呼び鳴きのおはなし②
集団登校という決まりは、庄司が住む団地にはない。そのため、父は娘を心配して、正司に頼んでいた。毎朝、モコを小学校へ送ってほしいと。
だがモコは好奇心が
「おにい、見て見て!」
この日もそうであった。
正司が少し目を離した隙に、モコは正司から離れてしまっていた。
後ろから大声で呼ばれ、正司は苛立ちながら振り返る。
「四葉のクローバー。すごいでしょ」
モコは正司に駆け寄って、白い翼の中にある葉っぱを見せてくる。
ハートの形をした葉っぱが四枚、一つの茎に繋がっている。確かに四葉であるし、珍しいものであった。だが正司は口の端を引き攣らせて、わざとらしくため息をつく。
「それカタバミ」
「カタバミ?」
「クローバーじゃねえよ」
正司は顔を逸らせる。つれない兄の態度とは裏腹に、モコの好奇心に火がついた。
「カタバミってなぁに?」
「それがカタバミ」
「クローバーじゃないの?」
「違う」
ねえねえと、しつこく訊いてくるモコが
やっと諦めたかと、正司はせせら笑った。
横断歩道を渡り、小学校の裏門へ。正司は一足早く門のそばに着く。
そこでようやく後ろを振り返る。
「あれ? モコ?」
モコがいない。
普段であれば、正司の後ろを歩いているモコ。だがこの時は、いなくなっていた。
横断歩道を渡るまで、モコを全く見ていなかった。正司は今更後悔した。
義理とはいえ妹だ。両親に怒られるのは嫌だった。何より、このまま放っておくのは心配だ。モコはまだ小学生なのだから。
「モコー!」
正司は叫ぶ。もしかしたら近くにいるのではないだろうかと期待を込めて。
「モコー!」
もう一度叫ぶ。返事を期待する。
「おにいー!」
すると、横断歩道の対岸側、それよりももっと奥。空き地からモコが顔を出した。羽に覆われた片手を空に突き上げて、大きく振っている。
手には何かを持っている。緑色のそれがヒラヒラ揺れる。遠くからでは見えないが、おそらくクローバー。いや、カタバミかもしれない。
「今行くー!」
モコは空き地を出て走り出す。
トテトテと不格好な走り方で、横断歩道までやってきた。彼女は信号を見ることなく、横断歩道に足を伸ばす。
信号は赤。正司は目を見開いた。
左手から黒い軽自動車が走ってくる。モコはそれに気づいていない。信号の赤いランプにさえ気付かないのだ。
子供であるモコは、周りの状況が見えていなかった。
「モコ! 危ない!」
正司は
横断歩道の真ん中まで走ってきたモコの体を突き飛ばした。モコの体は押し戻され、尻餅をつく。
軽自動車は急ブレーキをかける。タイヤがアスファルトに擦れて、甲高い音を立てた。
正司は体に強い衝撃を感じた。小柄な体が宙を舞う。それは一瞬のことで、体はすぐにアスファルトの地面へ叩き付けられた。
庄司の額が裂け、血が溢れた。片目に入り、視界は赤く染まる。
正司は視界に入る赤色を拭おうとして手に力を込める。その瞬間、耐え難い痛みが正司を襲い、腕を動かすことができなかった。
唐突に、身体中が砕ける程痛いことに気付く。肺も痛くて堪らなくて、浅く呼吸するのが精一杯だ。
叫ぶことができない。
「おにい……?」
モコは、跳ね飛ばされた兄を呆然と見ている。
軽自動車の運転手は、一度停まって正司を見るものの、車から降りることなく走り去ってしまった。
ああ、これが
「おにぃ! おにぃ!」
モコは、持っていたクローバーを投げ出して正司に駆け寄った。正司のそばに屈み込む。
正司の安否を確認しようと、彼の肩を揺らしてみるが、正司は何も言えない。
「だ、誰か……」
モコは、その大きな瞳に涙を溜める。
すうっと大きく息を吸い込む。顔を上げ、口を開き……
「だれかーー!」
大きな声で叫び始めた。
「だれかーー! 助けてーー!」
「助けて! おにぃ死んじゃうーー!」
正司は薄目を開けてそれを見る。
勝手に殺すなと言いたいが、胸が苦しく声が出せない。
「助けてーー!」
喉が張り裂けてしまうのではないか、そう思える程の大声だ。
辺りの民家から、犬の吠え声が聞こえる。飼い鳥の共鳴が聞こえる。それらに負けない程の強い声で、モコは叫び続ける。
次第に、民家から人が顔を出てきた。
「大変!」
人間の女性が声をあげた。正司に気付いたのだ。
人間の男性も、
「どうしたの? 大丈夫?」
女性に
人間の男性は、スマートフォンで119番に電話をかけているようである。
正司の意識は、途端に薄れ始めた。
暗闇の中で、モコの泣き声がやたら響く。
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