第90話 回帰の狭間で(聖女視点)





 ──気が付いた時には、身体中が血塗れでした。



 返り血もあるが、その大半は私自身から流れ出た血液。

 手の爪はボロボロに割れて、

 足には大きな切り傷か残る。

 普段から崇められている私の面影は微塵もなく、ただ戦地で殺されかけた死にかけの人みたい。



 ──痛みはあまり感じなかった。



 見た目ほど傷口は深くなかったから。

 深く斬られなかったから。

 手加減されていたというか……対峙したあの真っ黒な騎士には迷いが見えた。

 彼が死に物狂いで私を殺そうとしたならば、きっと肉片としてバラバラに刻まれていたと思う。


「うっ……」


 口から吐き出したのは、大量の血。

 傷は深くなくとも、傷はかなりの数になっていた。


「諦め、ない……私は!」


 1人で歩む帰路。

 周囲は暗く、救いのない光景がずっと先まで広がっていた。

 人の姿に戻り、もう蛇の姿を維持する余力すら残っていない。

 でも、声だけは出る。

 掠れた喉から、搾り出した声は案外普段と変わらないように感じた。


「…………もう、失敗は、許されないのに」


 過去の過ちだけが残っている。

 記憶はなくとも、かつての私がどのような末路を迎えたのかはなんとなく分かる。

 運命を変えなければ、


 そうでないと、誰も報われない。


「選定者を──この世界を、変える存在を見つけないと」


 このままだと、この世界自体が崩壊する。

 それを自覚していながらも、今回の大敗によって救済すべき道は高い壁によって遮られた。

 あの黒騎士は、この世界において最も厄介な存在かもしれない。


 本来であれば、私に傷をつけることさえ不可能なこと。

 そう、常人であれば、私の命に刃を突き立てることは原理的に無理なこと。

 だから、外的要因によって、私が死ぬことはない。


 ──そのはず、だった。



「回帰前の私は……あんな化け物とどうやって渡り合ったというの? うぇ……っ!」


 吐き気が止まらない。

 最悪な気分なのは、目先に発生した大きな反乱分子の存在が深く起因していた。

 真っ赤な血液を通りに道に残しながらも、私はゆっくりと歩みを進めた。足は重い、けれどもあの黒騎士が追ってきていたらと考えると、歩みを止めることさえ恐ろしい。


 ──帰らなければ、今はただレシュフェルト王国の領地に戻らないと。


 その一心だけで私は動いている。

 まだ繋がるはず。


「記憶を残している……希望となる存在を、早く探し、出さなきゃ……」


 それができなければ、聖女レシアとしての役割を果たせたとは言えない。

 この世界は戦乱に焼かれる。

 荒廃もする。

 けれども、問題はそこではない。


「悲劇が起こるまで、もう時間がない……」


 世界崩壊の危機が待ち受けているのは戦乱後のことだ。

 記憶には残っていなくとも、そう本能に刻まれている。

 だから、レシュフェルト王国には、いち早くヴァルカン帝国を滅ぼして欲しい。そうして、ヴァルカン帝国にあるあの土地を活用して、本当の敵を討たなければならない。


 前回の世界線よりも、もっと早くに対策を立てなければ、いけない。

 私に記憶が残っていない以上、記憶のある者の力を借りなければどうにもできない。だから今回の戦いは絶対に勝っておきたかったのに……!


「もう、奪わせたりは……しない!」



 私がもっと頑張らないと。

 多くのものを救うために、やれることをやり、各地を奔走しなければいけない。


 でないと、





 ──人類はまた、滅びてしまうのだから。



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