第86話 童貞の黒歴史は踊る(8)
「ミナ!何があった!?」
イッサクの呼びかけに、ミナは小刻みに首を横に振った。
「あの男が……先王が……、死体たちの頭の中に……。
私をあっちに連れて行こうと」
イッサクの顔に深い影が浮かんだ。
ミナの言葉で神殺しの目的が見えた。
王族たちは、自らが神なろうとした。
神になるには、必要なことがふたつあった。
ひとつは、自分たちを崇める新しい人間を作ること。
もうひとつが、ほかの神を崇める人間を滅ぼし、古い神々を葬り去ること。
そのための人間の魂を書き換え、人間を滅ぼす力をもった女がミナだ。
王族たちのつまらない欲望のために、ミナは造られ、弄ばれた。
ミナと先王の関係を知るに至り、イッサクのうちにある、黒く赤い灼熱の塊がつよく脈打ち始めた。
「立てるか?」
イッサクが優しくいうが、ミナは首を横に振る。
「しょうがねーな」
イッサクはため息をつくと、いきなりミナをしっかりと抱きしめた。
「どうだ?」
「どう……って……」
ミナは驚きのあまり、気を失いそうになった。
イッサクの体の大きさ、硬さ、力強さ、そして温もり。
初めて感じたそれらは、ラヴクラフトが与えるのとはまったく別次元の快感で、ミナの体が、魂が、存在のすべてが歓喜の叫びをあげた。
目眩をしそうな幸福感は、恐怖で凍っていたミナの体を一瞬で溶かした。
夢ならな覚めないでほしい。ずっとこの幸福感に包まれていたいと、ミナは目をうっとりと潤ませ、自らもイッサクの背中に手を回す。
「おっと」
だがイッサクは、するりとミナの手から逃れた。
それでも夢見心地のミナはイッサクに抱きつこうとするが、イッサクはゴツンとミナのおでこを剣の柄で小突いた。
「痛ぁ」
「調子に乗るな」
イッサクは一人でさっさと立ち上がって、ミナを見下ろす。
ミナは不満をあらわに頬を膨らませながら、しぶしぶ立ち上がって剣を取り直した。
「精神干渉、できそうか?」
「ちょっと、無理かも……」
「やっぱりクズオヤジが怖いか?」
ミナはうつむいて小さく頷く。
「ほれ」
イッサクがミナに左手を差し出した。
ミナは反射的にその手に飛びついてから、イッサクを見上げる。
「なにするの?」
「気合を入れてやる。薬指に意識を集中して」
イッサクの左の薬指にはもう結婚指輪はない。
代わりに、肌を無理やり削ったような傷跡が生々しく残っている。
ミナはきゅっと唇を固く結ぶと、イッサクの手を強く握った。
ドンと、ミナの体の内側が揺さぶられた。
それはゆったり規則正しく、そして暴力的な脈動で、イッサクの手から伝わってきていた。
イッサクの鼓動……ではない。
それは心臓よりももっと奥から、心の深いところから響いてきているようだった。
ミナが怪訝そうにイッサクをみると、イッサクはヘラと笑った。
「んじゃ、気ぃ張れよ」
左の薬指に、パシンと刺激が走った。
すると、ミナの視界が真っ暗になった。
黒く赤いなにかの中に放り込まれた。
そこは熱かった。体が燃やし尽くされそうな灼熱だった。
そこは重かった。声も、光も、心も捻じ曲げられ、自我が自壊しそうな地獄だった。
こわい。こわい。こわい。こわい。こわい!
ミナは叫んだ。
その声が、誰にも届かず、自分の耳にも聞こえなくて、また叫んだ。
先王に抱いていた恐怖とはまったく違う。
あの男はミナを犯し、快楽を与え、心を踏みにじってきた。
自分が狂っていくようで、そのことが今でも怖かった。
だがここは比べ物にならない。
ここには破壊しかなかった。
己を破壊し、他人を破壊し、世界を破壊しようとしていた。
自分が破壊され、自分を破壊するものすら破壊し存在を奪ってしまう。
完全な孤独。完全な存在の否定。
ここに比べれば、先王のほうが慈悲深いとすら思った。
ミナは叫んだ。
消えたくない。
破壊されたくない。
自分はここにいると、泣き叫んだ。
バチンと、頬を叩かれた。
気がつくと、イッサクがミナの左手を握りながら、顔を覗き込んでいる。
ミナの顔は涙で濡れていた。
喉が焼けそうに痛い。
息は乱れ、心臓が狂ったように鳴っている。
イッサクは泣き叫んでぼろぼろになったミナに、笑いかけた。
「俺とあのクズと、どっちが怖い?」
イッサクの左手からまたあの脈動が伝わってきた。
ミナは反射的にイッサクの手を離そうとするが、イッサクは何も言わない。
ただ笑って、ミナを見ている。
そのとき、怯えるミナの中で小さな火がついた。
カチンと来た。
ムカついた。
イッサクが恐ろしいことなど、とうの昔、半殺しにされたときからわかっていたことだ。
あのときから、ミナはイッサクを独り占めしたいと願った。
この恐ろしい王の心を自分だけに向けさせようとしてきた。
この男の怒りを、嫉妬を、憎悪を、自分だけに向けさせたかった。
イッサクのむき出しの欲望を知る女は自分だけでいい。
それがかなったとき、ミナはイッサクを独占できる。
王を仰ぎ見るだけの他の国民と違い、自分だけがイッサクとともに歩むことができる。
その思いだけで、今までやってきたのだ。
いまさら負けるわけにはいかない。
ミナは両手で、離しかけたイッサクの手を掴んだ。
「私はあなたの妻よ!」
ミナの目が再び輝き出し、精神干渉が起動した。
死体たちの中から、先王の声が響いてくる。
弄ぼうとし、辱めようとし、犯そうとしてくる。
かつてこれらの一つ一つが、ミナの心に深く、癒えない傷をつけてきた。
これより怖いものなどなかった。
だけど、もう違う。
これより恐ろしいものが、いまミナの手を握っている。
これを手に入れるためなら、この程度の傷など痛くも痒くもなかった。
「燃えてなくなれ!!」
ミナの怒りが、命令概念のエネルギーとして放たれた。
直後、死体たちの頭が、一斉に激しい炎に包まれた。
金色の炎が、館のオレンジ色の暗闇を消し去ると、死体の群れはあっというまに燃やし尽くされ、後には灰すら残さなかった。
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