俺が好きなのは君だけど、お前じゃない

九十九一二三

フィーバー

「ほんと、ほんとにありがとう。この恩は一生忘れません」

 安い居酒屋で、俺は幼馴染の貴島きじまから、十四万円が入った封筒を受け取った。酒やが置かれたテーブルの上で、俺は頭を深く下げた。

「いやもう、それ何回目だよ」

 貴島は何度目か分からない呆れた表情を浮かべる。

「給料日から三日しか経ってないっていうのに、所持金全部る奴がいるかよ。まだ二百万くらい返ってきてないんだけど」

「ほんとお前には感謝してるんだよ、マジで。お前の金をパチンコ台に突っ込む時、いっつもお前の顔思い浮かべてるんだから」

「いや、そこまでしなくていいよ。気持ち悪ぃな」

 俺は貴島のような友人知人から金を借りては返してを繰り返している。それを二十年近く繰り返し、いつの間にか総額一千万を超えていた。

 言い訳ではないが、貴島のように「返済はいつでもいいから」という奴には甘えるが、「絶対返せ」という奴にはきちんと返済している。

「今月はもう貸さねえからな。――お前、その金何に使う気だよ」

「そりゃもう、――パチンコと競馬だよ、へへ」

 貴島はため息を吐いた。




「そういや、先月の同窓会さ」

 お互い酔いが回ってきた頃、貴島がふいにそんな話をし始めた。

「もういいよぉ、その話」

 俺はおもむろに煙草に火をつけた。

「うちのクラスで来てなかったの、お前と日下部くさかべだけだったぞ」

 という名前を聞いた時、俺は煙草を咥えようとしていた手を一瞬止めた。

 日下部は、ショートカットでボーイッシュな見た目の女子生徒だった。基本的に無口で、特定の誰かとつるんでいるようなタイプではなかった。しかし、それがミステリアスで、男子生徒だけでなく女子生徒からも密かに人気があった。

「日下部、前回も来てなかったんだよな。……あいつ、今どうしてるんだろうな?」

「……さあ?結婚でもしてるんじゃないの?」

「だよなぁ。日下部美人だったもんな」

 貴島はビールをあおる。

「結婚と言えば、お前はしないのか?同棲してる彼女いるだろ。もう三十過ぎてるんじゃないのか?」

「いや無理だよ。……できるわけないじゃん」

 俺が自虐的に言うと、貴島は「それもそうだな」と笑った。

「そろそろ帰るか」

 貴島は左腕の腕時計を見ながら立ち上がる。俺もつられて立ち上がりながら、腰を曲げて「あの、お勘定」と顔を歪めながら小声で言う。

「分かった分かった。俺の奢りな」

 貴島は勝ち誇ったような表情をしながら、財布を尻のポケットから取り出した。







 すっかり酔いが回った頭で、夜風が気持ちいいな、などと考えながら帰路を進んでいく。

 帰ると言っても厳密に言えば俺の家ではない。四年くらい付き合っている彼女――香純かすみの家だ。懐の広い女性で、どうしようもない俺に理解を示してくれている。その上、自宅に居候させてくれている。そんな彼女を大切にしなくてはならないと思いつつも、自分の性分を変えることは出来ずにいた。

 玄関の前まで来て、鍵を突っ込んで回そうとした。

 その時、――ことに気づいた。

 恐る恐る扉を開けると、中から香純の「何すんの!?」という怒鳴り声が聞こえた。

 まさか泥棒?

 俺は全身の血の気が引いていくのを感じ、靴も脱がずに中に飛び込んだ。

「どうした!?」

 リビングに入ると、香純と、知らない若い女が掴み合いになっている。そして、それを制止しようとしている男が一人いた。

「何っ!?どうしたの?」

 腕や髪を引っ張り合う女性二人を見て、只事ではないと察し、俺も割って入ろうとした。

 すると、知らない女性のほうの拳が弾みで飛んできて、偶然俺の顔を殴った。

「ぐえっ」



 奇しくも俺の顔面に女性の拳がクリーンヒットしたことで騒動は収まった。

 落ち着いた香純たちから詳細を聞くことができた。

 どうやら家にいた知らない男女はカップルであり、香純はその男と浮気しており、それを嗅ぎ付けた女性が家に乗り込んできたというのだ。

「キョウスケくん、何でこんな女と……。私の何がダメなの?」

 女性は男に向かって金切り声で詰め寄る。

「先に言っただろ。俺は真剣に付き合えないって」

 まったく悪びれない男は面倒臭そうに言う。

「それに、女がお前ら二人だとか思ってねえよな?」

 さも当たり前のように、男はとんでもないことを言う。

 何だこいつ。一番ヤバい男じゃないか。

「信じられない……。あんた、絶対ぶっ殺してやるっ」

 再び口論になりそうな男女を俺は何とかなだめようとした。女性は鼻血を出してティッシュを鼻に詰めている俺の顔を見ると、泣きそうな顔になりながら家を飛び出していった。

 女性のその様子を見送ってから、俺は取り残された男と目が合った。中性的で端正な顔立ちをした男を見た時、俺は既視感を覚えた。

 あれ、この顔どこかで――。

「じゃあ、俺もそういうことで」

 男はそう言い残して出ていった。あまりにもあっさりと帰ってしまうため、俺は引き留めることもできなかった。



 残された香純と俺は、テーブルを挟んで向かい合って座った。しばらくの静寂が室内に流れる。

「浮気……してたんだ……」

 香純は俯いたまま黙り込む。

「いや、俺には君を責める資格がないっていうか……。別に怒ってもいないし……。ちょっとびっくりしたっていうか……」

 俺のような男が彼女の浮気を責める資格などない。しかし、まさか優しい香純があんな脳みそ下半身の男と浮気するなど想像していなかった。

はじめくんさぁ、私のこと好き?」

 想像していなかった質問に、俺は「へ?」と間抜けな声を出した。

「えっ、あっ、好き、だよ……、何言って……」

「本当に?女性として見てる?」

「もちろんだよ……」

「じゃあ、どうして、くれないの?」

 目に涙を浮かべる彼女を見た時、ああそういうことか、と合点がいった。なぜ彼女があんな性欲丸出しの男を連れ込んでいたのか。

「ごめん、ごめん、本当にごめん。俺、何も考えてなかった……」

 俺は彼女の顔を見ることができなくなり、テーブルの木目と見つめ合った。

「俺、出ていくよ……」

 彼女の顔を見ずに立ち上がった。

「ちょっと待って」

 香純はすぐに止めてきた。俺は香純の顔を見た。

「――お金、返してよ」

 俺は拍子抜けして、足から力が抜けそうになった。

「ああ、うん。――ごめん、いくら借りてたっけ?」







 俺は香純に十四万円全て返し、見事に一文無しになった。

 すっかり酔いも覚めてしまった。

 近所の公園のベンチに座り込みながら、次の給料日までどうしようか頭を抱えていた。食事はどうしよう、寝泊りはどうしよう――。

 貴島に今月はもう貸せないと言われているため、他の債権者をあたるしかない。

 靴を舐めようか、いや、もういっそのこと靴を食べてやろうか。

 債権者に金を借りるためのパフォーマンスを思案している時だった。

高梨たかなし

 俺の名前を呼ぶ声が聞こえて、顔を上げた。

 そこには、――先ほどの浮気男がいた。

「高梨だよな?俺のこと、覚えてるか?」

「はっ?えっ?」

 やはりこの男、どこかで会ったことがある。しかし、誰なのか分からない。

「忘れたのかよ。酷いなぁ。じゃん」

 その言葉を聞いた時、やっと思い出した。分かるはずもなかった。だって、はすっかり風貌が変わっていたのだから。

「日下部」

 目の前にいるのは、二十年ぶりに会う高校時代のクラスメイトで、――俺の初恋相手の日下部恭子きょうこだった。

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