く馬柱こと茜音の存在がただただありがたい。メガネの奥の瞳は相変わらず焦点が定まっていなかったが。


 とりあえず馬主専用席のある七階ビュースタンドへ向かい、財前や五所川原に挨拶する。志穂の馬子にも衣装ぶりにご機嫌な財前は、ジャパンカップ表彰式で馬主会代表として登壇することになっている。ゆえに今日は五所川原を引き連れて、挨拶に歓談にと大忙しだ。


「あの財前さんに握手してもらえた! 感動ーッ!」

「なに考えてんのかわかんないけどね」


 一方の志穂も、他の来賓客から挨拶を受けることとなった。見知った顔でいえば晴翔の父、偽ロンシャンに感激した義徳だ。今日はプレミエトワールの生産者として、そしてクリュサーオルの生産者兼馬主として参加している。傍らでは、ゲストとして招待した斉藤萌子の両親もドレス姿の志穂を見て微笑んでいた。

 開口一番に、義徳は頭を抱えて煩悶しながら言う。


「どちらを応援すればいいかわからん!」

「それな!」


 これは幸せな苦悩だ。志穂もただただ頷くしかない。

 配られたレーシングプログラムに記載された十八頭の顔ぶれは、縁のある馬が多いのだ。


「ずっと追いかけてきた子がG1の舞台に立つ! これぞ競馬の醍醐味だよねー!」

「地下アイドルを追っかける人の気持ちがわかったよ……」


 志穂ですら興奮して、まだレースまでかなり時間もあるのに心臓が高鳴っている。半年間という短い期間ながらも、苦楽を共にした馬がいるのだ。あの日のことを思うと瞳の奥が焼けつくように熱くなる。

 頼んでもいないのに始まった茜音の出走馬レビューを、志穂は黙って聞いていた。何かひと言でも漏らそうものなら、別のものまであふれ出してしまいそうだったからだ。


「まずは志穂ちゃんの最推し、プレミエトワール。文句なしに三歳最強牝馬だね」


 ——プレミエトワール、三冠牝馬。

 志穂に競馬の喜びを、そしてハルにやる気を与えてくれた偉大なる一番星。彼女の強い姿に志穂はただただ励まされ、ここまでずっと導いてもらってきた。テッペンへと至る彼女の旅路はまだ終わらない。どこまでも高く上り詰めてほしいとただただ願う。


「そしてクリュサーオル。半年前の自分に言ってやりたいよね。一勝クラスの条件馬がジャパンカップ出るよって」


 ——クリュサーオル、重賞馬。

 志穂に競走馬との接し方を、そして喪失感との戦い方を教えてくれた四歳牡馬。彼はもう、頼りなく臆病で、待ち続けるモタじゃない。斉藤萌子も死んだことを悔しがるほどの、剛健たる黄金の剣士に成長した。祖父の代から続く黄金が天国まで轟いてほしい。


「あとはスランネージュ。あたしは志穂ちゃんのおかげで秋華賞同着だったのかも! って思ってるよ!」


 ——スランネージュ、G1二勝馬。

 志穂に困難に挑み続ける勇気を与えてくれた永遠の挑戦者。一番星と静かなる雪、今年のクラシックを賑わせた芦毛馬は、名実ともに競馬史に残るアイドルホースとなった。今日は脳を焼かれまくった馬主も、生産者のひだまりファームの佐々木一家も観戦にやってきている。


「……ごめん、なんかもう泣きそう」

「よーしよし」


 黙って聞いていた志穂だったが、とうとう堪えきれなくなった。馬産を続けられたのは楽しかったことはもちろんだが、その何十倍もの苦労があった。毎日の仕事に騎乗練習、学業。さらには馬のために何ができるかとない知恵を絞り、無理解な馬主とも戦ってきた。寝る間も惜しんで取り組んできたおかげで、今ここに立っている。

 茜音の胸元に収まって、どうにか涙を止めようとする。それでも、悲しくも嬉しくもない不思議な涙が、体の底から溢れて止まらない。


「涙はハルちゃんのときまで取っておかなきゃね」


 茜音の言う通りだ。ここはまだ終わりじゃない。

 いずれこの舞台で、ハルが名乗りをあげる瞬間が見たい。その隣にはレインやプリンもいて欲しい。もちろんハルが願い続けるマリーやユキナの姿も、レインが尊敬するモタの姿も。


 きっと並大抵ではない、おそらく不可能な目標だ。

 それでも志穂は見たいと夢を見る。夢の大レースに挑む、大事な家族たちの姿を。


「……ん。そうする。目標決まった」


 気付けとばかりに自身の両頬をパンパン叩いて感涙を殺し、志穂はレーシングプログラムに視線を落とした。ここから先は、もう家族にしてあげられることはない。せいぜいパドックで、「がんばれ」と声をかけることくらいだ。

 ならば競馬の一番の楽しみ方、予想に頭を切り替えていく。


「茜音ちゃんはこのジャパンカップ、どう見る?」

「よくぞ聞いてくれた! 今回はもうメインレースしか観る気ないからね!」


 そして茜音による出走馬の紹介が始まった。普段なら長ったらしく専門知識ばかりで聞き流してしまうような内容も、すとんと頭に収まっていく。自身に知識がついたこと、そしてきちんと興味が向いていることが嬉しかった。


「プレミ、ネージュ、クリュサーオルはさっき言った通り。でもやっぱ一番の注目馬はディスティンクトだね!」


 競馬サイトと競馬新聞をビュースタンドの机に広げ、茜音は興奮しきりに告げた。


 ——ディスティンクト。四歳牡馬の怪物。

 海外馬が参戦する国際競争において、海外馬を迎え撃つ日本最強馬をこう呼称する。

 日本総大将。

 この栄誉に預かれるのは最強馬のみ。現役時代から名馬の誉れを受ける者にのみ許された、絶対的な強者の証だ。競馬ファンは強い馬の激闘を見たいことと同時に、国産馬の勝利を夢に見る。そんな日本の希望を一身に背負って彼は走るのだ。

 競馬新聞の読み方がわからない志穂でも、ディスティンクトの怪物ぶりはすぐにわかった。


「なにこれ、G1勝ちまくってる……」


 ディスティンクトの馬柱には、一着が並んでいた。

 まずは昨年の皐月賞。そしてダービーにはいかず、古馬相手に天皇賞(秋)、有馬記念と三歳時に三連勝。明けて四歳は大阪杯で始動しこれを難なく勝ち切っても国内に留まり、五ヶ月もの長い休養明けから天皇賞(秋)を連覇してみせた。

 ディスティンクト、その名の由来は「あらゆるものから隔絶すること」。これ以上ないほどに名は体を表す彼は、単勝一番人気。オッズ2倍台で推されている。


「うんうん、これぞ日本総大将だよね!」

「話してみたいな、ディスティンクト……」


 間違いなく国内最強馬。そんな彼は何を思って走っているのだろう。おそらくパドックはこれまでにないほど混雑と混沌の極みだろうが、意地でも最前列で話を聞きたい。志穂は頭の中にその名を留め置く。

 「そして」と茜音が次に指差したのは、九文字を超える長い馬名だ。


「今回の目玉はこの子! Holizontal Leylineホリゾンタルレイライン!」

「名前なっが! 馬名って九文字までじゃないの!」

「海外馬はアルファベットと空白で十八文字使えるからね」


 ——ホリゾンタルレイライン。五歳牡馬。

 欧州三大レースと謳われるイギリス・アスコット競馬場の《キングジョージ六世&クイーンエリザベスステークス》、フランス・パリロンシャン競馬場の《凱旋門賞》を勝ったG1七勝馬。凱旋門賞で有終の美を飾るかと思いきや、JRAが送ったラブコールを受けて引退を撤回。日本に殴り込みをかけてきた欧州最強馬だ。

 馬名の由来は、「水平に並ぶ直線上の古代遺跡群」。意味はよくわからないがカッコいい。


「凱旋門賞馬はジャパンカップに来るだけで二億円もらえるんだよ。渡航費もJRA持ち」

「日本馬に勝ってほしいなら、なんでそんな強い馬ゲストで呼んじゃう訳よ……」

「俺より強いヤツに会いに行く! その心意気は誰にも止められないのだ!」


 最強馬同士が鎬を削る激戦。それもまた競馬の醍醐味だ。

 実際、競馬新聞も競馬サイトも、メインで扱うのはこの二頭。ディスティンクトとホリゾンタルレイライン。日本総大将と、欧州最強の刺客。


 志穂の緊張は収まるどころか、さらに早鐘を打つ。

 二大巨頭はどちらも究極の実績馬と言っていい。この二頭を相手に、志穂に縁のある三頭は善戦できるのだろうか。

 他にも、名前を知っている馬も顔を揃えているのだ。いずれも志穂が覚えているくらいの実績馬。周りは強力な好敵手揃いである。


「あとは志穂ちゃんが前に会ったっていうシルヴァグレンツェ。京都大賞典で一緒に走ってた海外帰りのマリカアーティク。エリ女勝った三歳世代のクラースナヤもいるね。それと古谷先生がバカ勝ちしたときの二着馬、アンティックガールも」

「待って待って、もう予想なんてできない!」

「それ! なのであたしはこうした!」


 悲鳴をあげた志穂にニヤリと笑って、茜音は十八枚の馬券を丁寧に並べていった。

 それは1番から18番まで、すべてに「がんばれ!」と印字された単複二百円の応援馬券。全通りの単複を買えば確実に三枚は当たるが、馬券師たる古谷先生には鼻で笑われる代物だ。

 それでもそんな馬券師の常識など知ったことかとばかりに茜音は笑う。


「当たっても換金しない。このジャパンカップはきっと、あたしの思い出になる気がするから」

「……ん! 私もそれでいく!」

「そう言うと思った!」


 茜音はすぐさま、もうひと組の応援馬券十八枚を取り出した。

 志穂のジャパンカップは、総額三千六百円の単複勝負。もちろん推しには勝ってほしいが、誰が勝っても喜べる。穴馬党、本命党。海千山千の馬券師たちなど比にならないほどの、一番よくばりな予想で、開幕の瞬間を期待と不安の中密やかに待つのだった。

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