第47話 据え膳食わぬ童貞から愛を込めて(8)

 黒い飛沫が青く暗い光の中に吹き上がり、リリウィの顔をべったりと汚した。

 ガクガクと首を震わすイッサクを目の当たりにしながら、リリウィは恐る恐る自分の頬に指をそわせる。

 指先についた黒いものは、錆臭く、生臭く、少し温かい。

 それが今もイッサクの首から噴き上がり、リリウィの顔と体を汚しているとわかり、リリウィは両目をこれ以上なく見開いて、叫んだ。



「馬鹿!!どうしてこんなこと!!」



 リリウィは両手でイッサクの首の傷を押さえた。

 その目からは享楽も悲嘆も消えていた。



「……お前は邪神様の手がかりだからな」



 イッサクは笑うも、血は止まらず、顔からは文字通りに血の気がどんどん失われていく。



「馬鹿馬鹿馬鹿!!」



 リリウィがイッサクの首に手を当てながら狼狽えている背後に、いつの間にかそこにたヒスイが言った。



「大丈夫です。どうせ回復薬を隠し持っているはずですから」 



 ヒスイは呆れたように見るが、イッサクはへらへらと力無く笑う。



「あれ……かなりレアなんだぜ……」



 イッサクが、がっくりとリリウィの胸に倒れ込んだ。

 抱き止めたリリウィの全身が赤黒く濡れていく。

 イッサクの体から、力と温もりがなくなっていくのが肌でわかった。

 ヒスイは、イッサクの傷の深さに目を剥いた。



「あなたは馬鹿ですか!?回復手段もなしに、自分でこんな!」



「……加減が……狂った。まったくあいつのせいだ……」



 イッサクの瞼は落ち、声は寝言のように頼りなくなっている。

 どうしようもなく迫りくる死の気配に、リリウィが叫んだ。



「勝手に逝かないでよ!」



 グラスを叩き割ったような叫びに、イッサクはうっすらと目を開いた。



「‥‥王族が憎いんだろ?最後の王族の俺を殺したいんだろ?」



「そうよ。憎いわよ。

 うちの手で根絶やしにしてやる。

 当たり前でしょ、最低なんだから。

 でもうちも最低。

 うちは友達を裏切って、あんたたちに売った。

 そんな最低の女が一緒にいていいのは、あんたたちしかいないのよ」



「なんだその拗らせ方。わけがわからん‥‥」



 イッサクは唇の端だけで笑うと、血まみれの両腕でリリウィを抱きしめた。

 力のない、ただ手を添えただけの抱擁だったが、リリウィは身動きできない。

 いや、イッサクの腕の中から出たくなかった。



「そこまで友達を想えるならお前は最低なんかじゃない。

 俺とは違う、優しくていい女だ。

 史上最低の俺が保証してやる」



「でも、うちはヨーちゃんを‥‥」



「間違ったなら謝れば……」



 言葉はそこで途切れ、イッサクの両腕が、だらんと落ちた。

 胸に感じるイッサクの重みが、鉛のようにずんと冷たくなった。



「ちょっと!ねえっ!」



 リリウィは乱暴にイッサクの肩を揺さぶるが、イッサクは答えない。

 あれだけイッサクの首から激しく噴き出していた血も止まった。

 リリウィがヒスイに叫ぶ。



「回復魔法で、なんとかできないの!?」



「傷が、せめてもう半分浅ければ……」



 いまや死神がイッサクをつれていこうとしていた。



「……させない」



 リリウィは目を閉じ、イッサクを抱きしめた。

 イッサクの冷たい体から、命を搾り出さんばかりに、力の限り強く抱きしめた。



「絶対に逃さないんだからっ」



 見開いたリリウィの両目に、再びミナと同じ魔の光が戻っていた。

 だがその光には、それまでとは違い、部屋を満たす青く暗い光を払い去る、明るさと力強さがあった。

 リリウィはぐったりとしたイッサクの頭を両手で抱えると、自分の額をコツンと当てた。



「うちの最低をあげる。だからあんたの最低をよこして」



 リリウィはゆっくりと目を閉じた。

 そしてリリウィとイッサクは抱き合うようにして倒れてしまった。

 呆気にとられていたヒスイは、二人の体に生じた変化に、思わず口に手を当てた。

 イッサクの手の施しようもないほど深かった傷が半分ほどに小さくなっていたのだ。

 そしてさらに、リリウィの首に、イッサクのと同じ場所に同じ大きさの傷が現れ、血が流れ出していたのだ。



「なに、これ……」



 しばしヒスイは二人を前に呆然としていた。

 だがすぐに頭を振って自分を叱咤した。

 ぼうっとしている場合ではない。

 この傷なら自分の力でもなんとかできる。

 イッサクに助けられてしまった借りを返すのはいまだ。

 青く暗い部屋で、ヒスイは一人、全力を尽くして、二人の傷の治療に取り掛かった。

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