第25話 あの女はもう居ない

 レースの前に歩く場所——パドックはすり鉢状の窪地になっていて、それを取り囲むように人間が立っている。彼らは衆目に晒される馬を見て、口々に何かを囁いたり例の便利な板を、あるいは長い筒を構えている。

 だが、連中に用はない。探しているのはたったひとりだ。


「落ち着いて、前向いて歩いて!」


 ふわふわ女が紐を引けば、口に噛んだ金属ハミと後頭部が引っ張られる。そうすると体が前を向かざるを得ない。それでも狭くなった視界で、見下ろしている人間をひとりずつ確認する。

 やはり、かつてとは見える景色が違っていた。


 ——ねえ、パドックでウチワ振ってたの気づいた?


 あの日を思い出す。

 言葉は通じなくとも、あの道具が何かの証だとはわかった。

 あんな大きなものを両手に持って、あいつは泣きながらこっちを見つめていた。周りの人間どもが距離を取ってしげしげと眺めていた。みっともないことをしてくれる。おかげでこっちまで妙な目で見られたぞ。恥ずかしいと思わないのか。


 ——騎手とお揃いの、真っ赤な市松模様のドレスなの!


 あの日を思い出す。

 周りの人間どもとはまるで違う、場違いな格好であいつは現れた。最後の曲がり角の前で名前を呼んだのはあいつだろう。あの日、初めて先頭を走れたのはあいつの姿を見たからじゃない。みっともないあいつから早く逃げ出したかったからだ。


 ——ねえ、クリュサーオル。私ね……。


 あの日を思い出す。

 あいつは笑って、元気そうに振る舞っていた。だがオレ様もバカじゃない。無理をしていることくらい、鼻先に触れた指先でわかる。何度オレ様が触らせてやったと思っている。指の感触が弱っていることを、匂いが変わったことを、オレ様が分からないとでも思ったのか。

 バカにするんじゃねえ。


「だめだめ止まっちゃだめだよ! ちゃんと歩こう? ね? クリュサーオル!」


 何度紐で引かれて回っても、それらしい姿は見当たらない。

 居ない、居ない、居ない。

 窪地の縁にも、崖のように反りたった高い場所——馬主席にも姿はない。


 ——なかなか連絡がつかなくてさ。ごめんね。


 大した食わせモノじゃないか、メスガキの分際で。

 渡りをつけるなんて言いながらも、こうなることをわかっていたんだろう。あの日以来お前が目を逸らすようになったのも、表情や触れる手が硬くなったのも本当は気づいていた。

 それでも、懸命に馬の世話をしていたから信じてやった。この人間は信用できる、託してもいいと思った。わずかな可能性に賭けたのだ。

 だから外に出た。だから走った。だから再び競馬場に来てやった。


 ——アンタに関わる人間はみんな、クリュサーオルの復活を信じてる。


 教えてやるよ、メスガキ。

 騙そうとしても無駄だ。黙っていたってわかる。

 オレ様の復活を信じる人間なんてものは居ないんだ。


「ね、ねえクリュサーオル! クリュサーオルってば! あ、歩いてよ——ヒッ!?」


 声を上げ、哭いた。己の感情のまま、押し留める気もなく全身を震わせる。


 どこを探しても、真っ赤なドレスの女は居ない。

 なぜならあいつはもう——死んでしまったからだ。


 *


「あーあー、立ち止まるわ吠えるわチャカついてるねー。クリュサーオルはダメ。消し、っと」

「教え子が面倒見てた馬をよく消せますね……」

「それとこれとは話が別よ。自分のお金を賭けるワケだから」


 競馬をギャンブルとしてしか見ていない古谷先生の姿勢が、晴翔にはひたすらに腹立たしかった。もちろん、馬産や育成に携わっていない大多数の人々がいるからこそ競馬が成り立っていることも理解はしているが、それでも志穂の名誉のために言いたいことはある。


「加賀屋さんは相当がんばってますよ。今だってモタのために馬主さんのご家族に会いに行ってるんです」

「怒らないでよぉ。もちろん努力は認めてるけどさ、あんな状態になってる馬買える?」


 今日はスーツ姿の調教助手・羽柴が、どうにか引いてクリュサーオルを動かした。

 ただし足取りはひどく重い。それまでキョロキョロとパドックを見渡していた首も、まるで意気消沈したかのようにもたげている。


「俺は買えます。先生、単勝千円買ってください。金は出しますから」

「え〜ドブに捨てるようなもんだよ? 複勝とか応援馬券にしときなよ」


 馬券の買い方はいくつかあるが、もっとも直感的でわかりやすいのが単勝式だろう。賭けた馬が一着になれば的中となるシンプルなものだ。

 そしてもっとも当たる確率が高いのが複勝式。こちらは賭けた馬が三着までに入れば的中だ。

 これら単勝式と複勝式を同時に買うことを俗に応援馬券と言う。その名の由来は、通常は印字されない『がんばれ!』という文言が踊るためだ。

 どの馬にどう賭けるか思案する古谷先生とは違い、晴翔は悩むまでもなく言いきった。


「一着はクリュサーオルです。それと追加で単勝一万円。これは加賀屋さんの分です」

「最低人気に単勝一万!? 生徒が破産するとこ見たくないなあ〜……」

「しませんよ。俺も加賀屋さんも、モタを信じてますから」


 渋々馬券を買いに行ったダメ教師を見送って、晴翔はクリュサーオルに視線を送る。

 「とまーれー」の合図とともにパドック周回は終わり、横の建物から色とりどりの勝負服に身を包んだ騎手が駆け出してくる。そして赤と白の市松模様の騎手がクリュサーオルに跨がると、意気消沈したままとぼとぼと本馬場へ向かう地下通路へ向かっていく。


 この際、賭けた金額のことなんてどうでもよかった。

 晴翔はもう確信していた。勝つのはクリュサーオルだ。

 だからこの場全員のまぶたにクリュサーオルの強さを焼き付けてやりたい。最低の十五番人気なんてオッズをつけた奴らに、生き馬の目を抜くような激走を見せつけてやりたい。記者も予想屋も訳知り顔で好き勝手に騒ぐ奴らも、クリュサーオルを侮って「消し」た奴ら全員吹き飛ばしてやりたい。

 クリュサーオルには、それだけの素質があるのだから。


「加賀屋さん、早く来てください……」


 唯一心配があるとするなら、発送まで二十分を切っているのに現場に現れない彼女だった。


「モタの激走を誰より待ち望んでるのは、君なんですから」


 *


 他馬の声は聞こえない。聞く気力がなかった。

 トンネルを出て、緑がまぶしい芝のコースへ駆け出しても、まるで走る気が湧いてこない。


『いいよなァ、テメーらは……』


 他馬を横目に見て思う。彼ら彼女らには期待をかけてくれる人間が居る。一番に応援し、復活や勝利を望んでいる人間がいる。

 見放されてしまったクリュサーオルでは、逆立ちしたって手に入らないような信頼を背に走っている。


『テメーらには、一番に応援してくれるヤツがいるんだろ……』


 他馬は一頭また一頭とスタートゲートに吸い込まれていく。ひとつ飛ばしに枠に収まって、最後に自身の番になる。大外枠。背に乗った騎手に手綱を引かれて、クリュサーオルもまた歩き出す。

 のそりのそりと、脚はまるで牛のように重たい。


『オレ様にはもういねェ。走る意味もねェ。なんのためにやッてんだ、こんなこと……』


 騎手が首を叩いていたが、返事をしてやる気力もなかった。

 ドレスの女は死んだのだ。その時点ですべてに意味がなくなった。

 他馬と競って、坂を登って鍛えて。腹を空かせ、狭い馬運車で何時間も立ち尽くしたって、見せる相手が居ない。褒めてくるヤツが居ない。

 誰からも、愛されていない。


『オレ様は大したことねェ、遅えンだ。よく考えたらクソガキにも負けるくれェだしな』


 ゲートに収ったところで、もはやゲートに収まる意味すらないことに気づく。

 ここまでのすべての努力は、人生は——無意味だ。


《各馬スタート! あっと、大外15番クリュサーオル出遅れたーッ!》

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