第53話 正しいお金の使い途
七月中旬。
マニーレイン戦争をどうにか終えた志穂を待っていたのは、激動の三週間だった。
「どうにか、戦い抜いた……」
転がり落ちたシャーペンを追うこともなく、志穂は教室の机に突っ伏した。そのまま深い眠りに落ちかける頭を起こして、志穂はソンビのように重い体で帰り支度を整える。
今回の敵は、ヘタをすればクラブよりも強敵の期末テスト。
ラスボスは、暗記がモノを言う社会科だった。
この三週間、志穂は中学生としても馬産家としてもとことん働きづめていた。
まず第一に夏休み前の期末テストだ。元々得意だった理系科目は大して勉強せずともついていけたが、暗記科目が壊滅的。なんせ記憶のリソースほぼすべてを馬産に費やしているため、江戸幕府の歴代将軍など頭に入る余地もない。とはいえ学問を疎かにすると父親ではなく叔母のみくるにドヤされるので、馬産の合間合間で必死に叩き込んでいた。
次に嬉しい知らせでもあるのがクリスのこと。なんとクリスは無事に三番仔を身ごもったのだ。獣医師の坂本に確認してもらったとたん志穂もハルも喜び勇んで駆け回ったが、すぐ我に返って憂鬱になった。妊婦の世話をするプレッシャーと種付け料だ。翠に頭を下げて、夏休み中のアルバイトと引き換えに知恵と資金は貸してもらえることになった。ちなみにカネの出どころは、クリュサーオルが勝ち取った本賞金。オレ様にはますます頭が上がらない。
そして何より忙しかったのが、戦争の事後処理である。
『シホさん、すごく疲れてませんか……?』
「燃え尽きたからね……真っ白に……」
外厩の担当馬、マニーレインの馬房掃除を終えたところで、とうとう志穂は力尽きた。心配して膝を折って身を寄せるマニーレインの馬体に体を委ねると、すぐに睡魔に襲われる。馬体はちょうどいいふかふかさと温かさだ。
「もうだめ……おやすみ……」
『えっ、えっ……! 寝たらぼく動けませんよ……? 潰しちゃったらどうするんですか……!?』
「すやあ」
馬体を背もたれ代わりにして、志穂は眠りに落ちていた。
あの騒動で、マニーレインの馬主クラブである《ファイトマネーレーシングクラブ》は、火消しに追われることとなった。
しかし、対応は杜撰のひと言。騒動二日後に出した公式回答は火に油を注ぐ不誠実極まるものであり、会長が引責辞任することで幕引きを図ろうとした。
だが蓋を開けてみれば、会長の肩書きがエグゼクティブプロデューサーという謎の役職に代わっただけ。この結果に三度の炎上、今やクラブは消し炭だ。
その余波は、マニーレインにも当然波及する。
「志穂ちゃん、馬房で寝ると危ないぞー」
「ん……。ごめん、寝てた……」
『よ、よかった……起きてくれました……』
大村は呆れたように笑っていたが、志穂の激務は当然知っていた。それゆえ注意するよりは労うように、志穂の代わりに馬房に真新しい寝藁を敷いていく。
「入札はもう始まってるよ。見なくていいのかい?」
「そうだった忘れてた!」
志穂はすぐさまオークションサイトを表示して、出品されている馬名を目で追う。はたしてそこに、マニーレインの名前があった。
あの騒動の直後、クラブは今回の火種であるマニーレインの未出走引退をとうとう決意した。想定以上にイメージが悪化し実入りが減ったため、とっとと資産を現金化したかったのだろうとは翠の談である。
よって、マニーレインは中央競馬からの登録を抹消。未出走、獲得賞金ゼロ万円の引退馬としてサラオクにかけられることとなった。
「いくら用意したんだい?」
「クソ親父に頭下げて十万。モタの馬券の残りが四十万。足りると思う?」
「相手次第だが、足りなかったら言いなさい。モタで大勝ちしたのは志穂ちゃんだけじゃないからね」
大村はニヤリと笑った。彼もまた、例の百八十万を当てている。二百万ちょっとあればきっと足りるだろう。そう願って、志穂は販売価格二十万円のところへ最初の入札をした。
「待ってなよ、レイン。約束した通り、走らせてあげるからさ」
『ええと、いま何を……?』
「人身売買みたいなモン?」
スマホに映ったオークションサイトを、志穂と大村、そしてオークションにかけられている張本人のマニーレインが覗き込んでいる。自分が売られる瞬間を目撃する気分はどんなものなのだろうと想像して、志穂は聞くのをやめた。
「ま、アンタの夢を叶えるため。だから祈ってて、お買い得価格でありますようにって」
『よくわかりませんけど……わかりました……?』
すべてはマニーレインとの約束を叶えるため。
志穂は新たな馬主になると決意したのだ。
「でもなんかさ、命をカネでやり取りするって思うと複雑だよね。馬産家として間違ってんのは分かってんだけど」
「志穂ちゃんは優しいからなあ」
現在、マニーレインについた値段はたったの二十一万円だ。馬と喋れるなんて能力のせいで、意思疎通のできる相手をカネで売り捌き買い叩くのはどうも寝覚めが悪い。言ってしまえば、友達を売り買いしているようなものなのだから。
「だが」と言い置いて大村は告げる。
「お金には、いい使い方も悪い使い方もある。今回の志穂ちゃんは、いい使い方をしているよ。それだけは理解しておくといい」
「んじゃ、そういうことにしとく。私えらい」
「そうだな、えらいえらい」
この取引が、このお金の使い方がマニーレインのためになる。志穂はそう信じて、ようやくふっくらと馬体らしさを取り戻しつつあるレインの頭や頬、喉元を撫でてあげた。『くすぐったいです』なんて嬉しげな声が、もっとずっと続いてほしい。そのために使うお金なら価値がある。
「しかし驚いたねえ、すこやかファームは地方の馬主登録まで済ませてたとは」
「それよ。そんなに財産あったならもっと早く言えって話……」
馬主とはとにかくカネがかかる。馬の購入費用は元より食費や宿代といった預託料に、レースへの登録料。そして一番が、そもそも馬主になるための資産だ。
すこやかファームは地方・中央両方の馬主登録を済ませている。
地方競馬の場合、直近年での所得が五百万円以上あれば馬主になれる。これくらいなら志穂にもまだ理解ができる範囲だ。
だが中央競馬の馬主になる場合、今後も継続的に得られる見込みのある所得が、過去二ヶ年いずれも一千七百万円以上あること。そして保有する固定・流動資産が七千五百万円以上というべらぼうに高いハードルが用意されている。
それでも父親が言うには、条件はすでに満たしているという。まるで信じられない。
「あの親父、全然カネ持ちアピールしないんだよ。服だってユニクロかしまむらだし、もうずっと同じ服着てる。晩酌は発泡酒だし、カネのかかる趣味もギャンブルもやんない。オマケに車なんてオンボロだよ? こないだエンジンから煙出て車内が煙たいのなんのって……」
「本当のカネ持ちは身の回りに頓着しないと言うからねえ。まあ、洞爺じゃ使い道がないだけかもしれないがな」
はははと笑って、大村は笑えない洞爺の自虐ネタを披露してみせた。たしかにこの町ではカネの使い道などない。町のスーパーでちょっとお高い輸入食材を買うのが関の山だ。
とはいえ、おかげで今後は胸を張って馬主だと言える。マニーレインを救えるのも父親さまさまだ。癪ではあるが感謝しつつも、志穂は入札を睨んでいた。
「全然入札ないね。オークションってもっとガンガン釣り上がるモンだと思ってたんだけど。レインって人気ないの?」
『で、ですよね……ぼく走ってないし……』
「条件が条件だからだろうねえ」
マニーレインに訂正をいれようとしたところで、大村がオークションページの解説を指さした。
マニーレインの血統や戦績が紹介される文面の中、ひときわ目立つ赤字で要注意事項が事細かに記されている。要約すると以下だ。
まず、重度の屈腱炎を抱えているため、競争復帰には最低九ヶ月は要すること。仮に回復したとしても再発の恐れがあるため無理には供用できないこと。過去に心房細動——人間でいう不整脈の一種——を起こしていること。足の弱さから骨折の可能性もあること。真面目で気性はよいが競争心に欠けていること。かといって人見知りゆえに乗馬には向かないこと。トドメが獲得賞金の関係で、地方競馬でもレベルが高い南関四場——大井・船橋・川崎・浦和——には転厩できないなど、どこまでも悪条件が並んでいる。
「……この情報マジなの? とんでもないいわくつき物件じゃん」
「たぶんだが、あの獣医師が話を盛ったんだろう。これだけ悪し様に書いておけば、レインに入札する人は限られるからねえ」
あの獣医は、診断書を書くのが罪滅ぼしだと言っていた。あることないこと診断書に書き殴ればマニーレインの落札価格はどうあっても安くなる。高額査定を望んでいたマニーレインの出品者は大損だ。
「あの獣医の当てつけに感謝しなきゃね」
「ああ、志穂ちゃんに落札してもらうつもりなんだろう。落とせたらいいな」
「うん。レインも応援して。アンタの夢がかかってるからさ」
『はいっ……! シホさん、おねがいしますっ!』
かくして落札までの残り三時間。志穂は厩舎の仕事やハル、クリスの世話、そして食事の間もずっとスマホとにらめっこをし続けた。
入札があればすぐに金額を上げる。じりじり焦ったい攻防だ。残り時間を表示する時計を早くゼロになれと睨みながらも、残り十秒。すんでのところで入札して、志穂はそのまま逃げ切った。
「やった! 勝ったーッ!!!」
マニーレイン、落札価格は三十万円。かつて三億した超良血馬は、見るも無惨な千分の一の価値だ。だが、そんなことは関係ない。これからともに過ごす家族に値札なんていらないのだから。
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