第92話 魔除けの黄金の蹄鉄

「おお、君が加賀屋志穂ちゃんか!」


 馬産をナメるな。そう怒られるとばかり思っていた志穂は、厩舎主任・高瀬のにこやかな笑顔に迎えられてほっと胸を撫で下ろした。周りに数名居る厩務員たちも一様に微笑んでいたので、少なくともシメられる心配はないだろう。

 それに高瀬は、志穂も知る人物の名前を挙げてきた。


「大村さんの弟子だと記事に書いてあったが、あれは本当かい?」

「大村のじいちゃん知ってるの?」

「この業界で知らない者はいないよ。いい師匠に恵まれたなあ」


 やはり馬産業界は狭い。なにより、大村はやはり名の通ったベテランだった。話を聞くに「仏の大村」で通っているという彼を師匠にもてたことが志穂は誇らしい。

 そこから本当に中学二年生なのか、牧場長なのか。牧場の設備はどうか、早生まれのコントレイル産駒——こんな情報まで入っているあたりに注目度の高さを実感する——のことや、他の管理馬について簡単に受け答えすると、高瀬たちは目を丸くしていた。


「あれ? なんか変なこと言った?」

「いや、ますます中学生とは思えないしっかりした受け答えだと思ってね」

「それはよく言われる」


 思わず苦笑してしまう志穂に、周りの厩務員たちも合わせて笑っていた。

 相手は超一流牧場の厩務員たちで緊張してはいたものの、彼らもまたホースマン。優秀な彼らに仲間だと認めてもらえたことが、嬉しくも恥ずかしくもあって、しばらく馬のあるある話で盛り上がる。

 敵意や最後通牒を突きつけられる訳でもなさそうだと肩の力を抜いた志穂に、高瀬は渋い顔をした。


「だが聞くに、牧場の設備が心許ないな」

「それ。おかげで知らん馬主にナメられててさ」

「零細牧場の足元を見て、素質馬を買い叩く馬主もいるからな。君が連れてきたあの新人馬主がそうか?」

「五所川原さんは変人だけど悪い人じゃないよ。プリンを競り落とす気だし、ウチの牧場見て感動してたから」

「ふむ……」


 高瀬は周りの厩務員と何やら話し込み始めた。聞き耳を立ててもよくわからない内容だったので、志穂は許可をもらって近くの管理馬を見に行く。


 ここ空港牧場は北海道の玄関口、新千歳空港に近いという地の利を生かし、主に二つの役割がある。

 ひとつは現在進行中のオークション会場。

 そしてもうひとつが、系列牧場出身の有力馬の放牧や調整を行う、外厩としての機能だ。

 馬名が書かれたホワイトボードをひとつひとつ確認していると、見覚えのある名前を見つけた。


 《シルヴァグレンツェ》。

 去年のダービー馬で、前走の京都大賞典の勝ち馬。二着は志穂の親分ことクリュサーオルだ。

 目があった途端、馬房で寝転んでいた彼は飛び起きて近寄ってきた。


『お、おい! お前もしかして例のメスガキか!? 俺らの言葉分かるんだろ!?』

「モタが喋ったのか……」

『最高だ! やっぱり約束守りやがったか! くーっ! さすがは俺の親友だぜ、バカ野郎ッ!』

「話が見えないんだけど?」

『おいおい、バカ野郎が言ったんだぜ? 前のレースで勝ったらシホってメスガキに会わせてやるってよ!』


 あのバカ、余計なことを。今度こそケツの穴に手を突っ込んで体温を測ると決意を新たにした志穂に、シルヴァグレンツェは感激したように踊りながら言う。


『なあおい、頼みがあんだ聞いてくれ!』

「簡単なことくらいしか聞けないよ。私も時間ないからさ」

『ちんこがかゆいんだ! かいてくれ!』


 志穂はただただ肩を落とした。


「却下」

『なんでだよ!? どうせ人間は俺らの全身まさぐるんだからいいだるォ!?』

「厩務員に伝えとく。それ以外の場所ならいくらでもかいてあげる」

『じゃあケツでいい! あ、その前にうんこ』

「ちんこだのうんこだのこいつはよぉ……」


 小学生男子みたいなシルヴァグレンツェは、女子中学生相手だろうとお構いなしだった。どさどさと寝藁に音を立てて落ちるボロを横目に、志穂は言われた通り後肢あたりを重点的にかいてあげた。

 もちろん、ボロ自体は志穂ももう慣れたものだ。健康管理のために毎朝観察している。ただ、いちいち口に出さなくともいいだろとは小言のひとつも言いたくなる。


『あー、そこだ……! やっぱ言葉が通じるってのはラクだな。他の人間相手じゃこうはいかねえ。あんがとよ!』

「はいはい」

『お、そうだ。あのオナバカ野郎とは次のレースで会えんのか? 親友としちゃァ、一緒に走りてえよなあ!』

「モタの次走は……そういや今週末だっけ」


 次走は、今度こその重賞制覇をかけてのアルゼンチン共和国杯。夢みたいな目標である凱旋門賞に挑むためのG1ジャパンカップに挑むためのレース。クリュサーオルを待ち受ける関門は数多いが、羽柴は「勝てます!」の一点張りだ。

 『なんであいつだけ走ってんだ!?』とご立腹のシルヴァグレンツェに収得賞金の仕組みを説明しようと思ったが、男子小学生メンタルではどう言っても理解できなさそうなので、かい摘んで告げる。


「モタは次のレースに出ようとがんばってんの。アンタも出る予定のジャパンカップって大レースのためにね」

「へへ、そりゃ嬉しいな! 妙な場所から帰ってきたとかいう例の女もいんのか? アイツも俺らの親友なんだぜ!」


 念のためスマホで前走の出走馬を検索した。妙な場所が香港やドバイを指すなら、《マリカアーティク》のことだろう。どうやらあのレースで三着までに入った三頭は、その言葉通りに馬が合うらしい。

 羽柴の言葉を思い出す。今年のジャパンカップは史上稀に見る有力馬の競演。まさしく夢の舞台だ。茜音も古谷先生も楽しみにしているし、志穂の推しプレミエトワールも射程に収めている。間違いなく今年最大の熱戦になるだろう。


「三バカ揃って出られたらいいね。アンタもがんばんな。応援してあげるから」

『お前ッ、なんていいヤツなんだ〜ッ!!! 友達の友達は友達だから、お前も俺の親友だぜバカ野郎ッ!!!』

「調子いいなあこいつ……」


 撫でていると、厩務員が呼びに来たので志穂は馬房をあとにする。幸運にも相手は女性だったのでシルヴァグレンツェのかゆいところを密かに耳打ちすると、彼女は一瞬固まっていた。

 伝えるだけは伝えた。あとはもう知らない。


 高瀬の元に戻ると、それまでにはなかった段ボール箱が積まれていた。そればかりか志穂も使い途を知らない道具も束になってまとめられている。


「志穂ちゃん。これは廃棄する予定だから、お古でよかったら持って帰ってくれ」

「え? いいの!? タダ!?」

「こんなものでおカネを取ったら場長にドヤされるよ」


 志穂はすぐさま段ボールに飛びついた。中身はさまざまなサイズの蹄鉄や馬銜、鞍や鐙といった馬具のほか、何かと使いでのありそうな鉄製支柱やクッションがぎゅうぎゅう詰めになっている。新品で買い揃えたら、確実に十万円は超えるだろう。

 洞爺温泉牧場からもあまり物は貰っていたが、さすがに超一流の大牧場ともなるとその量もとんでもない。五所川原のプリウスにはまず載り切らないだろう。

 しかもお土産はそれだけではない。


「それと、場長からプレゼントだ」


 手渡された小箱を開けてみると、純金製らしい蹄鉄型の徽章きしょうが入っていた。徽章とは、主にスーツやドレスの胸元、ボタンホールに留めるアクセサリー。指で摘んでしげしげと眺めていると、高瀬が告げる。


「それはうちのグループで、優秀なホースマンに贈られる証。金の蹄鉄だ」

「ありがたいけど、つける機会なさそうだね」

「いや、役に立つさ。なんせたいていの馬主は、金の蹄鉄の重みを知っている。うちがお墨付きを与えたと分かればナメられることもなくなるだろう」


 こんな小さな徽章でも、超一流牧場の威光ですこやかファームを守ってくれる魔除けのアクセサリーらしい。正装として小綺麗な私服で来た志穂は、襟元のボタンホールに金の蹄鉄を取り付けた。


「こんな感じ?」

「ああ、それでいい。これで加賀屋志穂さん、君も一人前のホースマンだ」


 ただのなんてことない一言なのに、志穂の全身には鳥肌が立った。

 馬産家としての自信はまるでなかった。大村からはまだ学ぶことばかりで、翠には借金もある。晴翔ほど騎乗もこなせないし、茜音のように広範な知識がある訳でもない。ただ場あたり的に、ひたすら馬産に取り組んできただけだ。

 そんなこれまでの苦労を、超一流牧場の人々が認めてくれている。


「いやあ、なんか照れるね……」


 どう気持ちを言葉にしたものか迷った志穂は、適当に笑っておく。努力が認められた嬉しさと喜びを、子どもらしい照れで覆って、首元で輝く金の蹄鉄に触れた。

 志穂の反応に満足したのか、高瀬はにこやかに告げる。


「中学を卒業した後の進路は決まっているかい?」

「まだ何にも。まあ、高校くらいは行っときたいかな」

「ならその後だ。もしもっと広範に馬産を学びたいなら、うちの系列に働きにくるといい。ここで学んだ経験はご実家でも大いに役立つはずだ」


 周囲の厩務員たちも、うんうんと頷いていた。どうやらスカウトされている。

 稀に見る好待遇に少し悩んだものの、志穂の答えは決まっていた。


「いろいろ用意してくれてありがと。でも私、あの牧場で頑張ってみたい。家族ももっと増えるだろうから、世話する人間がいないとね」


 高瀬たちは笑っていた。


「それでこそ一人前のホースマンだ。これからはお互いに頑張ろう。良きライバルとして」

「うん」


 そして全員と固い握手をする。

 ホースマンは皆、馬のことを第一に考えている気持ちのいい連中だ。一人前のお墨付きは貰ったものの、志穂にはまだまだやることがたくさんある。

 いつか、この牧場や洞爺温泉牧場のスタッフたちと肩を並べられる存在になれたらいい。

 そう胸に秘めて、白熱するオークション会場へ戻っていった。

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