第22話
午後九時を回った。ここまでくれば、あと少しだ。
それに、疲労もある。ちょっと俺でも腕が疲れてきたなと思ってしまうので、使えない女子大生アルバイトこと
──体力だけは自信あったんだけどなぁ。
とは言え、中学時代の部活を引退してから、もう一年半以上経つ。さすがに一年半もの間、鍛えもせずだらだらしているだけでは体力も落ちるという事か。
また、接客業の場合は肉体的疲労よりも精神的疲労が大きな割合を占める。特に今日みたいなラッシュがくると、悪くもないのに謝り倒さないといけなくなるのだ。これが後々の体力に響いてくる。
「ほい、三のA卓に和風パスタと和風サラダ、四のC卓に明太子ピザとミネストローネ──って、これ祈織ちゃんとこだな」
デシャップに料理を取りに行くと、
キッチンの方は落ち着いてきていて、余裕がありそうだ。今は揚げ物と炒め物を店長が、デシャップを良太がやって、新人の鈴木さんは洗い場でひたすら皿を洗っている。
普段はフロアが皿洗いも手伝うのだが、今日ばっかりは全くそっちに手が回っていない。
「ああ、そうだな」
言いながらトレーを持とうとすると、「待った!」と良太が制止する。
「なんだよ」
「四のC卓のは僕が持って行くよ。ほら、フロア忙しいっしょ? だからこの僕が手伝ってあげようかと思ってね! いやー、さすが僕。優しいなぁ!」
良太は白々しいほどに明るい笑みを浮かべた。
こいつには祈織がお母さんと来ている事を伝えている。それ以降、何かと理由をつけて四のC卓──即ち祈織達の席──に行こうとするのだ。
「黙れ、そんな汚い格好で祈織とお母様の前に姿を晒そうとするな。あの二人が
「穢れるってなんだよ! 僕だって好きで汚れてるわけじゃないよ! ──って、やめろおおッ! もう僕を除菌しようとするなぁッ!」
良太が煩いので、俺はそっとデシャップにあった業務用除菌スプレーに手を掛けた。今日の昼休みのトラウマを刺激できた様で、ようやく黙らせる事に成功する。ナイスだスモモ。
ただ、彼の言い分も尤もだ。別に彼が汚いわけではなく、単純にキッチンで仕事をしていると白衣は嫌でもドロドロになる。それはしっかり仕事をしている証拠なわけで、決して悪い事ではない。ただ単純に、あの卓に良太を近付けたくないだけだ。
猛る良太を無視して、俺は料理を持って、フロアに戻る。
──あ、今ちょっと余裕あるし、祈織のとこで少し話せるかな?
周囲を見渡して、ほっと息を吐く。
会計待ちのお客さんもいなければ、デシャップに溜まっている料理もこれで最後だ。注文の呼び出しもない。
二のD卓の料理がまだ調理中だが、あれだけなら女子大生バイトに任せて問題ないだろう。というか彼女の三倍くらい働いているのだから、それくらい運んで欲しい。
三のA卓に先に料理を運んでから、窓際の四のC卓に向かう。俺が近付いて行くと、それだけで祈織が顔をぱぁっと輝かせた。
「お待たせしました。ご注文は以上で宜しいですか?」
明太子ピザとミネストローネをテーブルの上に並べて、店員らしく振舞ってみた。
「はい、宜しいですよっ」
それに対して、祈織がにこにこして応えてくる。可愛い。
そのままテーブルの傍で片膝を突いて、たはーっと大きく息を吐いた。
「あー……地獄だった」
「ちょっと落ち着いた?」
「ああ。ようやく一息ってところ。七時からずっとバタバタしてたから、もうヘトヘトなんだ」
肩を竦めて笑って見せると、祈織が「お疲れ様」と優しく微笑んでくれた。天使だ。
「頑張ってたものねえ。えらいえらい」
祈織に続いて、祈織ママも感心した様子で労ってくれた。
こっちも天使だ。母娘共に天使。毎日この二人に囲まれているお父さんがちょっと羨ましい。
「せっかく来てくれたのに、全然話せなくてごめんな」
祈織達の卓まで料理を運んではいたが、引っ切り無しにあっちこっちフロアを行き交っていたので、全然落ち着いて話せなかったのだ。
ちゃんと話せたのは、入店以来である。
「ううん、ほんとに気にしないで。私はただ、
見てるだけでも十分だよ、と祈織は微笑を浮かべた。
「ずっと目をハートマークにして麻貴さんの事見てたものねー?」
「もうっ、お母さん!」
お母さんの茶々に、祈織がぷりぷり怒る。
そんな娘を見て、祈織ママは口元を隠して上品に笑っているのだった。
「麻貴くん、バイトって十時までだっけ?」
こほん、と咳払いしてから、祈織が話題を変えた。
あのままだと分が悪いと思ったのだろう。
「うん。あと四十五分くらいかな」
時計をちらっと見て答える。
気付けば長い方の針が三を指していた。
「待っててもいい?」
「え? ああ、俺は構わないけど……良いんですか?」
お母さんの方を向いて訊いた。
十時となると、結構遅い時間だ。電車も少なくなるし、親的にそれは大丈夫なのだろうか。
「ええ、構わないわよ。車で来てるから」
安心して、と車の鍵を見せて微笑んだ。
どうやら家からは車で来た様だ。
「あ、そういう事でしたら」
なるほど。それなら安心だ。
ここロイヤルモスト
いくらこのあたりの治安が悪くないからと言って、お母さんと祈織の二人だけで夜道を歩かせるのは少し不安だったのだ。
もしかすると、お母さんは祈織がこう言うのを見越していたからこそ車で連れてきたのかもしれない。
「それじゃあ、あともうちょっと踏ん張ってきます」
ちょっと長話し過ぎたかなと思って、立ち上がった時だった。
ガッシャーンと皿を落とした大きな音が店内に響き渡ったのである。
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