第31話 若き女王かく語りき

 プレミエトワールと会話ができた。ただ志穂が二の句を継ごうとした途端、彼女はパドック周回に戻ってしまう。まるで会話なんかより、集った観衆に自らの体を見せるのが最優先だとでも言うように。


「きれい……」


 だが、袖にされても志穂は不機嫌にもならなかった。ため息を漏らしてしまうほど、プレミエトワールの姿は洗練されていたのだ。

 管理が行き届いたきらめく毛並みに絞られた腹、太もものハリ。何より目を引くのが、首を上げた姿勢のまま優雅に歩く落ち着きよう。まるで自信に満ちたオトナの女性が、肩で風を切って歩くようなしなやかさ。タブレット越しの桜花賞では伝わらない美しさに目が離せない。

 

 今度こそと意気込み、再びプレミエトワールが近づくのを待つ。その片目を見つめ、視線が触れ合った瞬間、志穂はまた語りかけた。


「私、志穂。アンタのお母さんや妹と暮らしてる」

『そう』

「うん、だから——」


 たったひと言交わして、プレミエトワールは止まることなく歩いていく。もどかしい。

 志穂はスランネージュを見ることも忘れ、プレミエトワールが再び眼前に迫るのを待ち続ける。

 濃紫のゼッケンに記された番号は18番。その馬体がまた、一定のペースを刻んだままゆっくりと近づいてくる。


「妹から伝言。アンタと走りたいって」

『ふたりは元気?』

「元気すぎて困るくらいだよ」


 短く切って、また歩いていく。

 そして志穂から離れたところでプレミエトワールは歩みを止めた。色とりどりの勝負服に身を包んだ騎手たちが小走りでやってくる。十八頭の若くたくましい乙女たちが、その背に相棒を乗せていく。

 いよいよレースへの緊張感が高まっていた。


「いちおう会話はできたけど……」


 プレミエトワールは返事はしてくれた。それでもあまりに短いやり取りすぎて、ハルやクリスほど心を通わせたとは思えない。レース前で緊張しているのかもしれない。

 そんな志穂の元に、騎手を乗せたプレミエトワールが近寄ってくる。


「あ、あのね……!」


 レース前に話しかけるには最後のチャンスだ。どんな声をかけるか志穂が考えていると、彼女は足を止めた。そして首を高く掲げて志穂を見つめる。

 真っ黒で凛とした瞳には、強い意志が宿っている。そんな気がした。


『貴女も見ていくんでしょう?』

「そのために来たからね。応援するよ」

『そう』


 プレミエトワールは、本馬場に繋がるトンネルに向かって歩き出す。

 去り際、たてがみをなびかせながら、志穂にあてたひと言だけを残して。


『勝つわ。見ていて』


 パドックに馬は残っていない。それは集っていた人々も同じだ。すぐさまスタンドや馬券販売機に駆け込んで、思い思いに夢を託している。

 だが、志穂はその場から動けなかった。膝が震えて立てなかった。


「なにあれ、カッコよすぎる……!」


 プレミエトワール。

 桜花賞を制し、世代の頂点に立った桜の女王。その強さを、目の当たりにして実感した。

 彼女の戴冠はまぐれじゃない。なるべくしてなった女王だ。

 迎えに来た茜音に、志穂は叫んでいた。


「茜音ちゃんさん、プレミエトワールの馬券買って! 応援馬券ってヤツがいい!」

「え? スランネージュじゃなくて?」

「あ! 見るの忘れてた……」


 志穂はすっかりプレミエトワールに魅了されていた。

 18番、プレミエトワール。

 単複百円の応援馬券には『がんばれ!』の文言が踊っていた。そしてそれを大事に胸元に押し当てる志穂の心もまた踊る。

 彼女に勝ってほしい。心の底からそう願っていた。


 *


「さあ! みんなの予想を言い合いっこタイムだ!」


 パドックから観客スタンドに移動した志穂は、またしても人混みに揉まれていた。むしろパドック前がかわいらしく思えるほどの人の群れ。公式発表では実に八万人近い観客が東京競馬場に集って、オークスの行方を見守っているという。この国はギャンブル中毒者まみれだ。

 そのギャンブル中毒者こと古谷先生が、酒も手伝って気分良さそうに話してくる。


「先生の見立てでは、オークスはカチカチの決着だね。一番人気のスランネージュと、二番人気プレミエトワールの叩き合い。桜花賞と同じ展開になると見てる」

「先生プレミ買わないでよ、負けちゃいそうじゃん」

「そっ、そんなことないもん! 今は三連勝中なんだよ!? ガミったけど!」


 馬事研部室での古谷先生の傾向は、裏をかいて失敗するか、裏をかかれて失敗するかのどちらかだ。古谷先生が応援した馬はなぜか走らない。もはや呪われている。

 ちなみに「ガミる」とは、当たったはいいがたくさん馬券を買いすぎてトータル収支がマイナスになることである。やっぱり呪われている。

 だが「今回は先生の予想も当たりそうですね」と晴翔が解説してくれた。


「注目馬はスランネージュとプレミエトワールの二強です。スランネージュは1枠1番の好枠。そして過去にオークス馬を輩出した《ゴールドシップ》産駒であること」

「そうそう、クリスのお婿さん候補のゴルシだよ! ゴルシはね——」


 その後、茜音の長い名馬語りが炸裂したのでだいたい聞き流したが、言わんとすることは伝わった。


 《ゴールドシップ》。

 彼は、父に《ステイゴールド》、母父に《メジロマックイーン》を持つ日本のホースマンたちが連綿と繋いできた国産馬の結晶だ。

 父譲りのパワー、そして母父譲りの無尽蔵のスタミナがその特徴。ついでに破天荒で掟破りな無数のワケがわからんエピソードを持つ、稀代の名馬もとい迷馬でもある。


 ひと通り長い説明が終わったあとで、コース中央にデカデカとそびえる巨大モニターのオッズ表示を見て志穂は言う。スランネージュは2.5倍、プレミエトワールは僅差の2.7倍だ。


「プレミが二番人気なのはなんで? プレミのお父さんの《ドゥラメンテ》だってオークス馬出してるよね?」

「志穂ちゃんからそんな情報が飛び出るようになったなんて感動! 茜音ちゃん少し泣く……」


 さすがの志穂も、過去数年のオークス馬くらいは調べていた。

 ちょうど二年前、ドゥラメンテ産駒の桜花賞・オークス二冠馬が誕生したのだ。父親の実績だけで決まるなら、条件は互角のはずである。

 晴翔は少し思案して告げる。


「トラックバイアス……トラックの外側より内側の方が、走る距離が短く済んで有利だと考える人が多いんでしょう。あとは単純にスランネージュはアイドルホースですから」


 誘導馬と呼ばれる四頭の馬がお行儀よく待つ芝のコースに、そのスランネージュが現れた。途端スタンドは大歓声に包まれる。

 アイドルホースの理由も納得だった。

 芦毛あしげ——雪解け時期の北海道を思わせる灰色混じりの白い馬体が、きらめく緑の絨毯を駆けていく。いかにも御伽噺に登場する王子様が乗っていそうな美しさ。周囲を見ると、同じ色味のぬいぐるみを持っている人々までいる。みんな祈るように抱きしめて、スランネージュの勝利を待っていた。


「……まあ勝つのはプレミエトワールだけど!」


 志穂は志穂で、ぬいぐるみの代わりに応援馬券を握りしめる。

 競馬も馬も素人だけれど、応援する気持ちだけは負けたくない。


「さあ、志穂ちゃんの推しも入ってきたよ!」


 そして茶色い馬体の女王、プレミエトワールが姿を現す。アイドルホースのスランネージュほどではないが、こちらも歓声が上がった。彼女は称賛を浴びるのが当然であるかのように意にも介さず颯爽と緑の絨毯を走り抜け、スタンドの左側にある待機場に向かう。

 これで全頭、コースに入った。

 巨大なモニターには、渋めのジャケットで正装したスターターが映されている。せり上がるゴンドラに乗ると、右手に持つ赤い旗を掲げた。


「ファンファーレだ!!!」


 馬が小走りに駆け回るような軽快な桜花賞のファンファーレとは違う、雄大な調べ。大冒険の始まりを予感させる、吹奏楽団による重厚な露払いが、観客の手拍子を誘う。

 全身を震わせる歓声の渦に呑み込まれる。否応なく会場を包む熱狂にひとたび身を預ければ、馬券師も馬オタも馬産家も、女子中学生もみな同じ。

 十八頭の中のただ一頭——推しの勝利を願うただのちっぽけなファンになる。


 肌身が震えた。

 これが、競馬だ。

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