第111話 悩めるセミスイート
上京祝賀会と題されたパーティーは終わり、志穂は客室に戻っていた。
明日着ていく斉藤萌子のドレスを祈るような思いでハンガーに掛け、だだっ広いセミスイートのベッドの上に資料を並べる。明日のジャパンカップではなく、財前から預かるセブンスワンダーについてだ。
「で、ダイナナホウシュウについてなんだけど」
志穂は茜音と電話を繋ぎながら、ふかふかのベッドにあぐらをかいて資料をつぶさに観察する。
五代血統表の浅いところには数々の名馬が居並ぶ中、母系のかなり深いところ、次代には血統表から押し出されてしまうところに志穂が気になる馬がいた。
「かなり昔の馬でね。あたしの大好きなヘロドやザテトラークの子孫! ……はともかく、なんといってもデビューから皐月賞まで無傷の十一連勝! その名は《褐色の弾丸列車》! くうーっ! 当時の語彙でつけられた異名ってシブくてカッコいいーッ!!!」
手に取った資料は茜音に送ってもらったものを印刷したものだ。令和六年の現在から七十数年前、昭和二十八年に二歳——当時の馬齢表記では三歳——のデビュー戦を逃げ切り勝利しての連戦連勝。恐ろしいのはクラシック初戦の皐月賞までに間を開けず、十一戦も戦っていることだ。
「今じゃ考えらんない過密ローテーションだね。二週続けて走るとか」
「昔は当たり前だったんだよ。調教技術も施設も今ほど発達してなかったし、むしろ調教代わりにレースに出して鍛えるような時代だったからね」
「いかにも昭和って感じだなあ」
昨今はトレセンや外厩の発達で、レースに向けて仕上げるのが普通だ。要は追い切りや併せ馬などで調教して本番に臨む訳だが、そういった調教ができないからこそレースに出して鍛えるという。ある意味では効率がいいのかもしれない。
志穂が想いを巡らせるのは、半世紀以上前に走ったダイナナホウシュウのこと。
褐色の弾丸列車なんて異名がついていながらも、写真はすべて白黒だ。彼が本当に褐色だったことを知るのは、同じ時代を生きた者だけなのだろう。
「志穂ちゃんはずいぶん大事な馬を任されたねえ」
電話口の茜音はしみじみとつぶやく。どういう訳か尋ねると、「聞いてないの?」という驚きとともに返答が返ってきた。
「セブンスワンダーは、財前さんの最後の持ち馬なんだよ」
「え? 他にもいるんじゃないの……?」
「唯一残ってた《ザイゼン》冠のザイゼンゴエモンも、こないだ引退したんだよ。ちょっとしたニュースになってたかな」
志穂は天井を仰いでいた。たしかに持ってきたタブレットで調べてみると、財前所有の現役馬はセブンスワンダーの一頭のみ。
半世紀に渡って馬主を続けるほどの馬に脳を焼かれまくった人間、それが志穂の思う財前の姿だ。そんな馬への愛情にあふれる男が、最後の一頭を女子中学生に預けようとしている。
「馬主やめる気なのかな、財前のじーちゃん……」
「ない話じゃないね。こういうことは言いたくないけど、もう八十歳超えてるみたいだし」
茜音は静かに嘆息して、冠名の歴史を紐解いた。
冠名は馬主を示すブランドだ。ただ人間と同じで、永遠に続く訳ではない。次代でも冠名を引き継ぐことはあるが、それは次代も高額な維持費を払える優秀な経営者かつ馬好きでなければならないのだ。
欧州競馬の庇護者とさえ謳われ、個人資産をつぎ込んで馬産馬主業を営んでいた英国の女王陛下ですら、次代に競馬愛を伝えることはできなかったとは茜音の言葉である。なかなかに難しい話だ。
あぐらをかいて腕組みして、志穂は頭を前後に揺らす。財前は顔や雰囲気こそ威圧的だが、いろいろと手を回してくれる上に女子中学生ホースマンに偏見を抱かない好人物だ。そんな人物から頼まれた以上、やれる限りのことはやってあげたい。
ただ、財前は「花道を飾ってやれ」と言ったのだ。それは「勝たせてやれ」でも「休ませてやれ」でもない。もう限界を迎えているから引導を渡せと、言葉は少なかったが潤んだ瞳がそう告げている気がする。
「茜音ちゃんさん。馬における有終の美ってどんなのだと——あ、やっぱいいやすごい鼻息聞こえてきた」
「じゃああたしが感動した引き際トップスリーを発表するねまずは第五位オジュウチョウサ——」
「おやすみー!」
強制的に電話を切って、ついでに電源も落としておいた。
七番目の宝ことセブンスワンダー。その血統表に残る褐色の弾丸列車ダイナナホウシュウ。唯一、《ザイゼン》冠でない最後の持ち馬。そんな大事な馬を志穂に預けて、「花道を飾れ」というひと言。
それらをぐるぐると頭の中でミキサーして財前の真意を探ろうとしても、志穂には答えなど出せなかった。
「とにかく、セブンスワンダーに会ってから考えよう。長いからスワンって呼ぶか……」
実馬の写真を見ながら、志穂は枕に頭を埋める。せっかくのセミスイート、眺望もよくふた部屋もあるホテルなのに、志穂はそのままベッドの上から動くことなく、朝を迎えていた。
明けて日曜は、とうとうジャパンカップ当日である。
*
日時は遡って三日前。木曜日のこと。
秋華賞での失敗から早めに東京競馬場入りしたスランネージュは、今回もやはり失敗した。本馬場の芝状態を確かめるべくスクーリングに訪れたスランネージュを出迎えたのは、やはり不倶戴天のあの女だったのである。
『気が合うわね、ユキナ』
『まー来てるだろうなとは思ってたよねー……』
好敵手の名は牝馬三冠馬、プレミエトワール。
ともにクラシック戦線を沸かせた二大巨頭が揃うのは偶然ではない。秋華賞前日のスクーリングでのプレミエトワールの落ち着きようを見た担当調教師の草苅が、スランネージュ担当である田端と予定を合わせることにしたためだ。
クラシック路線の激闘と、秋華賞での同着。
そんな競馬の神のイタズラに狂わされたのは馬券師たちばかりではない。いつの間にかプレミエトワールまで海賊版ウマ娘が作られ、スランネージュの海賊版とともに、その生い立ちや関係性を好き勝手に脚色しまくった同人誌まで頒布されているほどだ。実際のふたりの関係とは真逆の、仲良しこよしなアレである。
ちなみに二頭の絡みは星雪と隠語めいた略称で呼ばれている。それだけで内容は察して余りあるほどだ。
『そう言えば、貴女は聞いたことがある? 月毛の悪魔』
ダービー、オークスと同じ東京芝二千四百、ジャパンカップの舞台。左回りのルートを並んで歩いていると、傍らのプレミエトワールが栗東に流れる噂に触れた。
『こっちでも噂になってるよ。どうせシホちゃんのしわざでしょ』
『そうね。他に考えられないから』
おざなりに答えるスランネージュのいる美浦でも、まったく同じ噂が流れている。月毛の悪魔の許しを乞うには、馬と話せる人間を頼るしかない。ただそんな人間はひとりしかいないのだ。
『君もイジメたクチ? 代わりに謝っといてあげよっか⭐︎』
『必要ないわ。シホには会って尋ねたいけれど』
『妹ちゃんのこと?』
『他にある?』
自身のレースの心配をよそに、プレミエトワールは登ってくると信じてやまない妹のことを考えていた。他人のことを考える暇があるならレースに集中しろよとスランネージュは呆れたが、彼女もまたそのあたりの切り替えは上手い。
『ずいぶん余裕っぽいけど、今回はそう簡単に勝てないと思うよ』
『わかっているわ、感じるもの。妙な覇気がある』
ゆっくり一、二コーナーを回って向正面。ちょうど東京競馬場に併設された国際厩舎の方向に、プレミエトワールは聞き耳を立てていた。
国際競争、ジャパンカップ。今回は六頭の海外馬が、極東の島国まで遠征にやってきている。
欧州と日本では馬場がまるで合わない、競技が違うとさえ言われる世界だ。自然を活かした欧州のタフなコースが日本馬を跳ね除けるように、日本の整備された超高速馬場もまた欧州馬を跳ね除ける。どちらかに特化しなければ生きていけない世界で、両立するのは至難の業だ。
だが、それを成そうとする者がいる。
『……ひとり、別格のバケモノがいる』
『私からしたらキミもバケモノだよ……』
プレミエトワールはただ一頭を警戒していたが、スランネージュにとっては今さらだ。どこへ逃げたってバケモノと走ることになるのなら、どこへ逃げたって同じである。
『君でも臆病風を吹かせるようなことあるんだね? 負けちゃうかもって気分はどうよ? 最悪でしょ⭐︎』
『……いいえ、最高よ。とても嬉しいの』
『はあ……?』
プレミエトワールは何事もなくつぶやく。
『強い者と戦える。それ以上に幸せなことなどないでしょう?』
臆病風が吹くのはスランネージュだけだ。
そしてそれは、怪物がさらなる羽化を遂げようとする瞬間に他ならない。
スランネージュは改めて、格の違いを実感する。相手がなんだろうと闘争心をむき出しにする、走るために生まれてきたのかとさえ疑うほどのバケモノだ。
『君さあ、私相手だからいいけど、あんま他の馬に挑発じみたことしないようにね。耐性ないと潰れちゃうから』
『挑発しているつもりはないわ。仲良くしたいだけよ、お隣に住んでる子とも』
『四六時中、君の隣にいるとかまるでイジメだわ……』
『はっ。もしかして私が、月毛の悪魔なのでは……?』
そんな訳がないことをプレミエトワールはつぶやきながら、コースを回る。
勝負の瞬間は迫っている。日に日に強まる正体不明の覇気をスランネージュも感じながら、レースの朝を迎えるのだった。
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