第10話 熱い吐息と触れる肌

「――ですが一つだけ、良いですか?」

「なんでしょう?」


 首を傾げてアリスの質問を促す。するとなんとアリスは、膝を折ると私の手をそっとその両手で取ったのだ。


「あ、あの⁉」


 突然のことにぎょっとして手を引こうしたが、ぐっと握られて手が離れない。

 間近で見るアリスの顔は本当に綺麗で、逆光になっているはずなのに青い瞳がきらきらと光って見える。むしろバックに月を背負っているので後光が差しているごとしだ。


「貴方の、」

「はい⁉」


 アリスの形の良い唇が綺麗に動く。私はドキドキしながら唇が動く様を見ていることしかできない。

 これ絶対何かのイベントだよお! ゲームではこんなシーンなかったのに……なるべく好感度上げないような返答しなきゃ……!


 一言一句聞き逃さないぞ、と力を込めて目と耳を傾ける。アリスはそんな私の気持ちは全く知らずに、にこりと笑った。


「貴方の名前を教えてください」

「……なまえ?」


 なまえ、名前? ってあの名前か。え、それだけ?

 呆気ない質問に逆に虚を突かれてぽかんとする。アリスはにこにこと頷いた。


「はい。ずっと巫女殿、というのも味気ない。妹殿にあるのですから、貴方にも名前がありましょう」


 神様のは咄嗟に思い付いた偽名だけど、勿論私には名前がある。名前ぐらいなら好感度には何も影響しないだろう。エンディングまでとはいえ、これから魔物退治をしていく仲間なのだから、私も巫女殿、よりは名前で呼ばれたい。


「……空、です」

「ソラ? あの空と同じ名前ですか?」


 とりあえず名字は置いておいて名前だけ名乗ると、アリスは振り返って空を見て、私を見た。私はこくりと頷く。アリスはパッと顔を輝かせ微笑んだ。


「空。素敵なお名前ですね。貴方にぴったりです」


 そしてなんと、またもや私の手の甲にキスをした。


「っ⁉」


 柔らかなアリスの唇の感触が、私の手にぽつりと残る。驚きで声も出ない私の顔をアリスは真っすぐに見つめて、真剣な顔で続けた。


「空のことは私が守ります」

「えっ⁉」


 好感度どうなってる⁉

 一体全体これはどういうことなのか。まだ序盤も序盤、会話らしい会話も今が初めてだというのに、この状況は何⁉


 なんて返せばいいのかもわからず、言葉にならない言葉を発しながら狼狽える。するとアリスは真剣な顔から穏やかににこりと笑って、私の手を離した。


「空は我が国に来てくださった大事な巫女殿ですから」

「あ……そっか、そうですよね……あはは、私てっきり……」


 てっきり、好意を持たれての発言だと誤解してしまった。恥ずかしい。


 熱の集まる頬を手で触ってなんとか冷やそうとしていると、アリスにまた手を取られてしまった。

 驚いてアリスを見ると、アリスも自分の行動に驚いたように、目を丸くしている。それでも私に言いたいことがあるようで、その態勢のまま口を開いた。


「その……てっきり、の続きが、気になりまして……」

「あ、その……」


 言えない。私のこと好きなのかと思ったなんて、そんな自惚れたこと……!


 何も言えず、かと言って羞恥で真っ赤に染まった顔を見られるのも恥ずかしくて、アリスから顔をそらす。

 すると私の手首を掴んでいるアリスの手に少しだけ力がこもり、え、と思う間もなく、私の体はシーツに倒されていた。


 呆気にとられたままぽすんと体がベッドに沈む。元々ベッドにいて起き上がっていたので、強い衝撃はない。ただ心の衝撃はすさまじい。

 一体これはなんだ? 何が起こってるの? もしかして私、押し倒されている?


 でもそんなこと考えずとも、目の前を見れば明白である。青い瞳の、とんでもない美人が、切羽詰まった顔で私を見下ろしていた。


「ごめんね、やっぱり嘘」

「え?」

「本当は、私個人の気持ちとして空を守りたい」


 白銀の髪が、私の顔の横にさらさらと落ちてくる。

 何を言われたのかわからなくて、一瞬思考が停止する。真っ白になった頭にぽん、とアリスの言葉が入って来て、徐々にその意味を理解し始める。


 それって、それって……私のことが、好きってこと⁉


「お、王女、様?」


 あわあわと、震える声でアリスを呼ぶ。だがそこで衝撃的なことが起こった。


「アリス」

「えっ」

「私のことも、名前で呼んでほしい」


《名前で呼ぶ/名前を呼ばない》


 こ、これは……選択肢!


 なんと空中に浮かぶように選択肢が現れたのである。まさかそんなシステムだとは思わなかった。

 どうやらアリスには見えていないようで、真剣な顔で私のことを見ている。これは明らかに恋愛イベントだ。どちらかを選べば確実に好感度が上がる!


 シチュエーションが違えど、本家ゲームでも同じような選択肢が序盤に出た。その時は勿論名前で呼ぶを選択し、以降アレックスのことは名前で呼んでエンディングまで進んだ。


 ファンラブには選択肢の際、選んだ選択肢が好感度アップの選択肢だろうが、ダウンの選択肢だろうが、特にエフェクトは用意されておらず、選択が正解だったかどうかわからないようになっている。

 まあ何週もやりこんで全ての選択肢を選んだり、攻略サイトを見ればわかるのだが、生憎私はキャラごとにまだ一周しかしておらず、攻略サイトは見るタイプではない。


 だからどっちが好感度アップの選択肢かわからないが……ここは無難に名前で呼ぶ方がアップにつながるだろうと予想。

 私の目指すエンディングは誰とも付き合わないノーマルエンドである。ここは《名前を呼ばない》を選択する!


 心の中でそう決めると、空中に浮かんでいた選択肢の《名前を呼ばない》方が明滅し、選択肢が消えた。

 すると私の頭の中に名前を呼ばないですみそうな良い言い訳が浮かび、それを口にする。


「あの、さすがにそれは、ほら、部下の人たちがきっと嫌がるから、名前じゃないほうがいいのかなーなんて……」


 部下思いのアレックス、じゃない、アリスである。これは頷くのでは⁉


「空は別の世界から来ているのだから、立場は関係ないよ」

「えっ⁉」

「え?」


 予想外である。選択肢から授けられた言い訳。必ず成功すると思ったが、まさか躱されるとは!


「うっと、でも、その、」


 ほかに良い言い訳も浮かばず、目を泳がせながらもごもごとする。

 するとアリスは切なげな顔をして、悲し気に聞いてきた。


「……そんなに、いや?」

「っっっっっ!」


 悲し気に伏せられる長い睫毛に、心なしか暗くなる青い瞳。

 美人のそんな顔を見て、頷かずにいれる人間がいるのか? いや、いない! これはきっとそうだ、どっち選んでも結果変わらないパターンの選択肢に違いない。

 だから、しょうがないのだ。


「あ、」


 発した一言に、アリスがピクリと反応して私の顔を見る。やけに注目されているし、押し倒されているこんな状況だしで名前を呼ぶだけなのに恥ずかしくなる。

 また熱くなっている頬に気づかないフリをして、小さな声で名前を呼んだ。


「ありす……」

「っ、」

「……あ、あの?」

「ああ、もう……ダメ、」


 何がダメなのか。それを聞く前に、私を押し倒すようにしていたアリスの体が、私を抱きしめるようにして密着してきた。突然のことに体が固まる。そのままアリスの唇が私の耳元で止まった。

 心臓がドキドキと早鐘を打つ。一体この状況は何なのか、今何が起こってるのか、ただひたすらに混乱して、体全部が心臓になったみたいにドキドキしている。


 そうしていると、私の耳元にアリスの熱っぽい吐息が聞こえてきた。


「空、」

「ひゃいっ!」


 名前を呼ばれて、思わず変な返事をしてしまう。それぐらいに、今緊張している。


「もう一度、私の名前を呼んで……?」


 そう囁くアリスの声は艶っぽくて、熱くて、私の耳が溶けてしまうんじゃないかと思うくらいだった。いや、もう溶けてるかも。

 体中のどこもかしこも、アリスと触れているところは燃えるように熱い。吐息がかかる耳も、白銀の髪が触れている頬も、掴まれている手首も、私の胸を押しつぶすアリスの柔らかな胸も、絡み合う足も。

 

 全てが熱くてでも柔らかくて、ドキドキと心臓がうるさいのに、アリスの息だけはクリアに聞こえる。


「……アリス」


 言われるがままに名前を呼べば、私の耳元からアリスが顔をあげた。

 アリスの白い、きめ細かな頬が朱に染まっている。空のように澄んだ青い瞳は、今は海のように濡れている。

 扇情的で、幻想的で、綺麗だ、と思った。


「空……」


 呼ばれる名前に、体が熱くなる。熱くて、ドキドキして、名前を呼ばれてこんな気持ちになったのは、初めてだった。


「…………」


 もう、どちらも言葉を発さない。元々近かった青い瞳が、もっと近くなって、それで――。

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