第90話 その馬貰い受ける!
一週間後。
すこやかファームの来客用駐車場にはフェラーリ——ではなく、プリウスが停まっていた。レンタカーなのは相変わらずだが、運転してきたのは五所川原。「静かにしろ」という言いつけをしっかり守ったようで、「考えうる限り最も静かな車で迎えに来たぞ!」と上機嫌に大声で叫んでいた。
もうこのやかましさは直らないのだろう。志穂は呆れつつ、助手席に乗り込んだ。
「志穂君、ありがとう! 誇り高きホースマンとともにセールに参加できるとは光栄だ!」
走り出した車の行き先は、洞爺から二時間。新千歳空港近くに存在する巨大牧場。
志穂は単身、五所川原の送迎で会場へ向かっている。
「あの親父、よくひとり娘をよく知らん男に預けられるよね……」
ただ、志穂は心中複雑だ。
大村や晴翔の父親なら身元も知れているし間違いも起こさないだろうが、五所川原は先週知り合ったばかりで、今日は会うのが二回目である。たしかに熱意に誠意にあふれた善人かもしれないが、そこはそれ。
なので「オオカミに気をつけろよ」のひと言くらいはあると思っていたが、結果はまったくの無反応だ。のんきに手を振って「勉強してこい!」で終わりである。放任主義ここに極まれりだ。
「どうやら私はお父上の信頼が厚いようだ! 安心したまえ、私には心に決めた想い人がいる! 彼女の代わりは誰にも務まらん!」
「むしろ誰が務めたがんの?」
「ハハハハ! 言い得て妙だ! 志穂君、私のタブレットで適当に音楽をかけてくれ! ドライブに音楽は欠かせないぞ! 音楽はいい、偉大な力を秘めている! あらゆるところに染み込んで余白を埋めてくれるのだ!!!」
「余白がないヤツが言うな!」
五所川原のタブレットに入ったサブスクアプリを検索して再生、カーステレオが爆音のファンファーレを奏で始めた。G1ファンファーレにも似て荘厳。期待感を煽る音色だが、この後に美少女のセリフが入る。
「おお!? この曲はなんだね志穂君!? 『うまぴょい』と連呼しているが、『うまぴょい』とは何を指しているんだ!?」
「知らん」
「そうか! 心で感じろということだな! 深いぞ、そしてノリがいい! 精神を昂らせる名曲だ! さすがは一流のホースマン、選曲のセンスすら馬主の気持ちを心得ている!!!」
「愛馬を探しに行くんでしょ」
「その通り! 俺の愛バが!!! ふふんふふんふふふ〜ん。フッフー!!!」
志穂は選曲を間違えた。余白のない楽曲を、余白のない男に聞かせると、それはもう余白など埋め尽くされてしまうのである。車内は『うまぴょい』のコールアンドレスポンスであふれ、いたく気に入った五所川原は何度となくリピートを迫っていた。
音楽の力はたしかに偉大である。
最初は呆れていた志穂だったが、だんだん楽しく——あるいは頭がおかしく——なってきて、ふたり揃って車内で名曲を叫び上げていたのだった。
*
「うわ、ホントにでっか……」
「ああ、これが一流。いや、超一流の牧場というところか……」
車を降りた志穂と五所川原は、来たものすべてを飲み込むがごとき威光に圧倒されていた。
広大な放牧地、ずらりと居並ぶ厩舎。そして訪問者を待ち受ける美麗な門庭は、もはや牧場というよりテーマパーク。しかもこれだけの規模を誇りながらも、志穂が訪ねたのは
日本の馬産を語る上では絶対に欠かせない一大グループ。
この会社に台頭するものは、もはや国内にはいまい。それほどの超一流牧場だ。
「こんなん見たら自信なくすわ……」
すこやかファームは元より、ある意味グループ企業である洞爺温泉牧場すらも比較にならない。
偽ロンシャンで見栄えもするようになったが、そんな努力すら水泡に帰す圧倒的なライバルの存在に、志穂は大きく肩を落とす。
「なにを落ち込むことがある? 君も懸命に馬を育てているではないか。そこには優劣も貴賎もない。しかと自身を誇りたまえ」
「アンタ無敵か……?」
自己肯定感が高すぎる五所川原の言葉だが、それもまた事実だ。
幸せな馬を育てるには、人もまた現状を受け止めて、幸せであるように努めないといけない。
「ま、そういうことにしとく。ハッピーでなきゃね」
「そうとも! では行くぞ!」
そしてホースパーク内の広場に足を踏み入れた。
受付を済ませゲートをくぐると、ちょっとした市民会館のような建物が立っている。今日のセールの会場だ。ドレスコードでもあるのかと思うほど身なりの整った馬主たちでひしめく広場には飲食店の出店が並び、ちょっとしたお祭りのような様相。さらには高級外車や別荘を販売するブースまである。馬主という人種がどれほどポケットに札束を唸らせているか想像すると頭が痛い。
オークション会場の中の絢爛さに、志穂はまた頭が痛んだ。
そこは、古代ギリシャの円形劇場のようなすり鉢状だ。馬が通るであろう中央部分には土が盛られていて、眼下の馬を、そして会場全体を見渡せそうな一際高い座席に正装した男性が座っている。目が合って会釈すると、彼は小さな木槌を持って手を振ってくれた。セールを取り仕切るオークショニアなのだろう。
「うむ、さすがは超一流だ。志穂君にも大きな学びの機会になりそうだな!」
「情報が多すぎて混乱してる」
「そうか! 私はすでに緊張している! 吐きそうだ!!! 行ってくる!!!」
五所川原と別れ、志穂は自分の席についた。まだオークション開場前。人もまばらな会場の末席で、周囲を見渡す。すり鉢状の馬のお立ち台までは距離がある。これでは馬の声を聞くことはできないだろう。
本日開催のセリは、ミックスセールだ。
当歳馬なら当歳馬のみ、繁殖牝馬なら繁殖牝馬のみで区別されるものとは違い、当歳馬から一歳馬、そして繁殖牝馬までが一同に会する福袋のようなオークションである。福袋といってもそこは一流牧場。売れ残りの寄せ集めであろうとも一線級だ。
血統表と近親が記された百五十頭あまりの資料に目を通していると、オークショニアの挨拶と拍手をもっていよいよセールが始まった。
「アイツまだトイレこもってるし!」
五所川原を呼びに行く気もない志穂は、オークションの行方を見ながらメモを走らせる。
オンラインで行われるオークションと違い、セリはまさに昔ながらのオークションだ。
すり鉢状のお立ち台に馬を立たせ、買いたい者が手を挙げる。するとオークショニアがそれ以上の入札額を誘うように価格を連呼する。たとえばこんな風に。
「三千まーん、三千まーん、三千万。正面の方、ビッド入りました。三千百まーん、三千百まーん……三千二百万入りました。三千二百まーん、三千二百まーん」
妙なイントネーションのオークションに笑ってしまったのは最初だけ。志穂はすぐにセリの激しい応酬を思い知ることになる。
会場の最後方、末席は場内が見渡せるポイントだ。ここからだと、落札しようと札束を唸らせる馬主たちの戦いがよく見える。右側前方の馬主が手を挙げると、今度は左側の馬主が手を挙げる。そこに第三者の馬主も参戦し、値段は釣り上がる。
「七千八百まーん七千八百万。右側の方ビッド入りました、八千まーん」
「うへぇ……」
志穂は変な声しか出せなかった。現在の価格に比べれば、当初の三千万はお安く思える。だがよく考えれば三千万円なんてとんでもない大金だ。そもそも一回の入札で積まれる金額が百万円単位である。それだけあれば、クリスとハルの一ヶ月分の食費ばかりか、すこやかファームにもうひとつコースを作れる。
金持ちの世界の、札束の殴り合い。しがない庶民、まあまあ高めなお小遣い月五千円の志穂には想像もつかない世界だ。
「すまない、志穂君! 遅れてしまった! どうなっている!?」
「一頭目からすごい金額になりそう。さすがに手も足も出ないんじゃない?」
「ふむ、多くの馬主が競っている。それだけ優れた馬ということか!」
「それ。資料見るとこの子、去年のダービー勝ったシルヴァグレンツェの弟——」
出品馬の事情を説明するより早く、五所川原は立ち上がって叫んでいた。
「横から失礼! この戦いに名乗りを上げさせてもらおう! 178番、我が名は五所川原慎二! その馬、一億円で貰い受ける!!!」
会場の空気が一瞬で凍りついた。長い沈黙を破るように、くすくすと笑い声が漏れ出し、まるで何事もなかったようにオークションは再開された。値段は九千万からいよいよ大台に向かっているが、五所川原は自分の金額が無視されたことに立腹していた。
「志穂君これはどういうことだね!? 新人馬主への洗礼か!?」
「恥ずかしいから話しかけんな……!」
「何故だ! 高い金額を告げたのだぞ!? これこそオークションだろう!」
「とりあえず黙って観察してて! いい感じの馬見つけておいたから!」
「本当か!? さすがは志穂君! それでいつ——」
言いかけた五所川原の隣に、オークションスタッフがにこやかな笑顔で立っていた。そして恭しく手を出口の方向へ差し向けている。「出ていけ」という無言の合図だろう。
「誠意見せるときがきたね」
「ああ、見ていたまえ志穂君! これが私の戦い方だ!!!」
五所川原の土下座外交が再び炸裂したのは言うまでもない。甲斐あってどうにか出禁だけは回避したものの、先が思いやられるセールデビューになってしまった。
せめて目をつけた馬の出品時までは、妙な動きを見せないようキツく叱っておこうと志穂は思う。
「……それで志穂君。君が目をつけた馬というのは?」
「こないだ言ってたでしょ、ワケアリでもいいって。ちょうど売れ残ってる二歳馬がいるみたいなんだよね」
「売れ残りか? それは一流なのかね? 私に相応しい馬なのか?」
少なくとも、オークションを出禁になりかける人間と比べたら、どんな駄馬だろうが一流だ。
なにより、どうせ面倒をみることになるのは志穂なのである。五所川原は、馬を買うことにしか考えが及んでいないのだ。その後、厩舎に入厩するまでの間、預託する牧場が必要だなんてまるで思いもよらないだろう。
それにこの売れ残りの二歳馬だけは、志穂がその能力をいかんなく発揮できるのだ。
「この子だけは事前に会えるんだって。近くで見たらなんか感じるかもよ?」
「そういうものだろうか。志穂君が言うなら、面通しを願ってみよう」
釈然としない様子の五所川原だったが、志穂に敬意は払っているのだろう。納得して防疫と注意事項を受けた上で、ふたりは売れ残りの二歳馬の元へ向かうのだった。
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