アリーシャの過去

 

 三年前、小国ガーランディアの王妃室で産声が上がった。

 それと同時に、出産を終えた王妃ルリアナは悲鳴を上げて気を失った。


 助産師を務めたメイドは、アリーシャだった。

 血と胎脂に塗れた赤ん坊を手に抱いて、そっと産湯に浸からせる。

 微笑みを浮かべるアリーシャの胸の内には、こんな言葉があった。


(化け物)


 ルリアナからは死産と聞かされていた。

 自分も直接ルリアナのお腹に触れて、魔力の流れを確認した。

 そこには何もなかった。だから、胎児は間違いなく死んでいた。

 なのに産声を上げた。それが悍ましくて仕方なかった。


 ルリアナは恐怖と産後の疲れで気絶したが、アリーシャはそうはいかない。

 得体の知れない赤ん坊の世話が待っている。


(このまま手を滑らせて、殺してしまおうかしら)


 そんな企みまでする程の嫌悪感を抱いていた。

 だが不意にアリーシャはこれまで感じたことのない気持ちに襲われた。

 それは、赤ん坊が泣き止んで、薄く目を開けたときのことだった。

 その瞳に、アリーシャの姿が映る。


(何だろ、これ?)


 胸の内に、小さな明かりが灯ったようだった。

 赤ん坊と見つめ合っていると、顔に張り付けていた微笑みが本物に変わっていた。気づけば微かな笑い声まで漏れていた。そして視界が滲んでいた。


(あれ? どうして……?)


 涙が頬を伝っていることに戸惑った。

 アリーシャは、なぜ自分が泣いているのか分からなかった。

 その理解はゆっくりと訪れた。

 赤ん坊の瞳の先に、自分の過去が映し出されていた。


 最初の記憶は、背の高い男に手を引かれている場面。


『今日からここで暮らせ』


 石造りの部屋で、そう言われた。

 そこにはみすぼらしい服を着たエルフの子供たちが大勢いた。

 気づけばナイフを与えられ、暗殺者として育てられていた。

 

(ああ、そうか。この子も私と同じなんだ……)


 暗殺者としての最終試練は、エルフの王族の前で行われた。

 それは共に育った兄弟同然の仲間と殺し合うというものだった。


 戸惑っているうちに、仲良くしていた女の子に腕を斬りつけられた。


『ごめんね。でもアタシ、死にたくないの』


 震えて涙ぐむその子は、そう言ってまた斬りつけてきた。

 溢れる血の赤さと鋭い痛みにアリーシャは怯えた。

 死にたくないという思いが膨れ上がった。


 無我夢中でナイフを振るっているうちに、気づけば一人になっていた。

 試練を終えて呆然としていたとき、ルリアナが叫んだ言葉が思い出される。


『悍ましい! こんな化け物を、私の側仕えにしなくてはなりませんの⁉』


 ルリアナは口許を扇子で覆い、眉を顰めていた。

 そこには確かな嫌悪と蔑みの色があった。

 だが、アリーシャは何も感じていなかった。

 その頃には既に、心が苦痛に慣れ切っていたから。


(私にも、まだ、情も涙もあったんだね)


 アリーシャは、赤ん坊に対する不快感が愛おしさに変わるのを感じていた。

 それは、過去の自分に向けての慰めでもあった。


(かわいそうだよね。私たちって。好きで化け物になったんじゃないのにね。勝手に化け物にされちゃったんだよね。悔しいよね。悲しいよね)


 また泣き出した赤ん坊と一緒に、アリーシャも泣いた。

 ルリアナの世話をする他のメイドが怪訝な顔をするのも気にせず、静かに笑い泣きしながら、赤ん坊の世話をし続けた。この子を守ると心に誓って。

 

 

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