第59話
「それで、何があったの?」
祈織が改めてそう訊いてきたのは、夕食を終えて食器を洗い場まで運んだタイミングだった。
「え……?」
食事中は普通にいつも通りの会話ができていたので、完全に油断していた。
思わず、反応が遅れてしまったのだ。
「い、いや、だから仕事でミスを……」
「そうじゃないって判ってるから訊いてるの」
祈織は苦し紛れの俺の言い訳をぴしゃりと跳ね退けると、その大きな瞳でこちらをじっと見据えていた。
その眼差しは真剣そのもので、どうにも見逃してくれそうにない。
「言いたくなかったら、それでいいの。でも、麻貴くん元気ないし、それなのに無理して明るく振舞ってるから……何だか私の方が申し訳ない気持ちになっちゃって」
「祈織……」
「確かに、私じゃ頼りないのかもしれないけど……でも、麻貴くんが悩んでるなら、力になりたい」
彼女の瞳はどこか少し寂しそうに揺れていた。
俺が何かを一人で背負っていて、それを話してもらえないのが寂しかったのかもしれない。
──参ったなぁ。
俺は頭を掻いて、視線の先を彼女からテレビの方へと移した。ちょうど今はCMの最中で、特に話題を逸らせそうな状態でもない。
食事の間は上手く取り繕っていたつもりだった。祈織の作った料理は美味しかったし、お腹も減っていたから、ものを食べている間は普段通りに過ごせている──つもりだったのだ。
だが、別れ際の木島さんの悲しそうな表情が頭の片隅にこびり付いていて、ふとした瞬間に嫌でも思い出してしまっていた。きっと彼女は今とても悲しんでいて、それなのに俺はこうして恋人と楽しく夕飯を食べていていいのだろうか、と無意識下で考えてしまっていたのである。
そういった一瞬の翳りを祈織は見逃さなかった。
「うん、ごめん……やっぱり、祈織には隠し事できないか」
観念した、と言わんばかりに微苦笑を浮かべた。
これ以上の誤魔化しは俺の為にも、そして彼女の祈織の為にもならないだろう。ここで隠してしまうと、余計にぎくしゃくしてしまう気がした。
「でも、別にそれは祈織が頼りないとかが理由じゃなくて……俺自身、まだ自分でどうこの気持ちを処理していいかわからなくてさ。正直、これを祈織に話していいのかさえもわかんない。話したら嫌な気分にさせちゃうかもしれないし」
「ならないよ」
祈織は一度断言してみせてから、「っていうと嘘になるけど」と付け加えて困った様に笑った。
「でも、それで麻貴くんが楽になるなら話して欲しいな。一人で抱え込んで欲しくない。もし何かに困ったり悩んだりしてるなら、私も一緒に悩みたいって……そう、思ってるよ?」
優しい声に、優しい瞳。彼女はまるで女神の様な暖かさで、俺を包み込もうとしてくれていた。
きっと、本当は内心は不安に違いない。俺はこれまで彼女にこういった隠し事や誤魔化しをした事がなかったので、何が出てくるのか想像もつかないだろう。それでも彼女は、両手を広げて俺を受け入れようとしてくれているのだ。
「わかったよ」とベッドに座り直し、テレビを消した。
「全く、頑固な奴め。そんな風に言われると、話さざるを得ないだろ」
「あれ、気付いてなかったんだ? 私、結構頑固者だよ?」
祈織は嫣然として、ほんの少し首を傾けた。
そう……彼女は大人しくて芯が弱そうだが、その実こうと決めた事に関しては揺るぎない。それは学校での俺との接し方を見ていてもわかるし、風神雷神モードの彼女を見ても明らかだ。
こうして〝通い妻〟化して俺の世話を焼いてくれるのも、彼女のそんな一面の一つだろう。
「いや、まあ、そうだろうとは思ってたけどさ。じゃあ、聞いてくれるか?」
確認の意味も込めて訊いてみると、彼女は「もちろんだよ」と頷いてくれた。
それから俺は、帰り道で起こった出来事を話した。即ち、木島夏海さんから告白を受けた事だ。もちろん、ちゃんと断った事も伝えてある。その過程で、前に一度公園で相談を受けてアドバイスした事、それから木島さんが変わった事についても話した。
話しているうちに、どうして俺がこの件について祈織に話しにくかったのか、何となく理由もわかってきた。
それはきっと、祈織に対して少し罪悪感を持っていたからだ。木島さんとの事で何か後ろめたさがあるわけではないのだが、恋人がいるのに他の異性から興味を持たれるような言動をしてしまい、それが告白に繋がってしまったという事に罪悪感を持ってしまっていたのである。
また同時に、木島さんを振ってしまった事、そして彼女を傷付けてしまった事に対して、後ろめたさを持ってしまっている。
そんな二つの気持ちを抱いてしまっている事に対して、祈織に対して更なる申し訳なさを感じてしまっていたのだ。
きっと、俺が木島さんから告白を受けて以降、陰鬱とした気持ちになってしまっているのはこれが原因だろう。
祈織は意見するでもなく、俺の話を相槌を打ちながら聞いてくれていた。でも、告白をされたと言った時に、一瞬顔を顰めた事を見逃さなかった。
「悪い……こんな話聞かされても、祈織もどうしていいかわからないよな。ごめん」
俺は全てを話し終えた後、素直に謝った。
恋人から誰か別の異性から告白されたという話を聞かされ、気分が良いわけがないのだ。俺だって他の男から祈織が告白されていたら嫌だし、そんな話なんて聞きたくないと思うだろう。
しかし、祈織は「そんな事ないよ」と首を横に振り、力無く笑った。
「だって……何となくそうじゃないかなって、思ってたから」
「え、マジで⁉」
予想もしていなかった言葉に、吃驚の声を上げてしまった。
どうして祈織が木島さんが持っていた好意に気付いていたのだろうか。
「だって麻貴くん、ずっと辛そうだったから。それだけじゃなくて、私にも何だか申し訳なさそうな感じだったし……そんな麻貴くん見たの初めてだったから、きっとそうじゃないかなって」
「でも、どうして? 祈織が木島さんを見たのって、あの時だけじゃんか。俺、それまで一緒にシフト入る事はあっても、あの日まで殆どあの人と話した事なかったんだぞ」
俺は疑問に思っていた事をストレートに訊いてみた。
少なくとも、あの最初の皿割り事件以降、祈織は俺のバイト先には来ていない。気付けるはずがないのだ。
しかし、祈織は視線を俺から逸らして、こう言った。
「だって、私……見ちゃったから」
それは俺に言っているというより、心から漏れ出た声、という感じだった。
「見たって、何を?」
重ねて訊いた。発言の意図がよくわからなかったからだ。
すると、祈織は笑いたくて笑っているんじゃないというような苦い笑みを唇に乗せて、こう答えた。
「人が恋に落ちる瞬間を」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。