絶対的な関係

 ――高梨くんさ、――キスしたことある?

 ――えっ?へっ!?

 高校二年の夏、俺と日下部の二人で教室の掃除をしていた時、日下部が突然そんなことを言い出した。

 俺は驚いて日下部を凝視する。彼女は至極真面目な表情を浮かべていた。

 ――な、なに急に……。

 当時の俺は、キスはおろか初恋すらだった。

 ――へえ、ないんだ。

 日下部はいたずらっぽく笑う。いつも日下部は澄ましたような顔をしているため、いつもと違う表情に驚いてしまった。

 ――まだ何も言ってないだろ。

 ――図星だ。

 日下部ってこんな軽口を叩くような奴だったんだなと思った。

 俺は恥ずかしくなって顔を伏せ、掃き掃除を再開させた。

 ――そういう日下部は、その、キスしたことあるの?

 ――ないよ。

 あっさり答えてきたので、俺は再びギョッとして日下部のほうを見た。

 日下部は視線を落とし、口をつぐんでいる。その横顔は、どこか物悲しげに見えた。

 ――これからも、する機会ないかも。

 ――そんな、日下部は美人じゃないか。

 何も考えずに、ふいに出た言葉だった。

 日下部はこちらを再び見ると、またいたずらっぽく笑う。

 ――へえ、高梨くんは私を美人だと思ってるんだ。

 ――えっ、そんなの、皆思って……。

 ――ねえ、私とキスしようよ。

 ――はあっ!?

 日下部はそう言うと、こちらに近づいてきた。俺は思わず後退あとずさる。

 ――嫌?私、美人なのに。

 日下部の顔がこちらにどんどん近づいてくる。その目は、冷めているようで熱を帯びているようにも見えた。

 ――嫌?

 日下部は念を押すように問いかけてくる。

 ――嫌、じゃない。







 そんな会話を交わしたのが二十年以上前のことだ。ミステリアスで線の細い女子だった彼女は、妖しげな笑みを浮かべるとなって、自分を見下ろしている。

「本当に日下部?」

 俺はまだ信じられず、そう尋ねた。

 男はフンと鼻で笑うと、俺の隣に腰かけた。

「本当。俺、日下部恭子だよ」

 そう言うと、日下部は運転免許証を見せてきた。そこには男の顔写真と「日下部恭子」という名前が印刷されていた。

 日下部の言葉を聞いて、俺は愕然とした。

 中性的な顔立ちで、普通の男に比べれば華奢な体格だが、低い声で筋肉もある程度ついているような体格だ。言われなければ普通の男だと思ってしまうほどだ。

 なぜ、日下部は男になってるんだ?

「それより高梨、随分おじさんになったな。最初気づかなかったぞ」

「いやもう、三十八だし……。そういう日下部だって――」

ってか」

 日下部はばつが悪そうに襟足を掻く。その時、ある可能性を思いついた。

「――性同一性障害」

 日下部は消え入りそうな声で呟いた。俺はなんと返すべきか分からず、「ずっと?」といてしまった。その直後、失礼な質問だと思い、取り下げようとした。しかし、日下部は何ということもない様子で「うん」と答えた。

「ずっと、物心ついた時から。お前と、――キスした時も」

 日下部は物悲しげな表情を浮かべる。

 ――これからも、する機会ないかも。

 あの時の言葉は、そういう意味だったのか。

「ガッカリした?ファーストキスの相手が男になってて」

 日下部はあの時のようにいたずらっぽく笑う。

 俺は目を逸らしながら「いや、別に」と言った。

「……お前ってほんとお人好しだよな。俺、お前の彼女んだぞ」

「あっ、そうだった!」

 衝撃的すぎるカミングアウトで忘れそうになっていたが、こいつのせいで俺は彼女と別れる羽目になったのだ。

 日下部に対して文句を言ってやろうと、彼のほうに目を向ける。しかし、何も言葉が出てこなかった。

「うぐ、――もう、いいや。なんかそういう気分じゃない」

 俺は力が抜けてしまい、項垂うなだれた。

「お前、今日泊まるところあるの?」

「えっ?」

「ヒモみたいな生活してたんだろ。彼女から聞いた」

「ヒモって……俺、一応働いてるんだけど」

「でも、家賃は出してもらってたんだろ?ヒモじゃん」

 ぐうの音も出ず、俺は頭をグシャグシャに搔きむしった。自身がクズであることは自覚しているが、何となくヒモというのは俺のプライド的に認めたくなかった。

「……俺んち来るか?」

「へ?」

 日下部はニヤニヤと笑いながら問いかけてきた。

 流石に野宿はきついと思っていたので、俺は「マジで?」と飛びついた。

「ああ、昔のよしみだ。それに、お詫びも兼ねてな」

「マジで?ほんと、ありがとう!感謝するっ!」

 日下部は一瞬目を丸め、またニヤリと不敵に笑った。







「ここ、俺んち」

 日下部に案内されたのは、高層マンションだった。

「へえ、結構良いマンションじゃん!駅からも近いし」

 俺はマンションを見上げながら言った。

「でもなぁ、この歩道、雪が降ると滑りやすいんだよな。俺も二、三回尻もちついた」

 日下部はコンクリートの地面をつま先でトントンと蹴りながら言う。



 エレベーターに乗って十階まで上ると、そこの一室に通された。

 玄関から中に入ると、なかなか広い部屋で、お洒落な家具などが並んでいた。

「うわあ、良い部屋」

「あっ、一個使ってない部屋あるから、そこ使ってくれ」

 日下部に案内されたのは、こじんまりとした和室だった。中には本がビッシリ詰まった本棚が一つポツンとあるだけだった。

「いやぁ、こんな良い部屋、いいの?」

「あっ、お前が使うのはここな」

 日下部は襖を開け、空の押入れを指差した。

 俺の頭はハテナで埋め尽くされ、しばらく思考が止まった。

「えっ、押入れじゃん」

「うん」

「えっ、ここで寝ろって?」

「ああ、そうだ」

「それって、ドラえ――」

「文句あるなら出て行ってもいいぞ?」

「すみません、ここに泊まらせていただきます」

 

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