第66話 彼女が隠した裏の顔
洞爺温泉牧場外厩の馬房数は五つ。各馬房にはそれぞれ外扉があって、そこを開くと専用の放牧地へ出られるようになっている。
外厩にやってきた馬をバカンスを楽しむ宿泊客とすれば、放牧地はいわばプライベートビーチ。さながらホタテ貝の模様のように放牧地を扇形に柵で区切るのは、馬同士の衝突を防ぐため。
『オイそこの白いの! オレ様の子分を勝手に使ってんじゃねェ!』
『やでーす。シホは私のファンなのでこき使いまーす』
物理的な衝突は防げても、しっかり衝突はしていた。柵なんてあっても何の意味もないと、志穂は汗だくになりながらスランネージュの太もも周りを揉み込んでいたのだった。
季節は八月上旬。冷涼なはずの洞爺でも、気温は三十五度近い猛暑日だ。
「北海道の夏がこんな暑いなんて聞いてなかった……あっぢい……」
『シホさん、平気ですか……』
「ちょっと幻覚見えるけど大丈夫……」
『大丈夫じゃないですよそれ!?』
耳を絞って慌てているレインは、同厩舎の親分だったクリュサーオルと仲がいいこともあってふたりまとめて同じ放牧地。その柵越しには、やる気なく寝転んだスランネージュがいた。志穂に持ってこさせたお気に入りのクッションを枕に、のんきにあくびをかましている。
『やる気なさすぎだろ、テメェ……』
『でも私強いしー。シホ、私の強さ教えてやってよ、そこのオッサンに』
『ハン! どうせ大したことねェだろ。メスガキ、どっちがスゲエんだ?』
「比べようがないっての……」
かたやクラシック牝馬路線、かたや古馬路線。性別も年齢も違うのだから比べようがない。収得賞金でいえばクリュサーオルの2900万に対して1億円越えのスランネージュに分があるが、こんなものはただの数字だ。
どちらがすごいか比べる方法は。
考えたところで志穂は閃いた。ふたりとも競走馬なのだ。
「あ、そうだ。ふたりでレースしてみたらいいんじゃね?」
『そいつァいい! 行くぞ白いの!』
『やでーす』
『ああァッ!? テんメェーッ!!!』
『お、親分落ち着いてください〜っ……!』
闘志むき出しで、放牧中も熱心に走り込む古馬とは対局の、ぐうたらな三歳牝馬。ふたりの言い合いは、一方的につっかかっているような有様だった。
とはいえ、スランネージュだけにかまけている訳にもいかない。だらだらこぼれる汗を拭って、志穂はマッサージの終わり代わりに背中をポンと軽く。他にも仕事があるのだ。
「はい、終わり。レイン、リハビリするよ。ハルも待ってるから」
途中で辞められて不満たらたらなスランネージュの一方、レインは元気よく返事をする。撫でてあげると幸せそうに頭を寄せてくるのが可愛らしい。ずっとこうしていたくなるほどだ。
レインの身に起きた事態を教えたからか、『子分の面倒を見るのも親分の勤めだ』とクリュサーオルもリハビリに付き合ってくれることになった。馬同士で文字通りウマが合うのは志穂としても喜ばしい。
「ネージュもどう? ただ歩くだけだけど」
『そういうのいいんだってば。てかキミはどうしてそこまでして走りたいかな。走りすぎて病気になっちゃったんでしょ?』
『え、ええと……』
『シホに気に入られたいからとかだったりして。だったら笑っちゃう』
腹を探る、少しイジワルな問いかけに、レインは耳を伏せていた。仮にもリハビリの途中で、人見知りで馬見知りなレインにかけていい言葉じゃない。
「レイン、答えなくていいよ。アンタが走るのは私が走ってほしいから。ぜんぶ私のエゴ。クソ生意気な加賀屋志穂に命令されて走ってる。以上」
『い、いえ……。違います……!』
だが、レインは負けじと芦毛の馬体を見定める。スランネージュ相手でも、怯まずしっかりと告げた。それはあの頃から変わらない、彼の夢。彼の走る目的だ。
『ぼくは……見てるみんなに褒めてもらえるような走りがしたいんです。だから、治療もがんばりたい……』
『褒められるためだけに走ってるの?』
『はい……』
『つまんね』
強烈な嫌味をかまして、謝りもせずスランネージュはゴロリと寝転んでいた。そして興味を失ってしまったかのように、そこから何も声は聞こえてこない。
「アンタね……」
『おやすみなさーい☆』
このままでいい訳がない。走る気力もなければ、懸命に努力しているレインをあざ笑うようなヤツはたとえ馬であっても腹立たしい。
それでも、担当の田端厩舎からはただ放牧して休ませるように言われている。だったら下手に手を貸さず、自然に任せた方がいい。たとえ悪態まみれでもだ。
「うし、切り替えてこ。リハビリがんばるぞー!」
『はいっ!』
いい返事のレインとクリュサーオルを連れて、志穂は調整用の芝コースへ向かう。
ひとり放牧地に残されたスランネージュは、その背をじっと見つめていた。
『褒められるだけじゃ意味ないんだよ。そんなんじゃ誰も救えないんだから』
*
そして夏の暑さにも負けず、レインのリハビリが始まった。
志穂はいつものようにハルと息を合わせ、常足で芝コースを歩かせる。その横にぴったりつくのがレインだ。クリュサーオルは様子を見守るかに思えたが、羽柴からの調教メニューをこなしていた。あまりに手が足りないので、騎乗は晴翔に頼んでいる。
『モタおじさんかっくいー! ねーねーシホ、ボクも——』
「ダメ。リハビリと乗馬の訓練が先」
『え〜? せっかくおじさん帰って来たんだよ!? 前より速くなったって自慢したい!』
「こら暴れんなって——ぎゃあああ!?」
ご機嫌ナナメで暴れかけたハルの背に、志穂は必死でしがみつく。聞き分けがいいようでしっかり我を通そうとするあたりは、クリスのマイペースさを違う形で受け継いだのだろう。
『ぼくも親分みたいに走りたいなぁ……』
『わかるー! ねえちょっとだけならいいでしょ!? シホ!』
「あーとーでー!」
『がっかり……』
いじけて内ラチ沿いをゆっくり歩く志穂達を尻目に、コースの外側を何度となくクリュサーオルが抜いていく。よく考えたらリハビリの最中に快調にすっ飛ばしているせいだ。
「調子いいからってあんま見せつけるような走りすんなよー!」
『ゲハハッ! とっとと追いついてこいよ、子分どもがァ!』
『ハッ!? いまモタおじさんが追いつけって言った! よーし!』
「だからダメだっつって——」
もはやロデオマシーンじみた暴れるハルの上でバランスをとっていると、遠くの放牧地に芦毛馬の姿が見えた。こちらの様子を伺うように、立って耳をそばだてている。あんな態度をとってはいたが、どうやら気にはなるらしい。
「ねえハル、お姉ちゃんと一緒に走った子に興味ある?」
『え!? お姉ちゃんのこと知ってるの!? 聞きたい!』
「じゃ、あとで挨拶行こっか。ヘンなこと言われなきゃいいけど……」
ちらりとスランネージュの様子を伺うと、またクッションを枕に横になっていた。興味があるのかないのかわからない。言葉が通じても考えていることまでは読み解けないのだ。
スランネージュはヘンな馬だが、謎も多い。
自分をアイドルだと理解しているし、人間をファンだと思い込んでいる。遺伝のひとことで片付けるのは志穂自身どうもしっくりこなかった。なぜなら彼女は競争で手を抜けるくらいには賢い馬だ。そんな馬が根拠もなく、自分をアイドルだと思い込むようには思えない。
何か理由があるのかもしれない。
「調べてみっか」
独りごちて、志穂は少しスマホで調べ物をする。
スランネージュについてわかっていることは、アイドルホースであること。それ以外の情報を仕入れようと探ったところで、彼女の身に——正しくは、家族や友人達、そして牧場のせちがらい事情を知ることになる。
「……もしかして理解してんのかな。自分の活躍で救われてる命があるってこと」
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